大学街っていい。人はたくさんいるのになんだか空間がスカスカしている。 食べ物屋さんもいっぱいある。一人で入りやすいお店がいっぱい。 江古田も好きだったけど、西池袋もなかなかだ。突然はじまってすぐ終わる大学街。江古田は町全体、そういう雰囲気だったなあ。 いま、気に入っているのがインドカレー屋さんなのですが、カウンターなので、暇だと三人のインド人にチラチラジッと注目される。ラッシーサービス。三人ともすごく日本語うまい。すべてのお品の消費税込みの値段も覚えてる。このインド商人め。三人の会話はあれは、何語なんだろう?ヒンディー語ではない感じ。あくまで感じ。 しばらく飽きるまで、全カレー制覇するまで毎週通うつもり。チェーンのスタンドカレーのように安くないけど、サフランライス真っ黄黄。ナンはアチアチ(すぐちぎれないほど)。カレーも食べているとふと丁子の葉を噛んだりしてスパイシーだ。そしてテーブル席のあるインド料理店によくあるように、ぬるくない。だって目の前でカレーの元(よくわからないけど、スパイスとかフルーツとか油とか水?)と具(トリとか野菜とか海老とか卵とか)をフライパンでジャッジャあわせたのをすぐ出してくれるんだもん。
学校も行くたび新しいものを見聞きできて楽しい。それを覚えられるかどうかはまた別なんだけど。 今日の西班牙語クラスでのメキシコの歌の歌詞のはなしの中で Argentina先生 が、 「コヨーテって、日本語ではなにですか?」 と尋ねたところ、同じクラスの北の国の二代目ワンマン社長に激似の男性が、 「狼・・・」 と言ってしまったがために、 「狼はどこに住んでいますか。」 「山です。」 「そう、でも砂漠にもいるでしょう。」 日本人みんな???????(いないとおもう・・・ いるのかなあ・・・) 「アメリカとメキシコの国境にある砂漠に住む狼が・・・うんぬんかんぬん。砂漠の砂嵐に巻き込まれたのか、狼に襲われたのか・・・うんぬん・・・」
先生、日本には昔も今もコヨーテはいないので、コヨーテにあたる日本語はないのです。日本でもコヨーテという動物の名前はコヨーテなのです。狼とコヨーテはぜんぜん別のものです。
と、言えばよかったのですが、二代目きむ社長にそっくりな男性の面子がつぶれるかも(彼はいままでほとんどまったく発言していなかった。)、と限りなく日本人的な思いにとらわれているうちに、そのまま話は砂漠の狼はなにを比ゆしているのか、と別方向に進んでしまったのでした。コヨーテと狼は違うってわかってるからいいけどね。先生もいつかそのことを知る時もあるでしょう。 でも次回は甘やかさないぞ 二代目。
訳せないものはたくさんあるですね。 フランスでも、アベニューとブルヴァードは どっちが広い大通りなのか、フランス人に尋ねました。わかんないもんね。アベニューだそうです。 今日も西班牙語では、avenidaアベニーダ そのアベニューの話になって、日本語的には 大通り なんだけど、明治通りや昭和通りはアベニーダっぽくない。原宿のあたりはアベニーダっぽいか。並木道なのか?でもこれもズバリな感じでもない。札幌の雪祭りをやったりする大通りや広島の平和記念公園の前の通りはアベニーダではないか?といろいろ考えました。 すごく道幅がひろくて、木があって中央に花壇や公園やお店があったりして、歩いて気持ちいい、車のためだけでない大通り。これがアベニュー=アベニーダだ、と思うのですが、ないものの名前がないのはコヨーテと一緒。ぴったりの日本語はみつからないのです。 東京はとくにね。大きな街道は昔からあるけど、町のなかで道の名前を意識することがないものね。でも京都は違う。通りの名前と方角でだいたい住所を言い表せるよね。碁盤の目の文化なのですね。昔の朱雀門からの通りなんかまさにアベニードだったのではないかしら。 東京はそのかわり地形が以外に複雑だから、坂の名前なんかはいっぱいあるぞ。○○坂上・坂下、△△ヶ谷、□□堀、××山・・・。それから大川が何本か。この地形のどこかと職分布で、昔は住所を言い表していたんでしょう。
一番好きな avenida はバルセロナのランブラス大通りだ。だって、道の真ん中に小鳥屋さんと花屋さんがたくさんあるんだもん。
来週の土曜はチキンカレーとナンを食べる予定。
今年初物の すいか 食べました。 甘〜い。うま〜い。わっはっはっは。 それから初物の とうもろこし も食べました。 茹でてからお醤油をつけてオーブンでこんがり焼きました。 これまた、うま〜い。わっはっはっはっは。
初物を食べたら、西を向いて笑う、というのは東京の風習ではないけれど、能天気で好きなので 心の中で実行しています。 西方浄土? 今年もこの季節まで元気に生き延びて美味しいものをたべることができました。ご先祖様感謝。みてください、こんなに幸せに暮らしていますよ。わっはっは。 ってことなのかしらん?
最近 毎日食べているのは、おりじんべんとー の麻婆豆腐と肉団子。とご飯。 小さい頃好きだった中華料理BEST2ってかんじの味付け。
さて、自分でいやだな、できればやめたいな、という癖というか習慣が最近ますます気になってきました。 それは、賛成もしていないし、時によっては意味もよくわからない、のに頷いてしまう。いっぱい。ひんぱんに。しかも話しているひとの目をみて。
これは、人の話を右から左 ぜんぜん関係ないことを考えていたり、ひどい時は後ろの席の会話を聞いていたりする、自分がおもしろくないと(興味がないと)集中して人の話を聞いていられない イヤ〜な性格をごまかそうと、いつのまにか身についた習慣のようなのです。親しくなると相槌や頷きの回数のわりに人の話を聞いていない、とすぐばれるのですが、初対面や外人さんですと、一瞬すごく熱心に話を聞いてくれるひとのような印象をあたえるようであります。
若かりし頃は、不誠実なイヤな性格だが、集中できないものはどうにもならないので、一応熱心にきいているふりをしていたのです。うんと年上のひととの付き合いが多かったので、わからない話に混ざって わかるところだけつまみぐいで話に加わったり。
でもね、いまはいっそその方がよほど不誠実に感じて、やめたいんだけど、頷いてる。直せるかしら。
うん、うん、あはー と言っていてもこれは、 「聞いてます。聞く気はあるんです。」 というアクションであって、 「そうだね。わかるよ。」 ではないのだ。
風がきもちよかですね。 初夏ですたい。 よかよか。 気分よく、八百屋さんでみかけた、すいか と とうもろこし を購入して、 初夏はよかですね〜 と帰宅。雨蛙さんも拝見できたし よかよか。
なんだけど、 すいか が冷蔵庫に入らない。1/4カットでさえ。 原因はわかっている。 昨年の初夏に頂いた 自家製梅ジャムの大瓶が2個奥につまっているせいです。 とても食べきれなくて、おいしくないわけじゃないんだけど、飽きるよね。自家製ものって。 んで、自家製だから、その後放置するあいだに、瓶の中で、なにか化学的変化がおきているのではないか、黴・腐敗関係はどう進行しているのだろうか、と怖くなり、冷蔵庫の奥のスペースはなかったことにしていたんだけれど、どうしよう。
昔のわたしならば、入らなければ食べてしまえばいいのだ! とばかりに すいか一気食いをして お腹苦しいよ〜 初夏の喜びよ いずこ・・・ という結果になったことでしょう。 でも もうね。しないよ。このすいかは八百屋のおばさんおすすめの甘いすいか、シャリシャリ歯ざわり のはず。無駄にはしません。 勇気をふるって 梅ジャム瓶の処分&冷蔵庫掃除に着手することにしました。
瓶の中はねえ、
徒然草 ではあまりにあんまりかな、と。
バブルの後期に区の土地になって、リサイクル施設ができる、だの 室内プールができるだの噂されつつ、結局予算がなくて、借金もできず、ホッタラカシの土地があります。ホッタラカシなんだけど、厳重に柵にまもられていて 犬っこ一匹入れません。猫は入れる。 でもおかげでそこは、ノスタルジーの中の 原っぱ状態が守られていて、春は一面のタンポポ 秋はどこかから飛んできた種で増えたコスモス。そして野鳥の遊び場なのです。 野鳥といってもほとんど スズメ。あとは たぶん 四十雀とコゲラ だと思うけど自信はないや。黒くてツピンツピン鳴く鳥と。 だいたい 追いかけっこをして遊んでいます。なわばり争いかな。 小鳥が原っぱで遊んでいると、なんというか しやわせだ。いろいろ生きていてそれぞれ生を謳歌している ように思えて しやわせ。 遠い昔のBFのうちの庭の梅の木には冬によくメジロがきていて、花の蜜をすっては遊んでいた。あの うらうら暖かかったお正月は、しやわせ感 だけでいっぱいの珍しい思い出です。
たくさん眠って長い夢をみて、夢の中で人を好きになって、そうするとなぜか目が覚めてもその人の好感度がぐっとあがって ことによると好きになってしまったりする。今日はそんな落ち着かない気持ちでおります。 彼の映画なんか1本もみたことなかったのに、突然夢で ジャッキー・チェンと劇的に駆け落ちをしてガード下でおもちゃの指輪を買ってもらって以来、わたしは静かに熱烈なジャッキーファンなのです。 ジャッキーはスターだからいいとして、時々あう身近なひとだと困る。自分は意識下であのひとが好きだったのかも、という自己暗示にかかってしまうのね。次にあった時不自然な態度になったらいやだなあ。 しかし夢とはいえ、ひとがトイレに座っているのに、乱入してきて愛を打ち明けられても困る。一畳くらいある広いトイレで前後に入り口があったので、わたしは背後のドアは確かに鍵をかけたのですが、まさか前面の壁があくとは思っていなかったのです。ものすごく怒ったけど、告白にときめいたのも事実。
長く眠ると必ずトイレの夢をみるです。脳みそ君よ、身体の要求を夢に織り交ぜないでほしい。絶妙にストーリーに混ぜるんだよね。
昨日の日記の追記。 ボブは半袖のボタンダウンシャツ(ピンクor細い縞柄)が似合うタイプです。
まだおきていないことはあらかじめ予告されていようが、いまいが わたしはそれを知らない、という点ではおなじだな。
なにか は突然そこに来て飲み込まれてからだの中を吹き抜けていって 気付くと またそこに自分はぽつんといる。
そのときはじめてわたしは なにか を知ったんだなと漠然とかんじる。 力の抜けるものだ。
足元にあいた穴に落ちる前に怖いと思うこと 落ちている瞬間の闇や空気をかんじること は違う。 穴の底で呆然と座り込んで思うこと 落ちることは怖かったな ではなく あ わたしは落ちたんだな と思う。 そのときわたしは 穴に落ちる ということを知る。
だいたいこんなことを 期限がせまる なにをしたらいいのかわからない と泣いていたひとに言ってあげたかった。 でも穴になんか落ちたくない人に 落ちたらわかる とは言えなかった。
あと三歩踏み出したら落ちる。迂回できない。飛び越すことを夢見る。でも落ちる。 目隠しをして 天を仰いで 歩いて そしていきなり落ちる。 どちらも穴の底で そうか落ちたんだ と知る。
落ちるひとをみている。ひとが穴に落ちるということを知る。
慰めにはならないでしょうか。
2003年05月24日(土) |
先入観 ボブやらトムやら |
うちの向かいに英語をしゃべる外人が住んでいる。 今日おともだちが遊びにきていて、玄関先で英語でおしゃべりしていた。 夕涼みだ。 隣人は、ピンクの肌で頭髪は薄め。おなかのでた、NHK教育で午後6時半頃にやっているファミリー健全アメリカンドラマにでてくる隣人のイメージそのもの、の外見。その友達は、くるくる系の髪でひょろっとしていてメガネをかけ、ドラマの隣人の相棒のイメージそのもの。 そんな二人が寄りかかって話し込んでいるのは、路地のアパートの玄関先。 隣人さんが住んでいるのは、いわゆる貸屋式アパート。玄関入り口はひとつ。住人はそこで靴を脱いで廊下を、階段を、それぞれ自分の部屋にすすむ。各部屋にはまた入り口に鍵があり、そこがお部屋。古い建物ならばトイレは共同。
そのアパートのある部屋に、ものすごく洗濯好きで、布団を干すのも好きな男のひとが住んでいることはまえから分かっていたのです。シジュウ洗濯物がぶらさがっているからね。ふつうより洗濯好きだ、とにらんだのは大物(布団カバーやシーツ、たまにカーテンも)が頻繁に干してあるからです。 このアパートの各部屋にはベランダがないので、洗濯物はとうぜん窓の狭い軒下にぶらさがっているわけです。そしてこの人は、夜中まで洗濯物をとりこまない。また雨が降るともうそのまま出しっぱなし。その後洗い直しているのかは知らぬ。 歩いて20秒のところにコインランドリーがあるのだけれど、この人は乾燥機をつかわない。ポリシーまたは節約魂。 で、昨夏この洗濯好きさんが、ちょっぴりふとっちょの外人さんであることを知りました。件の隣人さんね。毎夕窓をあけて夕涼みしていたのよ。クーラーは・・・なさそうでした。
その姿がその時は似合ないと思った。(たぶん)畳に座って窓の桟にひじをかけボーっとしている姿があまりに親父臭くて、ビジネスホテルでくつろぐおじさんのようであり、またあまりにもいわゆる普通の観光客のような白人なので、そういうライフスタイルを楽しんでいるように見えなかったのです。 でも考えてみるとこのひと結構ながくそこに住んでいる。まめまめしく洗濯をして布団を干して、普通にくらしている。 そして冬は毎日雨戸をしめて寝る。街灯が窓のすぐそばにあるから明るいんだね。閉めた方があったかいし。
みえないけど、まったくみえないけど学生なのかも。 限られた予算のなかで、ルームシェアとか嫌いで、清潔ずきで、あと数年・・・とか思ってけっこう苦にせず布団をたたんでいるのかも。 まったくそう見えないけど、日本文化がすきなのかも。江戸や明治の暮らしを再現するのは無理でも、なにか自分でそう選んであんな風に暮らしているのかも。しかしあのすべてのものをピンチでダラァとぶら下げる洗濯物の干し方に美意識は感じられない。けど、日本の学生がする干し方そのものを学んだと思えば・・・
で、今日彼がお友達と玄関先でおしゃべりをしているのを見て、なんと実にこれが違和感がない。あたりまえな感じで、こういう外人も昔からいっぱいいる感さえ感じる堂々とした立ち話っぷり。いかにもボブとトムってかんじなんだけど、アパート生活が身についてるよ。夕暮れのマジックかしら。浩二と健一ってかんじでした。
変わったひとだなあ、お金がなくて長逗留するには東京はあまりに物価が高いのに・・・と思っていたけど急に隣人に格上げ。彼は知らないけどね。 友人がいることを知ったことで、独りで隠れ住むように路地裏のアパートに住むいい年をした外人、というイメージが薄れたせいもある。 こうなると、プププ変なの、と思っていた昨年の夏の扇風機にあたるボブさえ、ピンクの山下清くんのようで、「よくやってるのお」と微笑ましく思い出したりして。 単純ですねえ。同じような生活様式をがっつり引き受けて暮らしているのにバックグラウンドが想像できないと親近感を抱けなかった。ピンクでちょっと太っているから絶対に学生ではない、と思いこんでいたのです。 がんばって勉強してくれボブ。 でも学生には見えないんだよなあ。アメリカ中西部の町の金物屋か電気屋さんの若くない若主人みたいなんだよね。
懐かしき人々と懐かしき場所にて懐かしき話をし、懐かしき酒を飲んできたっす。 たまにする思い出話はなんて楽しいのでしょう。 わたしは個人的な思い出話をするひとがいなくなってしまったので、主にある時期のある集団の思い出話がいまあるすべてなのですが。 そうして楽しいお酒を飲んで、でも大人って三々五々別れるのですよね。 わたしはいつまでも子供ぢみて、なかなか別れたくないのっす。最後の集団にいつまでもくっついていたいのっす。 みなさん、家庭や連れ合いや恋人がまっているんだよね。
好んで いや好んでいるのかな。長く独り身を続けてきましたが、人生の連れあいが欲しくないわけじゃない。うちに帰って、 「今日ね、こんなことがあったよv」 と話せたらどんなに楽しいのでしょう。 でも、想像しすぎて、夢や理想が膨らみすぎて、簡単に 「わたしのパートナーになってください」 とはいいにくいっすよ。重いもん。自分もいきなり、 「結婚してくれ」 と何度か言われたことがあるけど、なんで・・・?だったもんね。 でも恋愛シストに言わせると、なにがハードルなのか分からないそうですが。何度でもやりなおせばいいじゃん、ってことらしいよ。 それも一理ある、と思いつつ 自分のやりかたじゃないな、身につかないな、ってことなのです。メイクドラマ体質じゃないんでしょう。 運命論者だから。赤い糸の伝説信者だし。 寂しさの果てなんくにぞ今日も旅ゆく。牧水は中学校でならったけど、上の句は忘れてしまいました。
あんなこと言うつもりじゃなかった こういうふうに物事を進めるはずだったのに、今なぜこうなっているの? あいかわらず、そんな日々なのですが、原因が一部わかりました。 ひととお話していて、答えなくてはいけないとき、たいていは そうだけどそうじゃない そういう気持ちもあるけどそうでない時もある 心に正直になると返答はこんな風になりまする。 でも、いつもそう答えていては話にならないっす。なにを聞かれても 「これが好き。嫌いなときもあるけど。」 「たいていはそうするかな、そうでない時も多いけど。」 「やったりやらなかったり、したかったりしたくなかったり。」 と返事をしていては、自分に正直なのかもしれないけど、コミュニケーションしようという気持ちの薄いひとになってしまいます。 で、その場の反射でどっちか決めて、深く考えず断言してしまう。 「これが好き。」 「これがしたい。」 「大嫌い。」 自分の頭の中では、あらゆるバリエーションが想定できるわけですが、現実のその場その場ではとっさに決めていかなければならない。気持ちで通じるだけじゃなくて言葉や行動でわかってもらえるよう、 「どちらかといえばこっち」 を選択して提出している。当然 ほかの人々もゴマンと考えられる中からとっさに決めて答えたり行動したりする。 で、びっくりするぐらい 自分の勝手な思惑とずれていったりするのですね。
折り合い。
特に決まった主題のない日の日記はぜんぶ 徒然草 にします。
割り箸の袋にいつのまにか楊枝が入っているようになってずいぶんになりますが、コンビニが全国に普及してからかな。 あれあぶない。 いつのまにかポロっと床におちている。踏むと泣きます。画鋲どころの痛みじゃないよ。 つれづれに思い出したので。
2003年05月22日(木) |
シリーズ うちの大家さん |
なんだかんだで2年くらいボチボチ続いている日記ですが、シリーズものとして シリーズ これに夢中(おもに食べ物) シリーズ 浮世風呂 シリーズ 酔ってしまって・・・ シリーズ 変なひとを見た 等がいつのまにかできていました。 起きて半畳、寝て一畳 の狭いながらも楽しい日々なので、だいたい徒歩15分圏内の話で終わっているわけです。
自分で好きなのは、うちの大家さんモノ です。いいひとなんだもん。大好きだ。
さて、今日わたしがスクーターでコロコロと隠れ家に帰ったところ、ちょうど大家さんが玄関先にいて、 「こんにちわ」 すると、 「いいところに来た。わたしらの大好きなものがいるのよ!」 「っかえるですね!!!」
そう、わたしと大家さんの共通点はともに かえる=蛙が大好きということ。 もちろん本物の生き物としての 蛙。置物やキャラクターも好きだけどね。私たちは、蛙ペンダント(これはさすがに着けて外出できないので、どこかにしまってある)をもらったり名古屋土産かえるまんじゅうをあげたり、の同好の士としての交流を三年にわたり深めてきたのであります。
大家さんの尊敬するところは、アスファルトジャングルに住まってなんとか身のまわりに 生かえるさん達を感じていたい、と毎年この季節どこかから(本当にどこなんだ?!)雨蛙を数十匹とってきて、軒先のあじさいの木の下や隣の家の庭に放すのです。水槽で飼おうなんて思わないの。彼らのためにうちの軒下には、めだかも泳ぐ水盤が二つもあります。 ここでボウフラも飼っている。 はんぶんくらいは鳥に食べられたりしちゃうみたいだけど、夕方や雨の日には、 ケロケロないています。 今日はちょうど、玄関横のもみじの葉にじっととまっていたのを大家さんがみつけて私に教えてくれたのです。 大家さんがゴールデンウィーク中ずっと留守だったので、また野山になにか狩りにいっているな、と思ったら蛙だったのです。 これからデジカメをもって探しにいってきます。
今年はおたまじゃくしを飼うのをどうしようか、迷っています。そっと軒の水盤に2、3匹入れておこうかしら。
たいてい歩きはじめて20分ほどで、世の中すべてのものから見捨てられた気持ちになるわけですよ。 電車なくなっちゃった、ときですね。 でも、はじめはいける気がするので、どんどこ位置を確認せずに進むのです。 曲がり角もどんどこ曲がってしまう。 で、経験上20分ほど歩いたところで、ふと 「ここはどこなのか?」 「いえに近づいているのだろうか?」 「なぜ、こんな夜中に一人で知らない街をあるいているのか?」 「誰が悪いのか?」 こういう疑問で頭がいっぱいになることがわかっています。 このときに、コンビ二の明かりがあったりすると、一段と泥沼にハマリマス。 アイスを買ったり肉まんを買ったり、本日発売の雑誌を立ち読みしたり、まだ 「いける」気になってしまうからです。 泥酔していても基本は「なにものかに意地を張っている馬鹿な自分」をどこかで意識していますから、店員さんに、ここはどこですか?と聞いたりはしない。 で、決して引き返したりはしない。ゆえにまた、20分近く、泣きたくなってくるまでどんどこ歩いてしまうわけです。
ものすごく 辛くなると携帯で電話をかけたりします。で、たいてい誰もでないわけ。ちょうど電車が動くまえの超真夜中でありますし、本気で心配して車で迎えにくるような、宅電にはかけない。そうですね、3コールくらい鳴らしておしまい。 それでも十分迷惑か。ごめんなさい。 ここで惨め感・見捨てられた感がまたぐっと増す。
毎回言ってますが もうやめます。っていうか終電で帰ります。 昨晩は雨がふっていましたね。そしてヒールの踵が痛かった。?どちらかというと痛かったのはつま先かな?1時間ほど水戸黄門主題歌をうたいながら半べそで歩いていたけど、こんな夜中の住宅街どうせ誰も通りかからん!、と途中からくつを脱いで歩きました。裸足はひさしぶりだったけど、実によく地面をつかんでくれる。それで、調子があがってまた20分ほど歩いてしまい、しかし ”環七”の表示がみえた途端に目がさめました。 ズバっと靴をはいて、スラッとタクシーをとめ、財布にあった残金の100円手前の料金までで「ここでいいです」と車をおり、運転手さんの「お疲れ様でした」の声には「おやすみなさい」と返し、さっそうと一本奥の道へと入っていくふりをして、また25分ほど歩きました。ああ、あと、千円あったらよかったんだけど。
なんどもなんども繰り返している。好きなのかも。いつも歩き始めは意気揚揚としていい気分なんだけど。20分後にね、迷子、足痛い、恨みます、魔法がつかえないものか、なぜこんな目に・・・ぐるぐるぐるぐる
みじめな自分に酔うのは気持ちのいいものですが、20分で肉体の苦がそれを凌駕するのですね。
そうそう。目がさめると なんだか足の裏がすべすべしていました。
街中がいい匂いのする季節です。 青くて、スカッとしていて、時々むっとして、歌いたくなる。 ガーデニングブームのおかげで、この季節、藤のほかにも、蔓草の花のいい匂いがする。ジャスミンとか、蔓薔薇。夏はあちこちで、天使のラッパ=ダチュラが花盛りですね。どうして、蔓草って、草花にくらべて匂いが強いんだろう。 そういえば、草花より、木の花のほうが、概して匂いが強いですね。なんだろう。種を残すぞ!の一念が強いのかしら。生き残って大人になる率も少なそうだしね。
鼻歌というものは、意識していないので、二度と思い出すこともない、と思っていた たいして流行もしなかった、けれどわりと好きだった歌謡曲なんかがふいに口から飛び出したりします。んで、そのことを日記に書こうとするともう思い出せなかったり。
少しでも半そでになったりするともう口では海の歌を歌っていたりして、東京の夏は長くて肉体的に辛いんだけれど、頭の中では永遠に憧れの短い惜しむべき、待ち焦がれるシーズンなのかも。 恋のうたは、年中無休ですが、夏が近づくと、これまた終わった、真剣だったからこそ終わっても後悔しない、そんな恋の歌を口ずさんでいたりして、鼻歌は季節を先取りする、というのがわたしの実感です。
鼻歌には、思いを込める瞬間がない分、すごく素直に、「憧れ」がでてくるように思います。郷愁よりむしろ、少し先のこと。来ないかもしれない、自分でも待ち望んでいるのかもわからない未来。 ま、他人の鼻歌傾向は知りませんが。
このところ、夜の散歩のお供は、「椰子の実」となぜかバッハの「シャコンヌ」
また夏がくる。
夜の散歩は危険なのかもしれませんが、大事なのは気合です。 絶対に自分に凶事をよせつけない、という気合。同時にいつでもなんでも来ちゃったものは受け入れる気合。 隙のない女、とよく言われます。
2003年05月17日(土) |
マカロニは母の味だった |
マリソルの旦那がへなちょこなフリオなのが納得いかん!
これが荒野の用心棒の感想です。 でもやっぱりイタリア映画だね。このお話は結局、母と息子のお話なのですね。 捕らわれの美女マリソルも、意味深な目線ビシバシのわりに、とことん母でしかなかったし、バクスター夫人も一家のゴッドマザーとして旦那よりぜんぜん貫禄・存在感があるし、みるからに馬鹿息子っぽい(七三分けのぼっちゃん。なぜか金髪)息子溺愛。
マッチョなロスコ一家は、女っけゼロ。ラモンもつい人妻で息子のいるマリソルに夢中になっちゃって、あの一家に母がいたらねえ。
とにかく、クリント・イーストウッドは カ ッ コ イ イ ! 足 長いよお。 でもあの人なまえないの。ただのアメリカ人。流れ者のグリンゴとしか呼ばれないよね。 彼も母を奪われたくちなのでしょうね。 だからか、以外にすごい早撃ちシーンの連続かと思っていたら、決め所は2回だけ。それ以外は、死体を盗んで生きているように見せかけたり、盗み見しまくりの、防弾ベストの、裏技でこそこそ動き回ってる方が多い。親の無い子供が生き延びてきたやりかたって感じ。軒下をはって逃げ延びるしね。
「俺の馬は、笑う奴がきらいなんだ」 という台詞と、最後にTHE END のマークのバックで死んだラモンの(ほかのロスコかな)身長をメジャーではかっている棺桶屋がお気に入り。
マカロニは、母への思慕とアディオスアミーゴという西部劇=アメリカ中西部のイメージとは違う味わいのものでした。
マカロニをラテン風味で、というのは結構本質をついているのかも。 あと必要なのは、埋葬の鐘の音だ。
画像はきれいになってもやっぱり面白くないね。「アハードデイズナイト」 ?映画はアはいらいのかな。 スマップのライブビデオと同じ面白くなさだ。 ファンの観客席の様子とかどうでもいいのに、いっぱい写る。 歌ってしゃべってるところだけでいいのに、ヘンな演技演出がはいる。 時間の無駄だよね。ファンがみるんだから。普通のひとがみて、 「ほお〜 これがスマップという現象かあ」 と感じさせようとしなくていいのよ。そういう人はお金出してそんなの見ないの。 お金出すのはファンなの。 いやいや、スマップではなくてビートルズでした。でも同じなんだもん。
でも当時おっかけに男子が全然いないの。ほんとうに女の子の鼻はするどくて早いよ。ビートルズおたくがあとからグズグズいったってねえ。発見して大きくしたのは女の子の小さなお財布だったのよね。
マッシュルームカットがなぜ東洋人に似合わないかわかりました。なんだかんだいって西洋人の髪は腰がなくて頭のかたちに沿うけど、堅い東洋髪はどんなにシャギーをいれても最終的に沿わないからオカッパ、よくて段カット最悪ヘルメット なのですね。
マッシュルームズのみんな 歯がガチャガチャで 昔の下町ッ子がおしゃれしているようで可愛らしい。 ジョンはひたすら浮いてます。キムたくのように。一人はしゃぎおどけ悪ぶっています。 ポールは演出上のポールの祖父役に完全にくわれていていいところなしです。また祖父役が目立つわりに魅力的でないんだ。もう少しお茶目さんだったらいいのに。ただの変人。でも昔のイギリス映画によくこういうキャラクタ−がいたように思います。 ジョージはなんだかカッコイイです。でも眉間の眉毛を少し剃ってあげたい。ニアカモメ。 そしてこの映画の主役はリンゴです。 いじられ役なんだよね。キャラはひらすらチビとでかい鼻。あのヘンな笑い声もキャラの一部なのかしら。 とにかくリンゴ鼻でっかいよ。横や上からのショットをみてびっくりしました。 とくに深いいじめでもなく、なんとなくリンゴがすねていて、件のじいさんに本ばっかり読んでないで世間にでろ、とそそのかされ30分ほどリンゴが行方不明になる、という筋でございます。ドラムがいないと演奏できないよ、と探しにいくわけだけど、まあ全く面白くないおっかけごっこがあったりして、生放送に間に合って、演奏して終わり。
リンゴは天然なのか?天然であるという演出になっていますがどうなのか。 世間にでる、といったわりにカメラで牛乳瓶を撮ったり、河原でセルフポートレートを撮ろうとしてカメラを川におとしたり、パブで一人から回りしておいだされたり。演出のできがよくないから、天然さんぶりがイマイチ表せきれていないのよね。 みている方としては ぜひほんものの天然であってほしい。 天然ゆえにからかわれ、いじられ、愛され、許され、憧れられ。 ビートルズにほんものの天然さんがいた、それがリンゴだった、と信じていたい気持ちで今もいっぱいです。 なぜかといえば、演奏中リンゴがメンバーの顔をみて笑う顔がとてもいいから。
天然ものであれ養殖ものであれ、グループの中のリンゴ的ポジションは、いわば美味しいところである、といつからかジョンやポールのポジションをあえて狙わない人たちが増えたように思いますが、そんな根性はきらいだぜ。 勘違いしてはいけないのだ。リンゴポジションは、ジョンやポールになれない者が座る椅子ではないのだ。むしろリンゴになれない者の中で突出したものがジョンポールの座につくといってもいい!と言い切ってみる。 残念だが、リンゴポジションだけは、生まれついての資質、これのみ。努力や工夫は役に立たないところか邪魔。作為は天然の敵。 決しておどけたりしてはいけないのだあ。この映画をみているとジョンがカワイソウに見えます。
VIVA天然。この世界でも数がすくなくて、まわりを和ませてくれる大事な人種だからね。 ま、リンゴがほんもの天然かどうかはしらないけど、6月5日のライブでは”VIVAリンゴ”コーナーをやるよ。
誕生日も先月の話になり、いたづらに毎日、生ぬるい幸福感のうちに過ごしてきましたが、今日突然に今後10〜20年に渡る遠大な計画を思いつきました。
わたしは美しい白髪の老女になりたい。真っ白な髪を長く伸ばして、ウクレレを爪弾く老女になりたい。
と、例によってお風呂の中で思いついたのです。それにしてもやっぱり備長炭風呂のお湯は気持ちいい!
いままでも、この年にしてはほんとうに少ないけれどもチョロっとは白髪も生えてきていたのですが、目障りだ!とすべて抜いてきたのです。黒いところにたとえ1本でも、いや1本だからこそとても目立つわけで、グルーミング的にも耳そうじやパックのようにたのしいものだったのですが、まったく近視眼的でした。 今日からは全面的にやめることにします。 短くて堅いためアホ毛のように頭の天辺につったっている白髪はかなり気になる、抜いてスッキリしたくなる存在です。けれども我慢して伸ばすことにします。
この先も髪を染めることはやめます。 いつか全部の髪が真っ白になるまで。わたしは白髪を育てることにします。 ああ、いったいどれだけの月日がかかるのでしょう。想像するに、ここ5年は辛抱辛抱の日々でしょう。 中途半端。 ひとに指摘される。 開き直ったのだと誤解される。 でも 辛抱 辛抱。
備長炭風呂の恍惚感のなかで、この先の自分の年のとり方の明確なビジョン、理想に向かって白髪を美しく育ててていく という成長のない今、変化を老化という形で受け入れるしかないものと捉えていた自分への 「おいおい、これは自分で意識してでなければできないことだぞ」 、という驚き。 なんといいますか、恍惚も極まって一瞬 有頂天であったことにビックリしたのです。 15年後の自分のビジュアル!いいじゃん!
化粧品業界の アンチエイジング ということばが気持ち悪いなあ、とは小さく思っていたのですが、白髪に関してはひたすら 目障りだ! としか意識していなかった。 まったくお風呂のなかというところは、ひとにエウレカをもたらすところですねえ。
最後に。どうかくれぐれも 開き直ったのだと、誤解しないでください。
近所に犬がいるんです。 中型の雑種です。 立派な檻に入ってます。 子犬の頃から、ずいぶん立派な檻を買ったなあ、この家族・・・ とイヤな予感がしていたけれど。 子犬の頃は雑種にありがちな、コロコロで、もさもさ毛で、なんとも可愛い犬でした。その家族もしじゅうかまってさ、子供達も競って散歩用のひもを持ちたがってさ、でも夜になると寂しがって クーン クーン 鼻を鳴らす声が聞こえて、中型犬だから、はじめから家に入れないんだな、ガレージがあるし寒くはないよな、カワイソウだけどしかたないよな、と思っていたのです。
だんだん大きくなって、いわゆる痩せ型雑種犬にありがちな、落ちつきの無いチャカチャカした動きの鼻面の長いあんまりかわいくない成犬になったら、家族の愛も薄れていった模様。 日曜に子供と遊ぶ様子もなくなったし、なにより悪いことに、吠え癖の悪い犬になってしまったのです。 子犬の頃には 不相応に大きくて立派だった檻に一日中いて、そのうえガレージの中で(たぶん吠えるから)シャッターは閉めっぱなし。その前をひとが通る気配にいちいち過敏に反応して吠えまくる。一度吠え出すと、何分も吠えている。 神経質な、弱い犬のびびり声なので、たしかに五月蝿い。
でも、そういう犬にしてしまったのは人間だ。その家族ももてあましているっぽい。責めたくはないけど、子犬の頃に、昼間あそんで夜は檻にいれて、ひとに向かってキャンキャン鳴いた時に、なだめて言い聞かせて、しつけることもしないで、 今になって、彼が吠えると 「うるせえ」 と叫ぶ。 はじめは近所のひとが怒って怒鳴っているのだ、やばい処分されちゃうかも、と心配したけど、このあたりの人は、みんな昔からのやりかたで近所のひとたちとずっとうまくやっていくように付き合っているから、そんなマネはしない。 家の主人が 近所にあわす顔がなくて いろいろ心をもてあまして怒鳴っているのだ。 でもね、わたしも怒鳴りたいよ。 おまえの吠える声のほうが、よっぽど五月蝿い。
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