せっかく復活したことですので、ネタ尽きるまで、そう・・・・ハッタリをかましてでも!・・・・なぁんていう無茶はしませんが、モノ書けるうちが華、歌読めるうちが華と思い、精進、邁進したいなぁ・・・・なんて、どこの不良ゲージツ家の口が(苦笑)。先頃、『ゴザンス』に、ことばあそびとテーマ(特集)の2つを入稿したところ、2つともピックアップに載っていたので、少し調子に乗っています(爆)。書きゃ何とでもなるんじゃねぇか・・・・なんていう誤解もしてます(爆)。そういや、あたくし、自分のサイトからゴザンスの記事へのリンクを全然飛ばしていませんでした。カテゴリ的には、「エッセイ」に近いので、そのうち、「龍胆の間」あたりから飛ばしたいと思っています。実は。『ゴザンス』に入稿した記事のうち、といっても、しばらくサボってた期間もあるので、そういくつも提出してはいないのですが、6作投稿して、うち4作がピックアップに登場しているので、あの場所では、かなり打率が高いことになります。まぁ、本来の目的は、闘病記録をオンデマンド出力で書籍として出版することだから、打率が良いとか悪いとかは全く関係ないんだけど、素直に書いた文章が、そのまま受け容れられることは、自分のアイデンティティにも繋がってそれはそれでいいな・・・・と思う。人目の触れるところに作品を出しておくと、評価もされるが批評も同じくらいされる。そういう、大前提の下での勝負なわけだから、輩出した作品がそれとなしにきちんと評価されているのを知ると、悪い気はしない。モノを書いて、それで食う・・・・というのがあたくしの将来の夢、みたいな感じでそうだなぁ・・・・中学に入った頃にはもうそんなことを考えてたわけだけど、あの頃はまだ、出版界も右肩上がりで、とても景気が良かったからそんなことを考えられたのかも。で、今ですらそれを捨てきれていないということは、こりゃ、よっぽどのことなんだろうな、と自分でもそう思う。芝居も大体同じような位置付けだけど、どっちを先にやめるかと問われたら、多分、ペンは一生放さない!!と言い切るかもしれない。昔、断筆してしまったことを凄く後悔した覚えがあるからだ。どうして記録を残さなかったのか・・・・この右手は、そのために神様からもらったようなものなのに。そうやって自分を責めた。以来、どんなに辛いことがあっても、1日に何か少しだけは「書く」ようにしている。そんなわけで、本日の兼題は「くさばな散歩道」ネタ尽きるまで頑張ります(爆)。・・・・歌人なんだから(自分で自分を励ますための肩書き(苦笑))。木蓮のその立ち姿が眩しくてそのかぐはしき香も愛しくて縋るよに見上げた大樹はもの云はず幹がそのまま懐になり愛を告ぐ私を後ろで見てたのは色づく前の銀杏並木よ葉に露をたくわえ玉の水光る涙越しに見る鉢、銀竜草(ぎんりょうそう)蒲公英は摘めばひとひの命なりされどその根の永久の強さよ清流に白く輝く花山葵(わさび)吾の舌をも刺激するなり春は梅、桜ばかりのときでなしこの街に咲く躑躅(つつじ)の主張一輪の鬼百合のそばに何もなく何故彼女が「鬼」なのかしらくしゃくしゃに渇いた落ち葉を踏みつけて自分の心の身代わりにする冬のコートにさよならを しようと畳みかけた時フードの中から赤い花 ぽとりと春を告ぐ椿「花のいのちは短くて・・・・」なんて、林芙美子みたいなセリフだけど(笑)(嗚呼・・・・異様に「放浪記」が見たい・・・・)我々人間の命に比べ、確かに短すぎるなぁ・・・・と思う反面、樹木の年輪を見たりすると、我々よりも遥かに先輩だったりして、植物というのは、何故かいつも神秘的。あたくしは自分で、花や草木を育てることをしないのは、情が移ってしまうからだ。自分の庭で華やかに咲いたその先にあるものを、あたくしは知っている。木蓮など、本当に可哀想で、並木を見るのも忍ばれることがある。花が落ちてしまったその後に、人は寄り付かない。とても儚い。だから、「瞬間的」に目に入ってきたものだけを追うようにしている。全てを受け容れようとすると、あたくしはキャパシティオーバーを起こしてしまうからだ。花も人も同じ・・・・。「瞬間」を上手に繋ぎ合わせて生きている。目立たない原っぱの草花も、よく手入れされた温室の蘭も、皆同じ。だから、密やかな悲しみが、そこに漂ってしまう。命を絶たれなくとも、誰も見向きもしなくなってしまう「瞬間」が花にはあり、人もまた、生き方によっては同様で、死なずとも孤独と闘わねばならないことが稀にある。でも、「ここにいるんですよ。。。。」という哀しいくらいに小さな主張が人にも花にもあって、それに気付いてしまうと、何かが琴線に触れる感じがする。人に対しても。花に対しても。ついこの間、今シーズン初めて、木蓮を見た。↑彼女たちのその先もまた儚く哀しい・・・・。美しく花をつけていて、並木になっていた。葉のない木蓮の樹は、まるで白い鳥が集まってきたかのようにこの季節、一瞬だけ賑やかになる。そう。「一瞬」だけ。花が落ちた幹は、本当にこれから夏を迎えるのかと思うほどに殺風景な丸裸。その「瞬間」を毎年春になると目にしてきたあたくしは、桜の儚さよりも、木蓮の儚さに情が移ってしまい、夏になっても、木蓮の幹を探す。桜は、夏になっても緑が生い茂って、生き生きとしている。葉桜というヤツ。「一瞬」に賭して最も大きな声で叫ぶ、春の花、木蓮。桜の花見客が押し寄せる前に、彼女たちの主張は終わっていくのだ。