などというCMでおなじみ。CMなのに、タイトルを全部言わせてもらえない、月9始まって以来の可哀想さ加減(爆)。そんなあたくし。見てましたよ毎週。ただ・・・・・・・・・・・・・・・・。惜しくも2回目を見逃し、ネット仲間のシヴァ氏に、あらすじを解説していただき、ようやく物語りの、事となりを把握して、さて、これからどうなっていくものやら・・・・・・・と、かなり期待に胸膨らませ視聴していた、アホアホTV人間の1人です。で、昨日、最終回。昨夜、薬をがっつり飲んだにも拘わらず、深夜に目が覚めて、そこから安定剤やら、眠剤やらを少しずつ追加投与するにもなかなか寝付けない。最終的には、入眠用の眠剤を1錠、ごっくんして、七転八倒した挙句に、寝付けたのは、もうめざましテレビが始まっている頃だった。いつもなら、別に追加投与なんかしなくても、きちんと6〜8時間はキッチリ眠れるはずなのである。どうしたもんだか、全くもって、トホホ・・・・な気分。いつもの薬だけで、3時間しか睡眠がとれず、しかも目が覚めるとまだ日付が変わったばかり・・・・なんて、非常にガッカリなわけで。仕方なく、眠れないでいる間、ビデオに撮っておいた「空から降る一億の星」を見ていた。ネットなんかで、感想を述べている人たちを覗き見てみると、「感動した」「号泣した」というのが8割。残りが2割といったところだろうか。あたくしにしてみれば、どこのどのシーンで、感動して号泣すればいいのかさっぱりわからない。さぁ。文芸人(兼業役者・・・・トホホ)としての血が騒ぎます(爆)。まず。北川悦吏子という脚本家はとても優秀な人のはずで、実際に本もよく書けている。キャスティング・・・・これはもう、どうこう言う問題ではない。月9にCXがどれだけの精力を傾けているかというのがありありとわかるので、皆まで言わなくとも、ちゃんとした人間を連れてきている。たとえ、演技に多少の難があるとしても(誰とは言わない。わかりやすいから)それ相応の話題と、売り込み戦略とで、立派にドラマの一角を担っていた女優も別に叩くべき対象ではない。あたくしの嗜好が入ってしまうと、2〜3人、ぶった切りたいのはいるけれどそこは、それ。あたくしの嗜好で映画を作っているんじゃないし、こっちは一視聴者なわけだから、あれこれ文句を言っても始まりません。カメラワーク。これも問題ないでしょう。面白いつくりだと思います。上手に北川さんの本を料理しているし、明度、彩度ともに、シーンの切り替えに応じて、面白い絵を創り上げていた。そうなってくると、叩く相手はただ1人。そう・・・・・役者の敵(爆)、演出家です。本来なら、キャスティングから練り直し、木曜10時枠くらいにぶつけてきてもおかしくない、この作品。木曜10時なら、多分、監督も気合いの入り方がまた違うだろうし、起用される監督も、全然別の人だったと思う。月9だから、この程度の物語で終わってしまったんだ。嗚呼。勿体無い、勿体無い。片瀬涼(沢田省吾)、堂島優子、堂島完三、宮下由紀、西原美羽、日下圭太(優子のお見合い相手)、杉田琴子(完三の同僚)、それぞれの「孤独」を描いたのであれば、詰めが甘いし、プロデューサーの高井氏が言う通り「究極のラヴストーリー」とするのであれば、兄弟姉妹愛や親子愛、恋愛を超越した何か・・・・への切り込み加減が浅すぎる。最後は泣ける・・・・<高井氏談冗談じゃない。主人公を殺してしまって、未来なき人にしてしまえばそれで泣けるか??それは安直。どうして、北川悦吏子という脚本家が、2人(涼と優子)を絶命させたかの意味が、もうまるっきり死んでしまっている。それまではあんなに上手に組み立ててきたというのに、最後の最後で以って、1つのジェンガの抜き加減を誤ったばっかりに、ガラガラと塔が崩れるような感触だけが残った。それまでに死んでいった人の数々は、それなりに意味を持った死を遂げていた。自発的に・・・・もしくは誰かの強い思惑により。その積み重ねの結句が、血の繋がった兄を殺した瞬間、実の兄であることを悟った優子が半狂乱になる・・・・きっとコレは本の通りだと思う。そして、その時に「お兄ちゃんは、あたしが守る。」とキッチリ断言しているから、頑固にその思いを貫き通して、実の兄と共に死を選ぶ優子・・・・コレも本の通りだと思う。ただなぁ・・・・。決して、あのシーンはOK出せるもんじゃないと思うんだよな。木村拓哉はともかくとして、深津絵里はもっともっとできたんじゃないかと思うのだ。彼女のことは、まぁあたくしの個人的な嗜好としてあんまり好みじゃないのだけど、実力はガンガンあるはず。そう、だから半狂乱のシーンまではよかった。今までの、すっとぼけた感じとは違って、何かしらこう熱いものが溢れてきたのは確か。コレは素人目で見たって十分にわかる。素人目にも十分にわかるところを通り越して、舟に乗り込み死に挑むあのシーン・・・・スパートをかけるのはそこからでしたね、深っちゃん(笑)。非常に惜しい(爆)。明石家さんまについては、ノーコメント。彼は、ドラマの上では、キーパーソンであるにも拘わらず、結局、スパイス的効果の人だからだ。彼よりもキッチリした感じの俳優を起用すると、確かにドラマは締まるかもしれないけれど、月9でなくなってしまう(爆)。さっさと木10にお引越ししなきゃ♪になってしまう。ドラマの撮影で、タリーやモニターを目で追うのはやめましょう>さんま&宮迫***********************************************************************見ている人の凡そ8割が、絶賛しているのだから、さぞかし、いい数字が取れたことでしょう。ちぇっ・・・・・・・いつだってマイノリティは蚊帳の外だぜ(爆)。北川悦吏子さんの本らしく、最後もちょっとした匂いを残しつつ物語は終わっていったのだけど、山場が薄かったせいか、その匂いも、いつもより希薄。それよりも、あたくしは自分自身に、ちょっとした危惧を感じている。フィクションの作品に対して、とんでもない期待を膨らませすぎな傾向にあるみたい。例えば、この作品にしたって、ノンフィクションならかなりドラマ性に富んでいてかなり怖いし、かなり美しいし、かなり完成されている。なのに、フィクションだというだけで、あたくしの感動は一気にどこかにいってしまうのである。この作品を「火垂の墓」に擬えて、すごく感動した・・・・といってらっしゃる人もいた。あれも、兄と妹の切なる物語で、まぁ、ジブリの手にかかってしまったからあれだけ公に広まったというのもあるのだけれど、原作の野坂昭如の小説は、フィクションを凌駕し、グロテスクで感動を凌駕し、畏怖みたいなものがあった。とにかく、フィクションとノンフィクションの境目はいつだって曖昧だけれど、それを上手に生かせているか否かというのは、映像作品を創るにあたっては、もう、メガホンを執る監督に一任されているといってもよい。血の繋がりや、記憶の繋がり見たいなものを、あたくしはあの本から汲み取ったわけだけど、最近ではそういう、基本中の基本の固定概念はあんまり露出しないのだろうか?そういう手法は時代に逆行しているのだろうか??だけど、いつだって日本人はそういう手法に泣かされてきたんじゃないのか?欧米だって、日本と感覚は一緒だ。役者と監督が一丸となって、そんな当たり前のヒューマンドラマを丁寧に作って、輩出している。いつの間にか、1クールが3ヶ月になってしまった時代を憂う。「渡る世間〜」がいつまでたっても終わりを迎えないのに、ちゃんと数字が取れているのは、目新しさばかりを追及するのではなく、すぐ横で起こっていそうなことをホント、リアルに表現しつづけて、挙句の果てに、17歳にして趣味がゴルフというオッサン少年を作り上げてしまった功績が、モノをいっているのだと思う(嘘)。