橋本裕の日記
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2005年01月31日(月) 社会ダーウィニズムの恐怖

 19世紀後半にイギリスの社会学者ハーバード・スペンサー(1820〜1903)はダーウィン進化論の「自然淘汰・適者生存」という考え方を、人間社会のあり方を説明するのに用いた。人間の社会もまた、熾烈な生存競争をくりひろげており、適者が生き残ることで進化するというのである。

 スペンサーのこの理論は「社会ダーウィニズム」と呼ばれる。そしてこの理論はイギリスからアメリカに広がり、またたくうちに、世界の思想界を席巻した。なぜなら社会ダーウィニズムこそ、当時の列強の帝国主義的な植民地支配を説明し、そしてこれを正当化する理論だったからだ。

 社会ダーウィニズムの考え方は、「強い者が勝つ」「優秀なものが勝つ」「強い者が優秀な者である」ということである。そして、「弱者は強者に従わなければならない」という強者に都合の良い「支配と服従」の論理である。

 この考え方によれば、裕福者が手にしている富は彼等の生存競争における成功のしるしだということになる。富者であることは成功者であることであり、人間はだれしもこうした成功者になることを夢見て競争し戦わなければならない。

 この考え方は日本でも受け入れられた。そしてここから生まれたのが「富国強兵策」である。列強によって植民地にされたくなかったら、経済を発展させ、軍備を整えなければならない。つまり、自らも列強の一員とならなければならない。

 こうした考え方は、人々を容易に国家主義者にする。日本の場合は、市民革命の経験はなく、個人の人権などという考え方もなかったので、人々はこぞって「国家主義者」となり、「忠君愛国」をとなえるようになった。

 たとえば、東京帝大の初代学長で明治期の日本を代表する啓蒙思想家だった加藤弘之(1836〜1916)の場合をみてみよう。彼は「天賦人権論」を掲げて、「立憲政治」の必要性を人々に訴えていた。ところが、社会ダーウィニズムの思想に触れるやいなや、すばやくこれに転向している。

 斎藤貴男さんの「安心のファシズム」によると、1882年に出版された「人権新説」で加藤は民権にたいする国権の優位をとき、自らの唱道した「天賦人権論」を「妄想に過ぎない」と断じているという。

 1893年に出版された「強者の権利の競争」では、「凡そ吾が権利は一に社会における競争の結果によりて強者の権利より生じ来るものに外ならず」と書いている。民権論から国権論者への見事な変身というべきだろう。

 加藤は「社会ダーウィニズム」をただ受け入れただけではない。受け入れたからには、「日本はいかにして強者になるか」ということに解答を与えねばならない。加藤たちはやがて一つの解答を見つけた。それが「天皇制」だった。斎藤貴男さんの本からふたたび引用しよう。

<日本独自の文化を活用した弱者から強者への変身が模索され、ついに編み出されたウルトラCが、天皇に対する「忠誠競争」による国力の強化というシナリオだったという。道徳進化を促すメカニズムとして「自力淘汰」の表現が充てられ、本質的には利己的である個人の適者生存への本能を忠君愛国に向かわせるためには、個人と国家のそれとが完全に一致していると思い込ませる誘導が図られていった>

 「忠誠競争」というシナリオを発見した加藤弘之は、「武士道」への言及が多くなっていく。折りしも1899年に新渡戸稲造が「武士道」を書いた。そして1905年の日露戦争で「武士道」がもてはやされた。

 今年は日露戦争から100年目である。そして数年前からふたたび新渡戸稲造の「武士道」が書店にならびはじめた。アメリカを中心に「社会ダーウィニズム」の風はいまなお世界に吹き荒れている。

<再び社会ダーウィニズムの受容を強いられた日本人が、一世紀前と同じ反応を示している。ただしグローバリゼーションの受容の思想が行き渡り、正義とは金のことであり、アメリカこそが至高の価値であるとする考え方が浸透してしまった現代の日本では、加藤の時代ほどの葛藤は感じられない。むしろ積極的に、アメリカ発の人種差別剥き出し社会ダーウイニズムを丸ごと受容していくプロセスを歩んでいるように見える>

 社会ダーウイニズムが何を招来したか、20世紀の歴史が雄弁に語っている。しかし、その証言者も次第に少なくなり、記憶も薄れつつある。こうした忘却症にくわえて、過去の歴史を美化する動きまである。我が国でも「競争こそがすべてである」という「新自由主義史観」のもとで歴史が捏造され、ふたたび私たちは戦争への道を歩もうとしている。

 それではなぜ、こうまで社会ダーウイニズムが人々の心を支配し続けるのだろうか。はたしてこの思想に科学的根拠があるのだろうか。私の見るところ、これまで社会ダーウイニズムにたいする有効な理論的反撃が為された形跡はない。

 むしろ経済学も政治学も、そのほとんどがこれに汚染されている。この現状を変えていかなければ、人類は幾たびでも同じ愚行を繰り返し、ついには地球全体をホロコーストの舞台にするだろう。

 悪しき国家主義の背景には「社会ダーウィニズム」がある。悪しき国家主義は社会ダーウィニズの所産である。しかし、その悪しき現実がこの思想にふたたび活力を与えている。この悪循環に気付き、この輪廻の世界から離脱する智慧に、私たちはそろそろ目覚めなければならない。

(参考文献)
「安心のファシズム」 斎藤貴男 岩波新書
「近代日本における社会ダーウィニズムの受容と展開」 鵜浦裕 東京大学出版会
「アメリカ研究社会科学的アプローチ」 榊原胖夫 萌書房


2005年01月30日(日) 悪質な国家主義

 昨日は司馬遼太郎などに代表される良質な国家主義の話をした。今日はおなじ国家主義でも、これはちょっと困るという粗悪な国家主義の話をしよう。ヒットラーや東条英機などの顔が浮かぶ。その特徴を列記すれば、たとえば次のようになる。

 国民に迎合するポピュラリストであり、または煽り立てるアジテーターである。自国の立場を絶対視するナショナリストで、また自民族の優秀さを誇りに思い、他民族を蔑視するレイシスト(人種差別排外主義者)である。個人の自由や人権を蹂躙することを何とも思わないファシスト(全体主義独裁者)である。

 これにあてはまるのは、現代の政治家では石原慎太郎だろうか。1973年7月、石原慎太郎や森喜朗、山崎拓、渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一など、自民党のタカ派議員31人が「青嵐会」を結成した。全員が趣意書に血判を押し、一命を賭して結束を誓った。まるで、軍国主義時代の青年将校達のようだといわれたものだ。

 青嵐会は田中角栄の中国国交正常化の際、自民党内で最も反発した。田中角栄は青嵐会の「中国との国交正常化とは共産主義の売国奴の戯言にすぎない」という主張を斥け、右翼に狙われながら、それこそ「命をかけて」中国訪問を決断し中国との国交を結んだ。

 現在、日中の貿易高は日米をしのいでいる。最近の日本経済を支えているのは中国特需だといわれている。日本が国際社会の中で生きて行くには、アメリカや中国と協調して行くしかないないとして青嵐会の主張を斥け、日中友好へと大きく梶を切った田中角栄の方が、政治家としてよほど熟していたというべきだろう。

 そうした中で、石原慎太郎はいまだに、 「アメリカと中国が日本を破壊しようとしている。中国を分裂させて日本の勢力圏を築き、アメリカに対抗せよ」という戦時中の「大東亜共栄圏」のようなたわごとを言い続けている。こういう人物がマスコミにおてはやされ、茶の間の人気者となって日本の首都で知事をしているのかと思うと背筋が寒くなる。

 石原は75年に都知事選に出たが、美濃部に惨敗した。その後運輸相など歴任したものの、それでも田中支配が横行する自民党で、肩身の狭い鬱屈した思いを抱いていたにちがいない。ところが、自民党に「神の国」発言を繰り返す森政権が生まれるなど、時代の風向きが違ってきた。石原も又この風に乗った。

 1999年4月、石原は念願の都知事になると、青嵐会ばりの国粋的な政策を打ちだし、パホーマンスを始めた。翌2000年9月3日、東京銀座の大通りを自衛隊の装甲車がものものしくパレードをした。石原知事はこのとき、「外国の侵犯にも自ら対応できる気概をもて」と挨拶し、一国の指導者を気取って意気軒昂だった。

 石原知事は、さまざまな場面で挙手の例をしてみせるという。これは石原知事が子どもの頃人気のあった「軍人さんごっこ」の影響ではないかという人がいる。いまだに石原知事は「軍国少年」のままだというわけだ。

 石原慎太郎の望みは、一言で言えば、「日本を戦争の出来る国にすること」だろう。そのための憲法改革であり、教育改革である。今、東京都の学校で起こっていることは、戦前の日本とそっくりだという。このままでは石原知事の好きな「軍人さんごっこ」が「戦争ゴッコ」にエスカレートしないとも限らない。

 良質な国家主義は良質な個人主義とかわらないという話をしたが、実は、悪質な国家主義こそは悪質な個人主義とかわらない。変わらないどころか、実はそれは救いようのない利己主義そのものである。

 ウルトラ国家主義者が、じつは自己肥大をしたウルトラ利己主義者であり、自己陶酔型のナルシストであることは一目瞭然だろう。彼等が国家の尊大さとその洋々たる前途について語るとき、じつは自己の尊大さと野望について語っているのである。


2005年01月29日(土) 良質な国家主義

 個人主義に粗悪なものと良質なものがあるように、国家主義にも粗悪なものと良質なものがある。私自身は個人主義者だが、たとえ国家主義者でも、良質なものについては評価し、ときには尊敬さえする。

 たとえば、明治の元勲の伊藤博文などは、良質な国家主義者として、ずいぶん評価しているし、それにこの人のことは調べれば調べるほど好きになる。最近の人では、国民的作家として人気のある司馬遼太郎がそうだ。

 司馬遼太郎を国家主義者とみることについては異論もあろう。しかし、四十代に書かれた「坂の上の雲」などを読むと、まさにそこに描かれているのは「良質な国家主義」の世界だ。国家主義の美点をこれほどまでに雄弁に描いた作品はない。

 もっとも、私が評価するのはその「良質さ」であって、「国家主義」の方ではない。しかし、司馬遼太郎ファンを自任する人の多くは、「国家主義」の方が好きなようだ。とくに日露戦争で活躍した英雄群像を描いた「坂の上の雲」のファンには、そうした傾向が多いのではないだろうか。

 悪しき国家主義は軍国主義を招来する。司馬さんもこのことをよく知っていた。だから、彼は再三の「映像化」の誘いをきっぱりと断って、こう書いている。このことを論じた北さんの1月24日(月)の雑記帳<「坂の上の雲」映像化の問題>から孫引きさせて貰おう。

「この作品はなるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。うかつに翻訳すると、ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される恐れがありますからね。私自身が誤解されるのはいいですが、その誤解が弊害をもたらすかもしれないと考え、非常に用心しながら書いたものです」

 ところが、この司馬さんの遺言が覆ることになった。著作権継承者である司馬夫人の福田みどりさんが、数年悩んだ末に許可を決めたのだという。彼女の言葉を、これも北さんの雑記帳から孫引きさせていただく。

「私の死後に勝手に映像化されるより、ちゃんとした作品を今作ってもらうことにした。司馬さんが描いたよき人、よき日本人の話をドラマ化することで、このいやな国になってしまった日本が、もう一度よき日本になってもらいたい」

 映像化を決定した海老沢前会長は「国家や民族のあり方が問われる時代に、単なるドラマを超えた映像作品を目指す」と述べている(朝日03.1.10)。映像化の趣旨についてもう少し詳しいことが知りたくて、NHKのHPを覗いてみた。そこにはこう書かれている。

<平成19年度(2007年度)以降の放送に向け、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」を原作として、21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」の制作を開始します。この作品は大河ドラマを超えるスケール感のあるスペシャル大河 として、21世紀を代表する作品のひとつを目指し、NHKが総力をあげて取り組むものです。(略)

 この作品に対する司馬遼太郎の歴史観や思いが放送で十分伝わるように、関係者の意見を聞き、議論を尽くした上で制作にあたりたい、場合によっては放送開始時期がずれることがあってもかまわない、という心構えで準備を進めたいと考えています。

 司馬文学の真髄ともいえる「余談ではあるが・・・」的な時空を超えた縦横無尽な表現方法を生かし、「街道をゆく」「空海の風景」などの番組制作でも試みたような最新のデジタルハイビジョンで画期的な映像表現を駆使して、雄大なスケールで描きます。

 放送は、平成19年度(2007年度)以降に、総合テレビやハイビジョンなどで1回・75分、20回程度を予定しています>

 私はNHK大河ドラマこそ日本を悪くしたものの象徴であり元凶だと思っている。司馬遼太郎の理性的で抑制の利いた良質の国家主義も、NHKの手にかかればとんでもない悪質で非民主的・権力的な「国家主義」に変貌すること請け合いだ。

 そして、こうした歴史の捏造には、司馬遼太郎の「坂の上の雲」はまさに打ってつけの作品だといえる。これでまた、この国に悪質な国家主義が幅をきかすことになるだろう。司馬さんが生きていれば絶対に許さなかっただろう。

 良質な国家主義者のことを書いたので、良質な個人主義者のことも書いておこう。その代表として、真っ先に私の頭に浮かぶのは、やはりなんといっても白樺派の武者小路実篤や志賀直哉であり、彼等が私淑した夏目漱石である。漱石の「私の個人主義」から引用してみよう。

<ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように言いふらし、またそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ、国家が亡びるようなことを唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿げたはずは決してありようがないのです。事実私どもは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります>

<元来国と国とは辞令はいくらやかましくても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンにかける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それがたいへん高くなってくるのですから、考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義に、やはり重きを置くほうが、私には当然のように思われます>

 漱石は「私どもは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもある」と述べている。結果において、良質な個人主義は良質な国家主義とあまり変わらない。違いは紙一重かも知れないが、私自身は「良質な個人主義」に、人生の足場をおいておきたいと思っている。

(参考サイト)
http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm

http://www.nhk.or.jp/matsuyama/sakanoue/


2005年01月28日(金) 拝金主義と権力

 堤義明が刑務所の塀のなかに落ちそうにないのは、彼が政権党である自民党に大きな影響力を持っていたからだ。自民党の党大会は過去一貫して高輪プリンスホテルで開催されている。

 彼に一番親しい政治家は森前首相だが、いうまでもなく彼が率いる「清和会」は小泉首相を擁して、いまや日の出の勢いである。小泉首相が食事をするのはきまってプリンスホテルだし、首相秘書官の飯島氏が定宿にしているのも赤坂プリンスホテルである。

 堤義明は「清和会」のみならず、これと対抗関係にあり、長い間自民党を支配してきた最大派閥の「竹下派」とも蜜月関係にあった。田中、竹下など歴代の実力者と仲がよかったし、小渕元首相の国葬の際には彼が弔辞を読んでいる。

 また、総会屋への利益供与事件で会長を辞職したことからもわかるように、堤は裏社会との関係も深かった。先代の堤康次郎は「政商」と呼ばれたが、おなじく「政商」と呼ばれた「国際興業」の小佐野賢治や右翼の児玉誉士夫とも関係があった。そして、こうした裏社会との取引がひきがねになって、会長職を辞職することになったわけだ。

 新聞報道によると、西武鉄道は総会屋が株主総会で発言するのを控えてもらうため、01年1〜10月、総会屋が顧問を務める不動産会社2社に、神奈川県鎌倉市や横須賀市の宅地、山林を格安の約2億4000万円で売却し、1億円を超える実勢価格との差額を総会屋側に提供したのだという。この件で2004年8月、元専務ら10人が有罪判決を受けた。

  また、東京国税局の税務調査によって、通常の土地取引に見せかけた総会屋への利益供与にからみ、西武鉄道自身が03年3月期までの3年間に約1億4000万円の所得隠しをいていたこともあきらかになった。

 堤氏ひきいる西武グループがすべて悪いというわけではない。長野オリンピックや西武球団の活躍が、ある次期の日本を引っ張り、活気づかせたことは事実だし、堤氏の日本社会への貢献がまったくなかったわけではない。

 また、ここに来て、西武グループをマスコミがたたき始めたのには、かってロッキード事件で田中角栄を追いつめたのと同じ様な構図があるのかもしれない。アメリカを中心とする国際金融資本にしてみれば、日本企業の弱体化を象徴する堤王国の瓦解は願ってもみないことだからだ。

 しかし、たとえその背後にどんな勢力がいるにしても、日本企業の古い体質は改められなければならない。私たちに必要なことは、もっと健全な企業を育てることである。それは株主の利益を最優先するアメリカ型の企業である必要はない。これを機会に、人々を本当に幸せにする社会とは何か、そのために企業はどうあるべきか、原点に戻って考えてみてはどうだろうか。

 私は戦後日本に導入された欧米流の自由と民主主義を評価している。しかし、人権意識もふくめて、これが日本社会にしっかり根付いたとはいえない。その原因は、戦後の日本が経済優先で走りすぎたからだ。

 戦後を悪くした元凶の一つは、この拝金主義ではないか。それは「開発」の美名のもとにゆたかな自然を破壊し、日本の伝統を破壊し、騒々しいコマーシャルばかりが氾濫する低劣な文化をもたらした。バブルが崩壊し、「ダイエー神話」や「西武神話」が崩れたいまこそ、拝金主義そのものを見直す好機だと考える。


2005年01月27日(木) 堤義明とオリンピック

「オリンピックの汚れた貴族」(サイエンティスト社)というタイトルの本が、98年の長野オリンピックの直前に出版された。著者はBBCの調査担当記者を長く務め、ジャーナリストに与えられる数々の賞を受賞しているアンドリュー・ジェニングスである。

 本の中で、ジェニングスは、「世界一の大富豪、オリンピックを競り落とす」という見出しで、商業主義に汚染され腐敗したIOCの現状を告発している。いうまでもなく、「世界一の大富豪」とは、招致時のJOC(日本オリンピック委員会)会長(現名誉会長)の堤義明である。

<1990年IOC委員が長野に乗り込んできた。彼らは堤の所有するホテルに泊まり動員された学生、企業の数千人の歓迎を受けた。この遠来の客は、温泉で寛ぎ、芸者遊びをし(日本人記者によると)数百万円もする絵をプレゼントされたという。企業が政治家にワイロを送る際の日本式”マネーロンダリング”というわけだ。

 サマランチもバーミンガムの投票まであと1カ月と迫った1991年5月、90年についで再度来日した。堤に五輪勲章を授与してから、天皇家が使っていたお召し列車をチャーターして堤、長野県知事、長野市長らと長野へ向かった。

 道中、サマランチは堤に、ローザンヌにあるオリンピック博物館の莫大な赤字の援助を求めたという。サマランチの要求は1300万ドルだったが、堤はこれを応諾して1000万ドルを西武グループが、他にも17の大企業に声をかけて1社あたり100万ドルの拠出を求めたとされている>

 堤義明は長野オリンピックの為に数度来日したサマランチ氏のために、高輪プリンスホテルにロイヤルスイートルームを特別に作ったという。1991年にイギリス・バーミンガムで開かれたIOC総会では、日本の招致委員会はチェンバレン元首相の別荘を借り切って委員たちを接待した。堤義明は誇らしげに、「長野オリンピックはわれわれが買い取った」と言っていた。

 長野オリンピック招致のために、どのくらいのお金が使われたのか。長野五輪の招致委員会の県、市の税金10億も含めた招致費用は25億円だそうだが、肝心の会計帳簿類は「紛失」してしまったのだという。公表された25億円でさえこのありさまだから、どれだけの闇の資金が使われているか見当がつかない。

 さらに問題なのが、招致後のお金の使われかただろう。オリンピックのために、公金が湯水のように使われて新幹線や道路が造られた。たとえば長野市から志賀高原までの道路はオリンピック道路として整備された。問題はこれによって、誰が一番利益を得たかということだ。

 じつは、長野オリンピックで最大の利益を得たのは堤義明だと言われている。志賀高原焼額山スキー場は堤氏が経営している。そして、そこには堤氏の別荘があり、もちろん西武系のプリンスホテルがある。堤にとって、長野オリンピックは利益誘導以外の何者でもなかった。

 長野オリンピックは甚大な環境破壊をもたらし、国と地元の自治体に巨大な赤字をもたらしたが、そのなかで堤はひとりだけ名誉と巨利を得た。しかし、長野オリンピックの舞台裏をみれば、国の財産と自然を食い物にする堤の悪徳商法がどのようなものか一目瞭然となるだろう。


2005年01月26日(水) 国を食い物にした一族

 西武鉄道の前身は、堤康次郎が1912年に設立した武蔵野鉄道で、これが1946年に西武鉄道と商号を変更した。東証に上場されたのは、1949年である。その後、西武王国が成立する過程でどんなことが行われたか。

 その内幕を暴露した本がある。書いたのは、堤康次郎、義明両氏の二代にわたって仕えた「大番頭」の中嶋忠三(故人)で、本の題はそのものズバリ、「『西武王国』その炎と影−側近No.1が語る狂気と野望の実録」(サンデー社)だ。

 忠三郎氏は戦前、東京地裁判事や上海総領事などを務めた後、1946年に西武鉄道に入社し、役員兼専属弁護士として、康次郎、義明氏の親子二代に仕えた。

 中嶋忠三氏がこの本を書いたのは、西武グループの草創期の精神と苦労を、若い社員たちに伝えたかったからだという。しかし、事前に本に目を通した堤義明は驚いたに違いない。そこにはあまりにもおぞましい自らの悪行が赤裸々に語られていたからだ。

 90年9月の出版を前日に、西武鉄道前社長の戸田博之(当時は常務)がやってきて、1億円の小切手と引き換えに、本の出版を見送るように説得した。そして本はコクド(当時・国土計画)の秘書室がトラックを手配し、一晩のうちに全て回収され、焼却処分されたのだという。したがって、この本は正式に出版されたとはいえない。

 それでも、中嶋忠三氏の息子さんの手元に残された一冊によって、本の内容を知ることができる。この本を紹介した「東京新聞」(2004/12/1)の記事から、国会でも疑惑が追及された東海道新幹線の新横浜駅周辺の土地買収について、忠三氏の文章を孫引きしておこう。

<東京オリンピックの前年のこと、東海道新幹線建設にまつわる土地の件では、厄介な問題が発生した。私はこれにも大いに働いた。

 堤は、新横浜駅建設予定地を測量が始められる以前に知り、その周辺の地所を何万坪も買い占めていた。しかも、西武の名を出せば、直ちに察知されると思い、関係する不動産会社を使って買収していたのである。
 
 堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報に間違いないところであった。

 西武がここでいかに大きな利益をあげたのかは計り知れない。まかり間違えば、大変な事件に発展するところだった>

 たしかに、堤義明もこんなあぶない内輪話を暴露されてはたまらないだろう。しかも、著者は西武の番頭としてトラブル解決を一手に引き受けてきた人物である。本人は西武のためにこんなに尽くしてきたという思いがあるから、よけいに始末が悪い。

 堤康次郎は、政治家として衆議院議長まで登りつめ、政治家の力も役得も熟知していた。その役得を100パーセント利用して、巨万の富を築いた。その出発点はかっての皇族・華族や、国鉄などの公共の土地や施設を安く買い叩いたものである。

 二束三文の土地を買いあさり、そこに政治力を使って道路を通し、土地を高騰させて得た不当なものもある。ここで「噂の仕置人」こと草野洋さんの言葉を引用しておこう。

<先代康次郎は衆議院議長にまで登りつめた"政商"で、その政治力を駆使して滋賀県だけでなく埼玉、群馬など次々と土地を手中にし、事業展開をする。そして地方自治体の知事や市長らを抱き込む。そして自治体の共有財産を食いものにする。

 名神高速道路の通る地域を、国会議員の立場を利用していち早く情報をキャッチし、周辺の山林を二束三文で買収した。間もなく建設予定地があるその山林を道路公団に売却する条件として、高速道の下にいくつかのトンネルをつくらせた。

 もちろん周辺の土地は高騰し、予めトンネルを通しておいた高速道路の向こう側も住宅を建てて売却した。これなどは、公共の資金で道路をつくらせ付加価値をつけて値を上げ、そして暴利をむさぼる。"西武悪徳商法"の典型だろう>

 義明は先代康次郎と違って自らは政治家にはならなかったが、40年にわたって、政権党である自民党の幹部をあやつってきた。たとえば小泉首相が所属し、森前首相が主宰する清和会の事務所は、いまだに赤坂プリンスホテルにある。

 こうして堤義明は日本の政治に隠然とした力を及ぼしてきた。西武グループの数々の悪行が暴かれ、王国の威光は地に落ちたとはいえ、その総帥である義明にまで司直の手が及ぶかどうかわからない。義明を留置所の塀の中に落とす正義の風がいかに吹いても、政界の方から、これをうち消すどす黒い風がもうれつに吹いてくるに違いないからだ。

(参考サイト)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20041201/mng_____tokuho__000.shtml


2005年01月25日(火) 名門を食い物にした一族

 2004年11月21日午前、山形県温海町の海岸で男の水死体がみつかった。遺体はコクドの総務部次長(54)だった。次長はコクドで株式事務を担当しており、西武鉄道による大株主保有比率の虚偽記載問題に関連して、証券取引等監視委員会から任意の事情聴取を受けていた。

  たとえ自殺だとしても、彼を死に追いつめた巨大な力があったことは事実だろう。「噂の仕置人」こと、フリージャーナリストの草野洋さんは「シリーズ西武」のなかで、次のように書いている。

<「西武鉄道」のある役員は「義明さんは太陽で、あとはみんな石コロだよ」と言った。お茶を運んできた女性秘書は、床にひざまずいて差し出す。西武が開発した"鎌倉霊園"には、毎年元旦にはグループ幹部500人が、先代の墓前に手を合わせる。

そして「感謝奉仕」の社是を引き継ぐと称して西武グループの「奉仕当番」だ。これは西武グループの誰かが、毎日2人か3人で墓地の横にある休憩所に泊り込む。各自手弁当でこの墓地に出勤して清掃する。

 これは狂信的な宗教団体のようなもので、義明のこうした前近代的な君主制は何によって培われたのだろう>

 日本の家庭や職場には、まだたくさんの「君主制」がのこっている。そしてその象徴が、西武グループに君臨した堤義明だろう。西武には戦争中の日本とおなじ狂信的な精神構造がそのまま残っている。これは北朝鮮と少しも変わらない。

 堤義明の権力の源泉は世界一とも言われた巨大な資産である。堤はこれを有効に使って、権力に接近した。元首相の小渕恵三(故人)は草野洋さんに、「義明さんは大物だよ。われわれがゴルフに行くと、何人連れていってもタダでやらせてくれて、プリンスホテルに泊まらせてくれるよ」と言ったそうだ。

 日本の政治家は金に弱い。堤は西武鉄道や西武球団、プリンスホテルのオーナーであるばかりではなく、ある意味で自民党のオーナーでもあった。だから彼の主宰するパーティに元首相や現役首相がこぞってやってくるわけだ。

 政治家の権力は長続きはしない。国会議員は落選すれば「ただの人」である。しかし、堤義明の権力は世襲であり、それは次の世代へと受け継がれる。つまり、ある意味でそれは死後にも残る永久的なものだ。その象徴が鎌倉霊園の堤家の墓だろう。

 先代の堤康次郎は滋賀県の農家の出身である。それが戦後のどさくさにまぎれて一代で財を築いた。財を築いたばかりではない。国会議員になり、衆議院議長という最高権力機関の長にまで上り詰めている。

 堤康次郎は自らの出自に対するコンプレックスの裏返しか、異常なまでに「皇族」や「華族」にこだわった。具体的に言えば、戦後落ちぶれた「宮家」や「華族」の財産に目を付けて、これの買収に執念を燃やしたのである。そしてそのあとに立てたのが「プリンスホテル」である。

 明治天皇は「北白川の宮」、「竹田の宮」、「東久邇の宮」、「朝香の宮」の4人の皇女に約4万坪の土地を持参金としてもたせた。堤康次郎はこれにねらいをつけた。たとえば、北白川家の約4万平米の高輪の土地は衆議院議長に就任した2ヵ月後に手に入れて、ここに「新高輪プリンスホテル」を建てた。「赤坂プリンスホテル」などもそうである。

 宮家のほかに、彼は旧財閥系の土地も買収した。旧財閥の岩崎小弥太(三菱財閥)の持っていた伊豆長岡の別邸を調査もしないで言い値で買い取ったという。こうして堤康次郎はあくなき貪欲さで「名門」に接近したが、彼自身は名門にはなりきれなかった。

 63年の衆議院選挙で堤康次郎は2位の宇野宗佑を7000票近く引き離して7万8300票余りを得票してトップ当選を果たした。しかし、この選挙で彼はなりふり構わぬ買収作戦を展開し、選挙違反史上最高の103人という逮捕者をだした。草野洋さんの「シリーズ西武」から引いておこう。

<この違反で検挙された者は237名、起訴された者120名、有罪が100名、無罪が5名、病気で審理が停止した者3名、病気で公判棄却が12名など。その内訳は驚くなかれ市の選挙管理委員長から市教育長、市町村長が9名、県議6名、前・元県議8名、市議22名などの地方名士がぞくぞく顔を揃えた前代未聞の選挙違反事件だった>

 康次郎は1964年5月18日の初公判前の4月に74歳で他界した。跡をついだ義明は先代の失敗から何を学んだのだろう。70歳になった彼も先代と同じ過ちを犯して、悪名だけを残して舞台から去ろうとしている。


2005年01月24日(月) 落ちた偶像

 1987年に堤義明は有力経済誌『フォーブス』で世界一の富豪と書かれた。資産総額は、210億ドル(日本円で3兆1,500億円・当時)ということだ。このときの世界ベストテンには松下幸之助が9位で入っていた。

 松下の資産総額は20億ドル(約3,000億円・当時)で、堤の10分の1である。ところが、両者の納税額は、松下孝之助が6億9,761万円にたいして、堤義明が2億4,468万円と3分の1である。資産総額からしたら、松下の30分の1ということになる。

 義明が君臨するコクドは、10年ほど前の資料によると40兆円という土地を所有しながら、納めた税金は1,300万円にすぎない。このことについて、義明は「税金を国土が払っていない理由は、利益があがっていないだけのこと。やりたい仕事が山ほどあって事業規模を広げているので、税金を納める余裕がない。従って利益が出ないので払わない」と答えていた。

 1998年に「高輪プリンスホテル」がオープンしたとき、開業記念パーティーには、総勢1万人の招待客が堤義明にこぞって「謁見」した。この中には元総理の羽田孜、竹下登、村山富市から、この後総理になった森喜朗までふくまれる。

 芸能界、スポーツ界からもトップスターが駆けつけたが、なかでも一目を引いたのが義明の隣で満面に笑みをたたえている女優の沢口靖子だった。彼女はプリンスホテルのコマーシャルに出演し、義明との親密な仲が噂されていた。

 2002年4月に行われた「品川プリンスホテル」の「エグゼクティブタワー」のオープンパーティーには2万人もの招待客を呼んだ。このときは小泉首相も駆けつけ、女優の朝丘ルリコや工藤静香らを交えて記念撮影をしている。

 しかし、今から振り替えってみると、この豪華なショーも、堤義明の精一杯の悪あがきだったのかもしれない。この頃、西武王国はすでに大きく傾いていたからだ。それどころか、すでに「王国」の落城がすぐそこに迫っていた。

 金融機関は、「西武鉄道グループ」16社に対して、総額1兆2,566億円を貸しこんでいた。「みずほグループ」が3,230億円で、全体の4分の1になる。「三菱東京グループ」が2,144億円。「三井住友」が870億円。「UFJグループ」は668億円。

 これらの銀行が、アメリカの圧力や金融庁の指導のもと、不良債権化をおそれて、資金の回収に回り始めていたからだ。堤はこの圧力をひしひしと感じ始めていたにちがいない。時の権力者小泉首相との親密さをいくら演出しても、もう往時のカリスマを回復することはできなかった。

 そしてついに、破綻がはじまった。2004年3月、西武鉄道が総会屋へ「利益供与」していたことが明らかになり、専務取締役らが逮捕されたのだ。堤義明は「自分と事件は無関係だが、公共事業を営む会社として起してはいけない事件」と言って「西武鉄道」会長を辞任した。

 さらに、去年の10月15日、堤義明は、突然記者会見を開き「グループ企業すべての役職を同日付で辞職する」と表明した。これはコクドが大株主である「西武鉄道」の株式について、さらに個人名義1,100人分の大量の株を、実際には「コクド」が保有していることがわかったからだ。

 それまで、大株主コクドの株式保有率が約68%といわれてきた。ところが実際には西武鉄道の株を88%も保有していたことになる。そして、西武鉄道はこれに相当する1200人分の株式の配当として毎年約4億数千間万円をコクドの口座にまとめて振り込んでいた。

 特定の株主が全株式の9割ちかくも所有しているということは、市場に開放される株式が1割しか存在しないということである。法律によれば、特定の株主が80%以上保有した状態が1年以上続いた場合には、上場廃止となる。ところが、西武鉄道は有価証券報告書の記載を偽って、こうしたことを30年以上もやってきた。

 西武グループの総帥として「天皇」と呼ばれてきた堤義明は記者会見で、「経営にタッチしていなかった」「何も承知していなかった」、と空々しい責任逃れに終始した。そして、こうした場合、起きることが起きた。つまり株式事務の担当者K・Yが自殺した。

 K・Yは法定外株式の保有が発覚することを恐れた堤義明の指示にしたがい、大量の株式売却の処理にあたっていた。そして問題発覚以降は取引先からの買戻し請求などへの対応に追われていた。

 これにくわえて、「SEC」(証券取引等監視委員会)の調べが彼に集中した。こうして追いつめれるなかで、自らの口を封じるための自殺だったのだろう。「歪んだ忠誠心」ゆえの自殺だったのかもしれない。

(参考サイト)
「噂の仕置き人」
http://uwasanoshiokinin.com/series-seibu.html


2005年01月23日(日) 堤王国の崩壊

 西武鉄道グループの中核企業コクドで、名義と実際の所有があいまいな株があることが1月7日に開かれた西武グループ経営改革委員会で報告された。コクドには役員、社員名義の株がたくさんある。しかし、この持ち主が誰だかわからないのだという。

 コクド株を買った社員は、購入代金をすぐに返金されている。しかし名義株の持ち主なので、配当が支払われ、株主総会の召集通知も受ける。ただし、社員でなくなると、名義も消える。これでは株の所有者だとはいえない。どうしてこんな不可解なことが起こったのか。

 コクドは資本金1億円に満たない企業だが、実は西武鉄道というとてつもなく巨大な企業の株の多くを所有し、これの経営権を握り、資産や人材を支配している。しかも、西武鉄道は株式を上場している正式の企業だが、親会社のコクドはそうではないので、監督官庁の査察も及ばない。

 こんな複雑なカラクリを作ったのは、グループ創業者である故・堤康次郎だ。株式を上場しない「私企業」であれば規制はゆるやかで、社長は思い通りのワンマン経営ができる。まずはコクドを支配し、コクドを使って、本体の西武鉄道を思いのままに支配してきたわけだ。法律の盲点をついた汚いやり方である。

 西武鉄道は巨大な利益をあげながら、法人税を納めない企業としても有名である。企業として利益を出さないように、土地を買い占め、不動産投機に走った。利益ばかりではなく、銀行から資金を調達し、これを湯水のように使って土地を買い占め、これがいっそう土地ブームをあおりたて、バブルへと日本経済を暴走させた。

 堤義明はこうした手口で巨万の富を築いた。バブルの絶頂期のころは資産3兆円といわれ、世界の大富豪の仲間入りをした。現在でもその所有する土地は1600万坪を下らないといわれ、おそらく日本一の富豪であることには変わりない。

 その一方で、西武鉄道は1兆円を越える負債をかかえている。わかりやすく言えば、庶民の銀行に預けたお金が、西武鉄道とコクドを通って、すべて堤義明のもとに吸い取られたのである。その巧妙な仕掛けについては、すでにだれもが気付いていた。しかし、政界と財界のみならず、右翼にも影響力がある堤義明をだれも批判できなかった。

 堤義明の経営するプリンス・ホテルは皇族や政府要人が利用することで有名である。小泉首相も例外ではない。堤義明は闇の帝王としての顔の他に、一流企業の経営者としての顔を持ち、政府の審議会の委員に名を連ね、日本オリンピック委員会の委員長などの輝かしい肩書きを持っている。

 しかし、ここにきて、ようやくその正体があばかれ始めた。改革委は、コクド株の所有実態の解明をさらに進め、堤義明・前コクド会長によるワンマン経営を脱するために、堤氏が保有するコクド株の放出を求めることも検討しているという。

 さらに、堤義明の私生活についても、その一端が暴かれ始めた。1月20日発売の「週刊文春」で、元フィギュアスケート五輪代表でタレントの渡部絵美(45)が、で前コクド会長の堤義明氏(70)から過去にセクシャルハラスメントを受けたと告白している。

 渡部がセクハラを受けたのはインスブルック五輪に出場した直後の17〜18歳のころで、フィギュアスケート界のアイドル的存在だった彼女は、当時40代の堤義明に「スケートを続けたかったらおれの女になれ」と言われ、プリンスホテルの一室で、むりやりベッドに押し倒されたりもしたのだという。

 渡部はそれでも堤義明を拒否した。そうしたら、コーチからまで、「君がスケートを辞めれば、後進のためになる」というわれ、ロッカーの鍵まで奪われることになった。しかし、彼女はあきらめずに、米国に渡り、見事にカムバックして、オリンピック入賞を果たす。

 渡部絵美はこうした過去をようやく発表した。それはコクド株疑惑が引き金になり、もはや堤義明批判がタブーでなくなったからだろう。彼女は「週刊文春」のなかで、「この世にも神様がいるということがようやくかりました」と述べている。

 それにしても、17歳の渡辺絵美の見た世界は、あまりに異常だった。お茶を運んでくるコクドの社員は、堤の前で緊張して手が震えていたという。部屋にやってくる幹部社員達は堤の前に跪き、額ずくものまでいる。

 そして、あげくの果てには、密室での強姦未遂。部屋から逃げだして、秘書にそのことを訴えたら、「減るものじゃないだろう」と言われたという。こうした圧力にまけずに、ひたすら自分のスケート人生を貫き通した渡部絵美は立派だと思う。

 「現役時代、西武鉄道・国土計画の社長だった堤義明氏より人間としてのプライドを傷つけられるような数々のセクシャルハラスメントを受けました。いまだにトラウマのようになってしまい、その傷が心に焼き付いています」という彼女の言葉を、堤義明はどう受け止めているのだろう。

 堤義明の悪行はこれからたくさんでてくるだろう。公人として枢要な地位を占めていた彼の社会的責任は重い。しかし、問題は彼の個人的な責任だけではない。彼のような経営者を生んだのは、日本の非民主的な企業風土である。

 日本に、いまだに無数の「堤義明」がいて、「渡部絵美」がいる。そして、企業という治外法権の世界で、人権を踏みにじられながら、「減るものじゃないだろう」とうそぶく大勢の社員がいる。問題なのは、人権侵害を見過ごし、専制支配を許す風土に、暗黙の了解を与え続けているマスコミや私たちの姿勢である。


2005年01月22日(土) ブッシュ帝国の野望

1月20日に、いよいよ2期目のブッシュ政権がスタートした。ワシントンで行われた就任戦説で、ブッシュ大統領は「全世界に自由を拡大」をと訴えた。そして、「すべての国で民主化運動の拡大を支え、世界の圧政を終わらせる」ことを誓った。

 後世の人がこれを読めば、アメリカこそが世界のお手本となる「自由と民主主義」の国、圧政から解放されたすばらしい理想の国であり、ブッシュはその偉大な指導者のように思うに違いない。あるいは、世界に愛と平和の福音をとく崇高な伝道師のように思うだろう。

 しかし、同時代に生きている私たちは、そうした絵空事に騙されたりはしない。就任式は熱烈な歓迎ムードにつつまれたが、その理由は会場にブッシュ賛成派のみが行くことが許されたからである。そのために、約1万3000人もの警察と軍が動員され、ホワイトハウス周辺の道路は封鎖された。

 こうしたものものしい警戒態勢のもと、就任式会場の周りに行くことが許されなかった人々は、周辺で大規模のデモを展開した。その際、警察によって催涙スプレーが使われ、少なくとも10人が拘束された。これが「自由と民主主義の国アメリカ」の現実である。

 ルイジアナ州ニューオーリンズでは、「民主主義の葬儀」と題した行事が開催され、約1500人が参加し、ジャズに合わせて行進するニューオーリンズ式の葬儀を模して、合衆国憲法が書かれた棺を先頭に市内を練り歩いたのだという。

 スマトラ沖地震の津波被害を受けて、ブッシュ大統領はさっそくジェブ・ブッシュ・フロリダ州知事を被災地域に派遣した。このことからもわかるように、2期目をむかえたブッシュ政権のねらいは、ずばり、弟を後継者として次期大統領にすることだ。アメリカの大統領職をブッシュ家で世襲化しようというわけである。

 そのために、ブッシュはこの2年間の間に、さらに思い切った手を打ってくるだろう。かってローマが共和制をやめて帝政になったような変化が、民主主義を標榜するアメリカでおきるのではないだろうか。民主主義が容易に独裁制をうみだすことは、プラトンがすでに「国家論」で予言している。

 すでにブッシュ家は石油産業と軍需産業をおさえ、金融をも支配しようとしている。テロの恐怖を背景にして成立した愛国法に基づき国民への監視体制を着々と構築しているので、やがてアメリカのメディアもブッシュ王朝支配の道具として機能するようになるだろう。

 そのとき日本は名実ともにアメリカ帝国の属領である。日本の一部のエリートはアメリカ帝国の市民権を得て、我が世の春を謳歌することだろう。そのころはアメリカ国旗に礼拝しないと、帝国の敵として密告されたり、処分されることになるかも知れない。こうして歴史は、歴史を忘れた人たちの手によって、何度でもくりかえされる。


2005年01月21日(金) 寒々とした声量指導通知

 20日の朝日新聞夕刊に掲載された「国歌の声量、事前指導を」の記事を読んで、日本もここまで来たかと寒々とした思いになった。記事から抜粋しよう。

<東京都町田市の教育委員会は、今春の卒業式・入学式で児童・生徒が校歌などと同じ声量で国歌(君が代)を歌うことができるよう、事前に指導することを定めた通知文を市内約60の小中学校長に送った。都教育委員会は、昨年の卒業・入学式で「国歌斉唱」の際に起立しなかった教員らを200人以上処分しているが、児童・生徒の声の大きさまでは指示していない>

<通知は昨年12月16日付で出された。卒業式・入学式の重点項目として、「国旗及び国歌について十分な事前指導を行う」とあり、「特に、国歌については、ほかの式歌と同様の声量で歌うことができるよう指導する」としている。さらに、1月から3月までの国歌の事前指導の計画書や、式当日の実施状況の報告書の提出なども求めている>

<都教組町田支部は「これまでの教師への強制に加え、今回は生徒の内面にも踏み込むもの。思想・信条や国籍・宗教上の理由で歌えない小中学生もいる」と通知を問題視する。近く、内容の撤回を求める要望書を市教委に提出するという>

 こうした通知が出たのは、昨年4月の定例会で、教育委員の一人から「式場で国歌の声が小さい。きちっと歌わせてほしい」と市教委に要望があったからだという。市教委指導課は「国歌だけ声量が違うのはよくない。事前指導については各学校に任せる。子どもに自信を持って歌ってもらうためで、強制ではない」と話しているが、「強制でない」というのは建前にすぎない。いやはや何とも馬鹿馬鹿しい時代になってきたものだ。

 私の次女の通っていた名古屋市の公立高校はたいへん自由な学校だった。しかし、転勤してくる先生の中には、その自由な校風を「ゆるみすぎだ」と苦々しく思う人もいた。何かにつけて、「髪が茶色い」「スカートが短い」というので、「先生なら、もう少し内容のあることを言って下さい」と生徒達が逆襲したという。

 次女もその高校に通っていた頃はルーズを穿き、髪を染めていたが、決して不良ではなかった。ボランティア活動にも参加したし、塾で家庭教師のアルバイトをしながら小遣いを稼いだ。塾や補習とは無縁の3年間を過ごしながら、親の希望した公立大学に進学している。

 これに対して、私がかって勤務した豊田の県立高校では、国旗や国歌への指導からはじまり、ついには下足箱の靴の向きまで強制していた。そして明けてもくれても受験勉強である。たしかに大勢の生徒を有名大学に進学させたが、それが本当に「教育」の名に値するものであったか疑問である。

 その一端は、「日の丸の好きな県立高校」にも書いた。日本中をこんな自由のない、そして「教育」とは無縁の寒々とした世界にしてもよいのだろうか。そんな打算と強制だけが支配する世界で、子どもの豊かな心が育つとでも思っているのだろうか。教育を誤るということは、国の将来を誤ることである。私は熱烈な愛国者ではないが、最近の日本のありかたについては、憂国の情を抑えがたい。

−−「日の丸の好きな県立高校、気骨のある生徒」より抜粋−−

 全国にどのくらい学校があるのか知らないが、下足の向きまで完全にそろっている学校は少ないだろう。どうしてそんことが可能かと言えば、教師がそれをチェックしているからだ。下足の向きが違っている生徒がいると、番号に印がついた名票が担任のところに回ってくる。生徒は朝のSTで注意されて、すぐに昇降口に走るのである。

 だから生徒もそんなへまはしない。校則に従って、素直に下足の向きを揃える。教員が言われた通り、机の上を空にし、入り口の名札を裏返しにして帰るのと同じである。しかし、教員に天の邪鬼がいるのと同じく、生徒にも天の邪鬼がいる。私のクラスのS君である。印の点いた名票が私のところに回ってきたので、「下足の向きが違っている」と注意すると。「どうして反対ではいけないのですか」と反問してきた。

「学校の規則だから従うべきだ」と型どおりの答えを言う。
「なぜ、そんな規則があるのですか」
「この学校はお客さんが多いだろう。お客さんを真っ先に昇降口に連れて行くんだ。下足をそろっていると、この学校は生徒のしつけが行き届いていて、良い学校だなと思ってもらえるだろう」
「それではお客さんによく思われるために、下足をそろえるのですか。なぜ、お客さんによく思われないといけないのですか」

 食い下がってくるS君を説得できなかった。何しろ私自身、「下足の向きなどどうでもいいじゃないか」と腹の中で思っているのである。説得に力が入らないし、迫力もなかった。S君は下足を直しに行こうともしないし、翌日も、その翌日も私に名票がまわってきた。

 職員室の私の席はB指導部長の前だった。職員室の机の配置は、各部ごとにまとまっていて二人ずつ向かい合っているが、部長や主任だけは教頭と同じ向きで、ヒラの教員を監督できるようになっていた。B部長の席の前に私と指導部副主任が向かい合っていた。誰がどの席に座っているかで序列がわかったが、私は副主任についで指導部No3の位置にいた。席が決まっているのは毎朝職員朝礼が行われる会議室でも同じだった。とにかく序列にうるさい学校だった。そして教員や生徒までがそれを気にするのである。

「おまえのところのSはどうなっているのだ。毎日下足が駄目じゃないか」と、B指導部長がとうとう苦虫を噛みつぶしたような顔で声をかけてきた。
「どうにも、説得ができません」と私はうなだれた。指導部員として面目ないことだ。あきらかに力量不足である。教師としても情けない。
「すぐに呼んでこい」と部長の声が荒くなる。
 授業中に呼び出すと、さすがS君も青ざめていた。B部長は怒ると目つきが違ってくる。教員の私でさえ蛇に睨まれた蛙のようになるのだから、生徒が恐怖心を抱いくのも無理はない。

 私はS君もすぐに折れるだろうと思った。ところが、指導部長の前で床に正座させられても彼は態度を変えなかった。「つべこべいわずに、規則に従え」と声を荒げるB部長に、「納得できません」と食い下がっている。B部長の目が怒りに煮えたぎっていた。私はそっと目を伏せた。やはり保護者召喚かなと憂鬱になった。しかし下足の向きが違っているので、保護者を呼び出すなどということは何とも馬鹿らしい。

 B部長もそこまで決断ができなかったようだ。
「担任の側で、正座していろ」
 そう言い残すと、不機嫌を体に現し、物も言わずに職員室を出ていった。S君は立ち上がると、今度は私の横に来て正座した。
「直してこいよ。もう終わりにしよう」と言うと、
「いやです」とはっきりいう。

 そのとき、私は高校時代体育の時間、教師に抗議して座り込んだ気骨のある同級生がいたのを思い出した。そのとき、私も彼の傍らに座ることで「こんなことはやめてください」とはっきり意志表示をした。結局クラスで7人ほどが座り込み、私たちは教官室に呼ばれて説教されたが、そのときの自分たちの行動を私は誇りに思っている。人生、意地を張りたくなるときもある。私ははじめからS君を叱責する気にはならなかった。むしろS君に同情していた。

 チャイムがなり、教員たちが職員室に帰ってくる。
「どうしたのですか」と口々に訊かれて、
「ちょっと、下足の向きがね」と私は苦笑するしかない。クラスの生徒が何人か入り口からこちらを眺めていた。次は私の物理の授業だった。
「どうする、まだ坐っている?」と訊くと、
「はい」と彼はうなずいた。しかしもう慣れない正座が限界に達していることはあきらかだった。

 授業の途中、彼はやってきた。しかし、彼は私と目をあわさなかった。授業が終わって昇降口に行くと、彼の下足の向きがなおっていた。私はホッとしたが、同時に淋しくなった。S君は納得したわけではない。私も含めて学校の教師に不信感を抱いたことだろう。私は自分と生徒との間が次第に遠くなっていくのを感じて、こんな学校に長くはいたくないなと思った。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/koukou.htm


2005年01月20日(木) ジャーナリズムの使命

 朝日新聞は1月12日の朝刊で、01年1月、旧日本軍慰安婦制度の責任者を裁く民衆法廷を扱ったNHKの特集番組で、中川昭一・現経産相、安倍晋三・現自民党幹事長代理(当時:内閣官房副長官)が放送前日にNHK幹部を呼んで「偏った内容だ」などと指摘していたと報じた。

 さらに1月18日の朝日新聞によると、中川、安部両氏の「政治介入」を受けて、NHKでは番組内容の見直しがおこなわれ、43分の内容が40分に3分間カットされたのだという。

<編集作業が終わり、教養番組部長からOKが出たのは28日午後11時ごろ。番組は44分。それが再び大幅変更されたのは29日夕。番組制作局の局長室で松尾氏と国会対策の野島氏も参加した「異例の局長試写」(NHK関係者)があった。開始前、番組制作局長はスタッフに「(国会での予算審議の)この時期にNHKは政治と戦えない。天皇有罪とかは一切なしにしてよ。番組尺(長さ)が短くなったら、ミニ番組で埋めるように手配して」と述べたという。試写後、松尾、野島氏らが指示した主な修正点は次の3点。

 (1)秦氏のインタビューを大幅に増やす(2)民衆法廷を支持する米カリフォルニア大学の米山リサ準教授の話を短くする(3)「日本と昭和天皇に慰安婦制度の責任がある」とした法廷の判決部分のナレーションなど全面削除

 放送当日の30日午後6時半ごろ、43分版が完成。松尾放送総局長はさらに3分のカットを命じた。これにはスタッフが反対。「通常より短い時間で放送すると視聴者は異常性を感じる」と申し入れたが、放送総局長は「自分が全責任を取る」と応じなかった。

 放送3時間前の同7時ごろから再編集の作業が再開された。削除されたのは次の3点。(1)中国人被害者の証言(2)東ティモールの慰安所の紹介と元慰安婦の証言(3)慰安所や強姦(ごうかん)についての元日本兵の加害証言。こうしてつくられた40分版が、夜10時から放送された。 (01/18 03:02) >
http://www.asahi.com/national/update/0118/004.html

 中川昭一氏や安倍晋三氏、NHKは、朝日のこうした報道に対して、NHK特集番組をめぐる「政治家の介入はなかった」としている。とくに安倍晋三氏は連日テレビに出演し、朝日の報道は事実誤認であり、北朝鮮の謀略だなどとして反論した。自分のHPでも18日に、次のように抗議をしている。

<私がNHK幹部を呼び付けて政治介入をしたと報じた部分については、取材の内容も明らかにされず説明が尽くされているとは到底思えない。・・・番組内容に「偏っている」点があったからこそ、NHKが自律的に公平中立で多角的な立場にも考慮した編集をしたと言っているのであって、この点こそが問題の真相を極める重要なポイントになる>

http://newleader.s-abe.or.jp/modules/news/article.php?storyid=15

 今回の件については、長井NHKのチーフプロデューサーが勇気ある内部告発をしている。その会見の最中に、長井氏は次のように発言し、涙ぐんだ。

<で、不利益の問題のことですが、まあおそらく不利益を被ることにはなると思うんですけれども、私自身もこの四年間、私もサラリーマンですし、家族もあります。まあ家族が路頭に迷うわけにはいかないので、この四年間非常に悩んで…(うつむく)。………………。でも、あの………………………やはり真実を述べる義務がある……というふうに…決断するに到りました。(涙をみせる)>

 放送法第三条には、<放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又(また)は規制されることがない>とある。また、第三条の二(1)には、<放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない>として、次の4点があげられている。

 一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

 二 政治的に公平であること。

 三 報道は事実をまげないですること。

 四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 問題は、<二 政治的に公平であること>の解釈である。安部氏や政権党の自民党などがさかんに口にするのが報道内容の「公正中立」ということだからだ。しかし、これは明らかに間違っている。

 「公正中立」ということはプロセスの問題であって、具体的に言えば、<意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること>である。その結果明らかにされた内容については、少しも「公平中立」である必要なはない。

 ジャーナリズムの使命は「真実」を報道することである。「真実」をつきとめる過程において、いかなる権威や権力にも屈せず、偏見や、時には常識にもとらわせずに、論理的で実証的な合理性を追求しなければならない。

 ジャーナリズムは「公平中立」でなければならないが、それは真実を追究する過程の問題である。その結果得られた「真実」については、たとえ権力側に不都合なことであっても、これを報道することがジャーナリズムの良心であり、勇気であり、社会に対する義務である。これが「言論の自由」の原点であることを、私たちは肝に銘じておく必要がある。

(参考サイト)
「NHKの「模擬裁判」を扱う特集番組に関する報道について」(安倍晋三)
http://newleader.s-abe.or.jp/modules/news/article.php?storyid=14

NHKの朝日新聞に対する抗議文は、
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/003.html

「NHKが困惑する特番「戦争をどう裁くか」騒動」
(週刊新潮 2001年2月2日22日)
http://www.tetsusenkai.net/official/etv/kiji.htm

「カットされた4分間の謎 NHK「戦争をどう裁くか」に何が起きた」
(週刊金曜日 2001年3月2日)
http://www.jca.apc.org/~itagaki/nhk/shukin353.htm


2005年01月19日(水) 人生をみつめる短歌

 俳句や短歌に親しむようになって、やがて20年になる。自分で作って楽しんでいるが、他人の作品を鑑賞するのも楽しい。とくに知人の作品には愛着を覚える。

 今日はeichanの作品を紹介しよう。去年1年間に「塔」という俳句雑誌に掲載されたもののなかから、私がとくに心を動かされた7首を選んでみた。

 ユトリロが白で描きし風景を探し求めてモンパルナスを

 ふと旅をしてみたくなりその夜の宿泊先をネットで探す

 生きがいは自分でみつくるものであるライフセミナーいつしか眠る

 言へるなら上司に向かひ叫びたし人生いいろいろ社員もいろいろ

 おかあさんがおかあちゃんに変はってた死近き母に吾は叫びし

 故郷の電話番号押してみる亡き母の声今も聞こゆる

 モネの絵を見つめていると百年余昔のものなる光が届く

 eichanは保険業界に身を置くサラリーマンである。短歌には彼の人生のバックグラウンドがよくにじみでていて、読んでいて共感を覚える。わかりやすい短歌だが、鑑賞の助けのために、eichan自身の解説を紹介しておく。

<ユトリロが白で描きし風景を探し求めてモンパルナスを

 フランスに行ったときの歌です。モンパルナスは多くの人であふれていましたが、ユトリロが描いた白の世界はどこにあるかと頭に浮かべながら歩いていました。自然に出てきた歌です。今年の年賀状にも登載しました。

 言へるなら上司に向かひ叫びたし人生いいろいろ社員もいろいろ

 小泉首相が働かずに社員として俸給を貰っていた時の返答をもとにした歌です。こういうことで済むなら人生楽なものです。この歌は会社の人が宴席で取り上げ、笑いをおこしました。本当は怒らないといけないことではあります。

  おかあさんがおかあちゃんに変はってた死近き母に吾は叫びし

 ガンで余命いくばくもない母に対し、幼い頃のように、「おかあちゃーん」と叫んでいました。いつまでも私の脳裏から離れません。短歌は上手に作るよりも人生の中で感じたことを素直に作ってゆけばいいのかなあと勝手に思っています。今の所、誰かに教えてもらったり添削を受けたりせず自分流でやっております>

 自分流といいながら、「自然に出てきた」と作者が語っているように、素直でケレン味がない。一家の風をなしているようにさえ思われる。滋味のある上質の味わいは、作者の人となりであり、人生のキャリアのなせる業なのだろう。

(参考サイト)
http://www1.kcn.ne.jp/~e-fuku/index.html


2005年01月18日(火) サバイバルだけが人生じゃない

 オーストラリア出身の現役ピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた映画「シャイン」(スコット・ヒックス監督)をDVDで見直してみた。封切りと同時に映画館で観て、その後、レンタル・ビデオでも見ているから、今回が3回目である。

 主人公の青年は留学先のイギリスでラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾き終わった直後に昏倒し、やがて精神を病んでしまう。今回は英語の音声と英語の字幕で見たが、主人公の少年に対して、父親が「サバイブ」という英語を何度か使っているのが印象に残った。たとえば、父親は主人公の少年にこう言う。

< No one can hurt me! Because in this world only the fit survive. >

<The weak get crushed like insects.
Believe me, if you want to survive in America you have to be fit and strong,
like me.>

<That's right, David. No one will love you like me.
You can't trust anyone but I will always be there…
always be with you, forever. Do you understand?>

 そして、主人公の少年に、ことあるごとに、次の言葉を呪文のように復唱させる。

<.Only the strong survive>

 父親は「俺が生き残ったのはおれが強者だからだ」「弱い奴は虫のように潰される」「この世は残酷だ」「他人を信用するな」と主人公に言い続ける。<survive>とならんで、<cruelty><can't trust anyone> というセリフが効果的に何度か使われていた。

 父親の言葉には、幼い頃に父親に虐待され、好きな音楽をあきらめ、移民として世間の辛酸をなめてきた彼自身の過酷な人生が投影されている。父親は自分の果たせなかった音楽家になるという夢を子どもに押しつけ、子どもをコンクールで優勝させるために全てをささげ、それを「愛情」だと自分にも息子にも言い聞かせる。

「お前は幸せだ。音楽ができるから。家族がいるから」といい、「僕は幸せだ」と何度でも主人公に復唱させる。家族の他の人間はみんな敵で、彼等をうち負かして世間の栄冠を勝ち取ることだけが人生の目標だと説き続ける。父親にとって音楽もまた世間の荒波をサバイバルするための手段だった。

 父親のこうした偏狭な芸術観と人生観が、主人公の生き方を重苦しくさせ、ついには廃人寸前まで追いつめる。しかし、映画の後半で、彼は街の人々の暖かい愛情につつまれるなかで、音楽の喜びに目覚めて、見事、街のピアニストとして更生する。

 そして再び舞台に立つ。彼を見守り、拍手を送り続ける多くの人たちのなかには、母の姿があり、姉や妹の姿があった。そしてかっての音楽の恩師や、彼の妻になる人もいた。みんなが彼を愛していた。人々の拍手に包まれて、涙を流し続ける主人公。それは彼がこれまで見せたことがないような晴れやかな笑顔だった。

 これはとても感動的な結末である。人生はたんなるサバイバル・ゲームの舞台ではなく、人々と悲しみや喜びをわちあいながら、支えあって生きる場所である。映画「シャイン」はこの大切なメッセージを、ラフマニノフの音楽に乗せて私たちの心に送り届け、人々とともに生きる人生の美しさをしみじみと実感させてくれる。


2005年01月17日(月) サバイバルという言葉

 昨日の日記で何度か用いた「サバイバル」という言葉について、岡本三夫(広島修道大学法学部教授)さんから、数回に及びメールで丁寧に教えていただいた。要点は岡本さんの次の言葉に要約される。

<今回のエッセー中でお使いになっている「サバイバル」という言葉ですが 「サバイバル・ゲーム」のような特殊な場合は別ですが それ以外のときは 単に「生き延びること」の意で 「競争」の意味はないと思います>

 岡本さんはヨーロッパを中心に海外の大学での教授歴が長く、英語、ドイツ語については読み書き自在という方である。このあと、様々な辞書の用例も示されて、サバイバルという言葉に、競争という意味がないことを明らかにしていただいた。

 たしかに英語のサバイバルには本来的に競争という意味はないようだ。しかし、手元にあるCOBUILD英英辞典(Helping learners with real English)を引くと、<manage to live> とある。

 現代では一般的に、ただ「生き延びる」のではなしに、困難な状況を「やりくりして生き残る」という意味で使われているようだ。さらに今日の競争社会においては、「やりくりして」のなかに、「生存競争をしのいで」というニュアンスが少しずつ濃厚になってきているのではないか。

 たとえば、2004年5月にアメリカ兵の虐待問題について、アメリカ議会の公聴会で証言した直後の13日にイラクを訪れたラムズフェルド国防長官が、アメリカ軍兵士を前に、辞任要求を掲げる新聞への対抗心をむき出しにして、勝ち誇ったように、「私はサバイブした」と英語で語っていたのが印象に残っている。

 私の英語の参考書の一冊に、「理系のためのサバイバル英語入門―勝ち抜くための科学英語上達法」(ブルーバックス)がある。著者は、東大サバイバル英語実行委員会で、東大工学部の西村肇、小宮山宏、斎藤恭一など。ここにも「競争に勝ち抜いて生き残る」というニュアンスが感じられる。東大生に大人気だそうだ。

 三省堂の英和辞典には、「滅亡、死亡を免れて生き残ること」とある。さらに、講談社の「カタカナ辞典」で「サバイバル」を引くと、次のように書いてあった。
�’�烈な競争を勝ち抜くこと
��危機的な状況を乗り越えて生き残ること

 適者生存を英語で the survival of the fitest という。たしかに、もともとに英語には「生き残ること」という意味しかなかったのが、競争社会の到来とともに「競争を勝ち抜いて」というニュアンスが次第に色濃くなって行ったのだろう。

 最近では「サバイバル社会」という表現もよく目にする。ゴーグルで検索してみると、500件以上のヒットがあった。ほとんどが「弱肉強食のサバイバル社会を勝ち抜く」というふうな表現で使われている。

 私はこれまでサバイバルという言葉が嫌いで、サバイバル社会という表現も滅多に使わなかった。昨日の日記ではこれを批判する意味で、いつになく多用してしまった。いささか世間の風潮に流されていたようだ。

 結論として、岡本さんの助言はもっともだと思われたので、「命と命がサバイバルする社会」を「命と命がサバイバルをめぐって抗争する社会」に訂正した。さらに、「サバイバルの舞台」を「サバイバル・ゲームの舞台」、「サバイバル主義」を「サバイバル至上主義」に訂正することにした。

<それでは、私たちはどうすべきか。新しい文明を構築することである。それは、世界をサバイバル・ゲームの舞台にしないような文明である。人生を単なるサバイバルのための舞台にしないような、しなやかでやさしい文化である。>

<戦争や紛争、犯罪はサバイバル至上主義の文明がもたらした悪しき産物である。私たちはいまやもてる叡智の限りを尽くして、命と命がサバイバルをめぐって抗争する社会から、命と命が支え合い、共生する社会へと、私たちの生きる仕組みを変えていかなければならない。残された時間はもうほとんどないのだから>

 これでかなり改善された。カタカナ英語は充分な注意が必要だ。岡本さんのご指摘は<正確な日本語>を書くために、たいへん参考になった。これからも御意見やご教示をいただければと願っている。今後の教訓として生かしていきたい。

 なお、岡本三夫さんは「日本平和学会」の理事で、前会長でもある。日本の政治と平和の問題について、国際的な視野に立った研究をされていて、「平和学―その軌跡と展開」などの著書や、「暴走するアメリカの世紀―平和学は提言する」ポールロジャーズ (著)などの翻訳もしてみえる。すぐれたHPをお持ちなので、アドレスを書いておこう。
http://www.law.shudo-u.ac.jp/users/okamoto/index.html


2005年01月16日(日) 命が共生する文明

 江草乗さんの人気コラム「江草乗の言いたい放題」には、昨日紹介したゾウと水牛の話の他に、野ウサギなどの野生動物も被害を免れたという注目すべきエピソードが紹介されている。

<スマトラ島沖地震に伴う津波の被害を受けたスリランカ南東部のヤラ国立公園では、野生動物の死がいが発見されておらず、関係者を驚かせているらしい。スリランカ最大の鳥獣保護区であるヤラ国立公園では数百頭のゾウやヒョウなどの野生動物が生息しており、今回の津波では、沿岸から3キロに渡って公園が洪水状態になったのである。ところが奇妙なことに、ゾウはおろか、野ウサギの死がいもまだ発見されていないのだ。これはどういうことなのだろうか。
 
 スリランカ政府の野生動物保護の担当官は、「動物には天災を感知する能力があり、第六感で異変が起きる時を知るのだろう」とコメントしているという。このヤラ国立公園では、日本人を含む少なくとも40人の観光客が被災した。人間は野生動物と違って全く無防備に津波の直撃を受けたからだ>

 ゾウと水牛の話も不思議だったが、こうした天災を予知する能力を、他のほとんどの野生動物も持っているということだろう。言語は人間を文明化したが、また貴重な能力を奪うことになったのかもしれない。

 昨年度は、世界規模で災害が多い一年だった。地震や台風、ハリケーン、大洪水などがひんぱんに起こり、多くの人命が奪われた。こうした天変地異について、天災だと片づけることに疑問を持つ研究者が増えている。多かれ少なかれ、そこに文明化がもたらした災害としての要素が見てとれるからだ。

 2003年秋に、米国防総省が地球温暖化に関する報告書を発表した。それによると、2020年にはヨーロッパの主要都市は海面下に没し、イギリスはシベリア化し、世界は干ばつと大洪水にのみ込まれるのだという。

 その結果、何が予想されるか。人々は食糧危機に陥り、飢餓と暴動が頻発し、各国は食料や水などの生活必需品をめぐって戦争状態になるだろう。大国は核の脅威を振りかざすようになり、世界は無政府状態と騒乱に陥る。これが、米国防総省の想定した近未来の地球の姿である。

 アメリカの凄いところは、こうした地獄を想定しながら、これを防ぐための手だてを講じようとしないところである。それどころか、軍事力を強化して、「さあ、こい! 何が来ても他のやつらにはまけないぞ」と待ちかまえている。こうした世界をサバイバル・ゲームの舞台とみる発想はほんとうに恐ろしい。

 わずか世界の人口の5パーセントにも満たないアメリカが、世界の富の大半を独占し、25パーセントのエネルギーを消費し、そして20パーセントの二酸化炭素を排出している。しかし、2001年に「京都議定書」から離脱したアメリカは、地球環境の問題について頬かむりしたまま、ひたすら経済優先主義を走り続けている。

 古来栄えた文明はいずれも滅亡している。エジプト文明、メソポタミア文明、ギリシャ文明、ローマ文明、いずれもそうだ。どうして文明は滅びるのか。それは文明そのものの内部に、自然破壊という滅びへの道が内包されているからだった。

 ローマが滅びたとき、「文明」は新たなる緑の大地を求めてヨーロッパに進出した。そして、またたくまに緑を奪い、次の処女地であるアメリカに進出した。そして「文明」はそこでも貪婪な食欲を発揮し、いまやアメリカの大半を砂漠の大地に変えようとしている。

 そればかりではない。「文明」はさらに巨大化し、いまや地球全体をグローバリズムの名の下に収奪しつつある。地球はこの凶悪な「文明」によって今や完全に蝕まれようとしている。「文明」はしかしこの先、どこに新たな天地を求めたらよいのか。

 残念ながら、人類は地球から外に逃れることはできない。「文明」の名の下で、人類はこの地球で生き残りをかけて、悲惨なサバイバル・ゲームを続けなければならず、その先に待ちかまえているのは、あのイースタ島の巨石文明に見られる共倒れの運命である。

 それでは、私たちはどうすべきか。新しい文明を構築することである。それは、世界をサバイバルの舞台にしないような文明である。人生をサバイバルの舞台にしないような、しなやかでやさしい文化である。

 そのような、たくさんの命が生き生きと共生することのできる美しい文明や文化はどこにあるか。それはかってこの世界に存在したし、日本にもゆたかに存在した。そして、よくよく見れば、いまもこの世界に存在している。

 よく見れば なずな花さく 垣根かな  (芭蕉)

 戦争や紛争、犯罪はサバイバル主義の文明がもたらした悪しき産物である。私たちはいまやもてる叡智の限りを尽くして、命と命がサバイバルする社会から、命と命が支え合い、共生する社会へと、私たちの生きる仕組みを変えていかなければならない。残された時間はもうほとんどないのだから。

(参考サイト)
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=41506&pg=20050104
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=41506&pg=20041230

http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/tisin0501.html#06

http://mitsui.mgssi.com/terashima/0404.html 


2005年01月15日(土) 人間を助けた動物たち

 年末のスマトラ沖地震で、15万人以上の人命が失われ、依然として3万人以上が行方不明になっている。20日を経た今でも、テレビは津波に呑み込まれる人々や建物、自動車などの生々しい映像を流し続けている。さらに、被災した何百万もの人々の生活苦や孤児の人身売買も問題になっている。

 そうした悲惨なニュースが続く中で、moriさんの日記「本能を失わない動物たち」に、地震による津波を予知して人間を救ったゾウと水牛の話が紹介されていた。人間をサメから救ったイルカの話もあって、思わず心を和ませてくれた。簡単に紹介しておこう。

 タイ南部のリゾート地カオラック浜辺には3800人の観光客らがいて、ほとんどが波にのまれている。しかし、観光用のゾウが、地震が起きた午前8時ごろに鳴き声をあげた。1時間余り後、ゾウは再び興奮し、背中に観光客を乗せたまま近くの丘に向かって突進し、背中に乗っていた観光客十数人が結果的に難を逃れたという。

 また、タイの北ラノーン県沿岸では、津波の直前、草を食べていた100頭余りの水牛が一斉に海の方を見て、高台に走り始めた。追いかけた村人たちは、「おかげでかすり傷ひとつなかった」と話している。 (asahi.com 2005/01/03)

 もう一つ、心温まる話を、moriさんの日記から紹介しよう。ニュージーランド北島のワンガレイ海岸沖で10月30日に、海難救助隊員ロブ・ホーズさん(47)が3人の少女たち(15)と一緒に泳いでいたところへサメがやってきた。

 ところが、そこにイルカの群が現れて、4人を取り囲むようにして40分あまり一緒に泳ぎ、「サメの襲撃から守ってくれた」という。これを報じたニュージーランド・ヘラルド紙によると、イルカが遊泳者を守った例は、ほかにもあるらしい。オークランド大学のコンスタンチン博士は「イルカには弱者を助ける習性がある」といっている。 (asahi.com 2004/12/06)

 巨大津波で、動物の死体が思ったほど見つかっていないという。自然現象に敏感な動物たちは、人間の知らない予知能力を持っているのかも知れない。わが家の水槽にはドジョウやウナギたちがいる。ウズラの「はるこちゃん」も居間で放し飼いになっている。私も彼等を注意深く観察することにしよう。

(参考サイト)
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/


2005年01月14日(金) しのびよる監視社会

 斎藤貴男さんの「安心のファシズム」(岩波新書)によると、殺人事件による死亡者は20年前の84年には1000人だが、現在は600人台だそうだ。

 にもかかわらず「犯罪白書」で犯罪ふえていると主張するのは、すべての被害届を認知件数にくわえるようにという警視庁通達が2000年4月に出されて、統計の取り方がかわったからだという。これで20001年から飛躍的に「犯罪がふえた」わけだ。こうした統計のトリックに騙されないようにしなければならない。

 杉田敦・法政大学教授は、「警察が主導的に陰謀をしかけているというよりも、むしろマスコミなどが、犯罪増加というイメージをふりまき、一般の人々もそれに同調し、後追い的に警察が動いている部分はないでしょうか」と述べている。

 現在街に凄い勢いで監視カメラがふえている。これについてもその効果に疑問をもつ人がいる。斎藤貴雄さんも「天下の往来は、これでは警察の私道とかわらない」と書いている。人権無視の監視社会がすぐそこまでしのびよってきている。

 日本で発生している殺人事件の9割が顔見知りによる犯行で、親族による犯行が約5割にのぼるそうだ。私たちが殺されるとしたら、家族による可能性が半分もあるということだから、赤の他人による強盗殺人も怖いが、それより怖いのは知人であり、もっと怖いのが家族だということになる。

 妻にとって一番恐ろしいのは夫で、夫にとって一番怖いのが妻である。子供にとって、決してみしらぬおじさんやおにいちゃんではなくて、実は一番の脅威は両親なのだ。とくに母親が父親よりも4倍も脅威だという数字が出ている。

 マスコミの多くは「犯罪白書」の主張をまともにうけて、警察に取り締まりを強化するようもとめている。自治体は監視カメラを設置できる条例をつくりだした。2003年3月で、新宿駅、池袋駅周辺にある監視カメラの数はすでに700台にもなっているという。

私たちもこれを当然のように受け入れ、戸締まりや警戒を怠らないように心がけているが、殺人事件のほとんどが顔見知りだとなると、対応も考えなければならない。監視によって犯罪を防止しようとすれば、家庭の中にまで監視カメラを持ち込まざるをえない。夫婦の寝室が警察の監視員によってモニターされる時代がくるかもしれない。

 実際、9.11事件以来アメリカは「愛国法」を成立させ、息の詰まる監視と密告の横行する社会になっている。マスコミが人々の恐怖と不安を増幅し、国家権力の庇護のもとに安全をもとめようとする風潮がはびこっているという。

 殺人事件は、日本で平均して毎日4件ほど起こっているが、40件以上起こっているアメリカとは比較にならない。家族が怖いといっても、それは比較の問題で、私たちが自分の家族に殺される確率は0.1パーセント未満だ。1000人に1人いるかいないかというレベルだから、神経質になって家族をうたがいの目でみるのはやめよう。

 実は、他人や知人・家族よりもっと恐れなければならない存在がある。それは「自分自身」である。この数年間、失業率に比例するように自殺者の数は3万人をこえている。

一日あたり、85人以上の人が自殺しているわけで、これは交通事故死の3倍、他殺と比べると20倍以上の数字だ。私たちは他者に殺されることよりも自分自身の手に掛かって死ぬ確率が何十倍も高い。一番怖いのは他ならぬ「自分自身」ということになる。

 人間以外で、用心した方がよいのは「病気」を除けば、次は「車」ということになるが、もう一つあげれば、それは「浴槽」だ。2001年に溺死した人は5802人もいる。毎日16人以上が溺死しており、そのほとんどが入浴中の不慮の出来事である。溺死者が殺人事件の死者の4倍もあるという現実をまずは重く受け止めるべきだろう。

 溺死者の割合は他国と比べて日本が圧倒的に高く、おなじ島国のイギリスの10倍もある。これは日本人がお風呂好きのせいで、とくに高齢者の溺死が多いからだ。私もよく風呂で居眠りするので注意したいと思っている。

「戦後教育悪玉論」にも最大限注意しよう。これを支持する人々は個人の尊厳や人権の大切さに思いを致してほしい。この日本を息くるしい「監視社会」にしないために、何が大切であるか、社会や国家の本質から考えてみる必要がある。 

 斎藤貴男さんは「安心のファシズム」で、日本をアメリカ帝国に従うプチ帝国と呼び、つぎのように書いている。

<かっての帝国(ローマ、イギリスなど)は、帝国が帝国であるために必要な国民の統合、総動員体制を、国内における福祉国家化で完成させようとした。「社会帝国主義」などとも呼ばれる所以である。

 新自由主義に貫かれた現代の帝国に、「福祉」の二文字は存在しない。代わりに採られた国民統合のための方法論は、ハイテクノロジーという凶器を得て、むしろむき出しの暴力性を帯びた。キーワードは「恐怖」、そして「安心」である>

 統計を見る限り、赤の他人よりも、怖いのが「家族」、そしてもっと怖いのが「自分」ということになるが、じつはもっと怖いのが「国家」なのだ。それも、他国ではなく、自国の政府が一番怖い存在だ。

 ハワイ大学のランメルの統計「政府による死」によれば、20世紀の百年間で国家によって殺された人間は、約2億人いるが、そのうちの1億3千万人は自国の軍隊や政府によって殺されているそうだ。ダグラス・ラミスも「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」という本の中で次のように書いている。

<二十世紀ほど暴力によって殺された人間の数が多かった百年間は、人類の歴史にはありません。これは先例のない、まったくの新記録です。そして誰がもっとも多く人を殺しているかというと、個人ではないし、マフィアでもやくざでもない。国家です>

 歴史的に見れば、国家権力のこの凶暴性をどうおさえるかということで、個人の尊厳や「基本的人権」を重視した民主主義原理が生み出された。監視されるべきは個人ではなくて、国家である。個人の犯罪に目を向けるべきだが、もっと恐ろしいのは「国家の犯罪」である。とくに第4の権力とも称されるマス・メディアは、この社会認識をしっかり持ってほしい。


2005年01月13日(木) 戦後教育悪玉論の虚妄

 「戦後教育悪玉論」が流行している。若者もふくめて現在の日本人の自己中心的なモラルの崩壊した現状は、戦後の民主主義教育や個人主義教育が行きすぎたせいだという。

 たしかに、自由にともなう責任の大切さを教えなかったのはまずかった。しかし、基本的には、民主的で自由な教育が子供をダメにしたのではなく、むしろ民主的で自由な人権教育が充分になされなかったことが問題だと捉えるべきだ。

 民主的で自由な人権教育が充分できず、自由に伴う責任についてもしっかり教えることができなかったのは、教師も親も「民主主義」や「人権」というものがどういうものかほとんど理解していなかったからだ。そして、現在も誤解している人の方が多い。

 私たちの世代は、建前の上では、戦後の民主教育の洗礼をうけている。教師はやはり戦時中の教育を受けた人が大半だから、頭の中で切り替えができなかった人もいた。戦後の教育が喧伝されるほど立派な「人権重視」の「民主的教育」であったかどうか、おおいに疑問である。

 たとえば私たちは中学、高校と坊主頭だった。高校の体育の授業では上半身裸になって、雪の上で腕立て伏せを強制されられたものだ。インフルエンザがはやっていて、体調が悪い同級生も何人かいたが、先生は「文句をいうな」と聞く耳をもたない。

 大学受験を直前に控えたある日、一人の同級生が座り込みをした。私も彼の横に坐った。坐った5,6人は放課後、教官室に呼ばれて、先生からお説教をくらった。

「人生には3つの大切なものがある」という立派な話である。しかし、私は、「威張ってばかりで、他人をおもいやることもできない教師がなにをいうか」と心の中で反発した。さいわい、次の時間から雪の上での裸体トレーニングだけはなくなった。

 思い返して、いやな思い出がある。高校の水泳の授業で、足の立たない深いプールで、全校生徒がクラスごとに一斉に泳がされた。有無を言わず、水の中に飛び込ませる。いやがっていても、水の中に突き落とされた。

 溺れそうになる者が続出した。途中に教員が待ちかまえて助けるのだが、溺れている生徒は必死だ。女子生徒の中には水着が脱げて、上半身あらわな子もいた。その子たちはプールサイドに助け上がられてから肩をふるわせて泣いていた。

 当時はだれもこれを「人権無視」だとは考えなかった。残念ながら、私もその時は、自分が泳げるのをよいことに、毎年このショーを興味本位に高みから見物していた。

 私が教員になった二十数年前も、先輩の教師の多くは戦中派で、陸士出の人や特攻の経験者が教頭や校長をしていた。ある学校では「匍匐前進」などという軍隊の言葉が教育現場で実際に使われていた。その学校の管理職も陸士出の元将校だった。

 私の勤務した高校でも、毎日生徒を使って、国旗を掲揚したり降納していた。そのあいだ、グランドの生徒や職員は直立不動である。これとは別に、私たちは教員も生徒も毎朝、玄関前の国旗に最敬礼するように校長命令で強制されていた。これは戦時中のはなしではない。戦後の話である。そして、近未来のすがたでもある。

 くわしくは、HPに掲載した「日の丸の好きな県立高校」を見ていただきたい。http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/koukou.htm


2005年01月12日(水) 自由を守り抜く

戦後60年間、私たちは日本国憲法のうえにあぐらをかいて、あまりにも「自由」を粗末にしすぎた。「平和」と「自由」があるのは当たり前だと思っていた。そうしたものがない社会にしないためにも、「平和と自由を守り抜く」という覚悟が必要だ。

 しかし、戦争を体験した世代が少なくなって、<日本を再びああいう国家にしてはいけない>と切実に思う人も少なくなってきた。それどころか、石原慎太郎をはじめ、<日本を再びああいう国にしたい>という人たちの声が、テレビや新聞、雑誌でもてはやされている。

 そうした中で、中国新聞は昨年12回にわたって、「宮沢喜一元首相が語る『ハト派の伝言』」を連載した。とくに最終回(12月27日)の「21世紀に託す記憶」が心に残った。「自由」の大切さを強調した部分を引用しておこう。

<思い返しても、戦争中の苦労や、食べ物のないつらさはほとんど記憶にない。覚えているのは、自由が圧迫される時の苦しさ、つらさです。例えれば、空気がなくなっていく過程に似ているのではないでしょうか。いくらでもある時はありがたいとは思わないが、なくなると苦しくなる。気付いた時はもう遅い。すべてが失われ、死滅する>

<私は日本人は、全体的に一つの方向にまとまっていきやすい国民と思っている。戦前は、国定教科書がこうした国民性をつくり上げる役割を果たしていた。戦後、教科書制度が変わって改善されると思ったが、どうもそうならない。日本人は、物分かりがいいもんだから、同じような反応をしてしまうんでしょう。本当は、一人ひとりがもっと個性的になっていいはずなんですがねえ>

<現代社会の荒廃は、戦後民主主義の「行き過ぎた自由」が原因だという意見をよく聞く。若者のモラルの低下を防ぐために、自由を規制しようとする動きが自民党内にあるのは事実だ。自由っていうものをあんまり粗末にするもんだから、そんな風潮になってしまう>

<私は、長い政治家人生の中で何度か閣僚をさせてもらった時、春の入省式で新入生には必ず「戦争だけはしてはいけない」と言ってきた。この気持ちはまったく変わっていないし、今でも機会があればこう言い続けている。そのために必要なのが、「自由を守り抜く」ことだ。

 「戦後の日本で一番いいことは」と聞かれれば、私は「自由があること」と答える。これこそが社会の活力だからだ。ですから、これからの時代を生きていく人たちは、自由の制限につながるような芽を常に摘み取っていく―その努力を怠らないでほしい>

 次世代へ託すメッセージに、宮沢喜一元首相は「大樹深根(たいじゅしんこん)」を選んでいる。大樹がしっかりと大地に立つには、土中に太い根を張らねばならない。大樹のような堂々とした社会は巨大な根を持っている。それが『自由』であり『人権』である。根が枯れたとき、大樹も枯れるしかない。

 宮沢さんの『大樹深根』にはこうした思いがこめられている。自由という根を大切にして、平和という大樹の実りを守らねばならない。言論の自由は、「言論の自由をなくせ」という自由もふくむ。そうした声に主導権を奪われて、日本を再び自由や人権のない国にしてはいけない。それは社会の息の根をとめる自殺行為でしかないからだ。

http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/hato/h12.html


2005年01月11日(火) 田原総一郎との対話

 今日は、田原総一郎氏との架空対談を試みた。小林よしのり氏との対談と同じく、田原氏の言葉は、小林と田原総一郎の対談集「戦争論争戦」(ぶんか社)から、田原氏の発言を一字一句正確に再現したものである。

私「田原さんは小林さんの『戦争論』をどう評価しますか」

田原「とにかく大力作だ。まず、若い世代への危機意識を強く感じた。僕は、とくに年のいった世代が、これを読まなきゃいけないと思っているね。若い世代はわりに素直に入って来るんだろうけどね」

私「田原さんも、小林さんと危機意識を共有されているわけですね。やはり日本人は『公』の意識がなくなってきたとお考えですか」

田原「僕は個のところと公のところと、両方が必要だと。そこでどうするかと迷っている。求めているという点では、小林さんと共通すると思う」

私「小林さんは国家のアイデンティティというものを持たなければ、個人も崩壊すると述べていました」

田原「個人がアイデンティティを持ち、自立してはじめて、国家のアイデンティティはあるのです。国家のアイデンティティがあってはじめて、個人があるというのは、国家主義だよ」

私「田原さんは国家主義はいけないとお考えですか」

田原「太平洋戦争が始まった昭和16年は小学校1年、終戦のときは5年生。小学校の校長は『君らの命は20歳までだと思え。その先は大東亜共栄圏建設のための捨て石となれ』といった。国のために死ねと教えられたわけだ」

私「そうした教育の影響を田原さんも受けたわけですね」

田原「お国のために死ぬものだ、それが当たり前だと考えていた。ところが戦争が終わると、教科書に墨を塗ったり、切り取ったりがが始まる。そして今度は、教師とか校長とかいろいろな連中が、あの戦争は間違いだった、あんな戦争のために死ぬのはバカだ、ああいう国家に日本を再びしてはならないと教えたわけね」

私「それで軍国少年が180度転向して、国家主義はいけないということになったわけですね。小林さんの場合と反対ですね。彼は個人主義から出発して、そこで行き詰まって『やはり国が大切だ』ということになった」

田原「僕は日本をとっても愛しているし、心に中では日本のために死ねると思っている。ずっと一貫して。だけどああいう国にしちゃいけない、ああでない国にしようと思ってきた」

私「国を愛するという点では、小林さんとは同志なわけですね。もちろん、私も国を愛していますが、日本のために死ねるとは思えないな」

田原「公は賛成。個人は公もためにあらねばならないというのは。ところが小林さんの本を読むと、ああいう戦前の日本がいかによかったかと思えることも描いてある。それは、僕はやっぱり違うんじゃないかと思うんだ」

私「戦前のどういうところがいけなかったとお考えですか」

田原「日本という国家は、基本的人権からなにから、あらゆるものをまったく守ってくれなかった。逆に、国家は一方的に奪った。一方的な奉仕だけを強いたわけだよね、死ねと。20歳以降は命があると思うな、天皇陛下のために死ねと教えられて、当たり前だと思っていたんだけど、何だか国家は個人に要求するばっかりするじゃないか」

私「私は江戸時代以前の歴史もふくめ、明治、大正のころまでは、日本という国が好きですし、大いに評価したいと思っています。たしかに現在の基準で考えるとおかしいところはたくさんありますが、当時の世界の歴史の中においてみると、すばらしいものがあった。江戸時代には寺小屋教育が全国に行き渡っていて、識字率は世界一高かった。幕末に日本を訪れた外国人は、庶民にとって日本は世界で一番住みやすい国ではないかと誉めている。それが、日清、日露と戦争するたびに段々悪くなっていく」

田原「1932年の満州事変のあと、32年に満州国をつくる。国際連盟はこれを認めなかった。で、37年日華事変、39年ノモンハン事件と、えい、中国もやっちゃえというんで出ていった。だんだん、だんだん、いくんですよ」

私「なぜ、そうなったのか。そのころの国際社会そのものが弱肉強食の時代だったから、これはもう仕方がないんだという主張をする人たちがいます。当時は、強い者が弱い者を支配し、収奪するのは当然だという雰囲気があった。それを打破して、日本が共存共栄の新秩序をたてようという、いわゆる『大東亜共栄圏』という思想もあった」

田原「先進国か植民地化される国かの選択しかなくて、先進国を選択した。それで、まあ、僕は日本はあせりすぎたんだと思うけどね、だんだん世界から非難されるんですよ。やりかたがあこぎだとか露骨だとか」

私「日本がアメリカ、イギリス、オランダなど植民地支配をしていた西側列強を敵に回して戦争した。日本は破れはしたが、そのおかげで、東南アジアの国々が解放され、独立できたという人もいます」

田原「東南アジアのために戦ったんじゃない。それは後づけの理屈ですよ。やっぱり僕は、日本が朝鮮半島を植民地化し、中国を侵略したのは事実だと思う。日本が東南アジアに行ったのは、新しい資源を求めたんだ」

私「私も国内の経済的要因が大きかったと考えています。そして、外に対して侵略が始まると同時に、国内でのしめつけが厳しくなります。ちょうどそのころ、田原さんは小学生になり、お国のために死ぬのが本望だという教育を受けるわけですが、そうした戦前・戦中とくらべれば、戦後のほうがやはりよっぽどいいわけですね」

田原「日本は一貫して非常によくなってきたと思っている」

私「私は体験はないわけですが、言論の自由が制限されていた戦前にもどりたいとは思いませんね。経済的にも戦後の伸びは驚異的です。私は現在でも日本は世界で一番安全でゆたかな国だと考えています。まあ、いろいろ問題はでてきていますが、それほどひどいとは思っていません」

田原「アメリカに占領され、アメリカナイズされて、日本的な独立心や民族意識みたいなものが稀薄になって、これはとてもよくないという人が多い。しかし僕は、すくなくとも戦後の大部分には肯定的なの。アメリカからの押しつけなのは百も承知だけど、日本が新しい憲法を作ったのはやっぱりよかった。わけがわかんなくなってきたのが、1980年代の後半ですよ。つまり東西冷戦が終わるまでは、日本のあり方はとてもよかったと、僕は思っている」

私「1980年代の後半から悪くなりましたか。私はバブルがはじけたころから、少しまともになったのではないかと思っています。エコロジー的な発想も育ってきましたからね。しかし、戦前の社会に戻りたくないという点では田原さんに一致しています。小林さんのように、戦前がよかったとは思えません」

田原「戦争論はすごい力作だと思っているんだけど、ちょっと方向が違うなと。こういおう国づくりというか、公の再生は、ちょっと違うんじゃないじゃと。とくに読ませるところは、戦争で一生懸命戦った兵隊さんを描いていますね。でも、ああいうのを英雄にしちゃ、やっぱりまずいんじゃない?」

私「小林さんにとって、お国のために死ぬというのは『公』の最上のものなのです。だから、お国のために死んだ人は、みんな英雄であり、称えなければならない。そうした考え方をする人が今の日本に、若い世代もふくめてかなりいるようです。田原さんは戦争に参加した人々のことをどうお考えですか」

田原「僕らの親たちは戦争に参加した世代ですね。親たちはやっぱり犠牲者だ。戦争で自分の人生めちゃめちゃになった」

私「英雄ではなくて、犠牲者に過ぎないというわけですね。しかし、実際に戦争で他国に攻めていって人を殺しています。たんに犠牲者だということですませてよいのでしょうか。もう少し言うと、僕らの親の世代に戦争責任はなかったのでしょうか」

田原「僕は、その親たちが戦争を止められなかったという不満は感じつつも、やっぱり親たちを、それはもう大肯定していますよ。同じように、やっぱり戦後の冷戦構造が続いた時代は、あの体制でよかったと思えるはずだと僕は思っている」

私「そうですか。私は戦争に参加した人は、それを見る立場によって、英霊にもなるし、英雄にもなる。そしてまた犠牲者にも加害者にもなるのだと考えます。もちろん、当時の状況を考えれば戦争に反対することは大変なことだと思いますがね」

田原「それは止められないことはわかっているの」

私「止めるどころか、国民や当時のマスメディアはほとんどこれに荷担していました。この点では、小林さんがいうように、軍部の肩を押したのは国民の方だったのかも知れない。戦争が終わって、悪いのは軍部だということになった。そうしたプロパガンダを一度疑ってみる必要があると思っています。とくにマスメディアや教育関係者の責任はおおきい」

田原「あんな時代に戦争を止めるなんて、そんな生やさしいことじゃない」

私「なるほど。あの時代を身をもって体験された方の重いお言葉として受け止めておきましょう。ところで、田原さんはこれからの日本についてどうお考えですか。アメリカ流の自由競争がよいとお考えですか」

田原「規制緩和を進めて自由競争にするというのは、優勝劣敗ってことですね。強い人間がどんどん稼ぎ、劣る人間はどんどん倒産する。でも、優勝劣敗をやっているのはアメリカだけなんですよ、世界で。世界の流れは、数でいえば圧倒的に社民(社会民主主義)なんだ」

私「ところが日本では、圧倒的にアメリカ流が幅を利かせていますね。アメリカがそんなによい国なんでしょうか。少なくとも庶民にはたいへんつらい社会ではないかと思います」

田原「ホームレスの数も圧倒的に多い。クスリも多い、暴力沙汰も、強盗もレイプも全部多い。はるかに多い」

私「ところが、優勝劣敗のアメリカ流を選ぼうとしている。学生にアンケートして、年俸制と月給制のどちらがよいかと訊いたら、年俸制と答える学生がたくさんいるそうです」

田原「それはだまされているんだと思う。絶対、給料のほうがいいに違いない。だって年俸制というのはプロ野球の選手みたいなものですよ。年俸制をやろうとしている会社は30代前半までしか活躍できない会社ですよ。証券会社や銀行のディーラーとかね、そんなのはだから35歳以後は絶望的、真っ暗なんだよ」

私「今をときめく経済評論家やマスメディアにだまされている学生はバカだということになりますか」

田原「年俸制でいいのは才能のある人間だけですよ。学生の間に、年俸制のほうがいいって風潮があるとすれば、それはなんか一種の流行に惑わされているとしか思えない」

私「田原さんや小林さんが年俸制というのなら分かりますがね」

田原「企業の方は年俸制にしたがっている。老後の保障をしなくていいからね。だからこんなご時世に年俸制がいいなんて、若い求職者がいうのは冗談じゃない。だいたい、よくアメリカは年俸制だなんていうけど、ここにもまた一つ大きな誤解がある。年俸制なんて、ごく一部エリートのホワイトカラー。いってみりゃ、ウォール・ストリートだけなんですよ」

私「やがて日本はアメリカ以上の弱肉強食の社会になりますね。私は国のアイデンティティという言葉は使いませんが、日本社会の美点という言葉は使います。それは、『おたがいに支えあうこと』だと思います。日本企業の強さもここにあった。その『和の文化』がいま崩れようとしています」

田原「ヨーロッパはそうしないでおこうと、社民へいく。それは、これまで日本のエコノミストたちが誇らしげに語っていたのとは、逆の方向なんですよ」

私「私はちょうど、田原さんよりも若く、小林よりもふけている。その間の世代です。ぎりぎり大学紛争も経験しています。団塊の世代、全共闘の世代でもあるわけですが、この世代について、何かお考えをお持ちですか」

田原「だらしない。全共闘は。小林さんたちが全共闘世代に対して、雨あられと機関銃を撃ち、爆弾ぶっ放しているのは、とてもよいことだと思う」

私「これは手厳しいですね」

田原「おもしろいのは、日大全共闘の多くが大学を辞めたのに、東大全共闘はほとんど辞めなかった。東大は、なんと卒業して、なんと学者になっている」

私「かわり身がはやい。やはり秀才だけあります。私など変わり身に手間どって、大学を卒業するのに6年もかかりました。教員になるのに、さらに4年もかかっています」

田原「全共闘のそのあとはわかる。あれは燃え尽きたんだ。20歳にして枯れたんですよ。もうあとは枯れ木。全共闘世代は、石なげて棒きれ振るって、あとは枯れちゃったの。だからいま余生を送っているの、余生。全共闘の多くは、もうどうでもいいと思っている。非常に保守的ですよ。そういう意味じゃ僕は、小林さんなんかにすごい期待しているわけ」

私「若い世代からみたら、私たちの世代はほんとうに俗物でしかない。毎日の生活しか頭になく、利己的で倫理観も喪失している。私たちの世代を反面教師として、『公』の意識が出てきた。その『公』の世界が「お国のために」という戦前の精神世界に、見事にシンクロナイズしてしまったわけです。そしてその不満が新旧両方の世代から「日本という国の危機」として意識されるようになった」

田原「日本が天皇でまとまるなんてこともないだろう。日本が一つにまとまるとすればね、僕は『危機意識』だと思う。日本という国は、決定的に資源がない。組むべき国も見つからない。昔もいまも変わらず、絶えずアメリカ、ソ連、中国の脅威にさらされ、危機意識をもたざるをえない。その危機意識を持たざるを得ないことが、僕は日本にとってものすごくラッキーだと思っている」

私「田原さんは日本には資源がないといいますが、私は最大の資源はこの緑の国土であり、そこに暮らす人々ではないかと思っています。和を大切にし、個を尊重する教育によって、未来の世代をになう子どもを育てることが大切なのではないでしょうか。そこで、もういちど『公』と『個』の問題に帰ってみたいと思います。田原さんは自分を愛国者だと言われました。しかし、同時に戦前のような自由のない国はもういやだとも」

田原「僕らはずっと、日本を再びああいう国家にしてはならないと考えてきた。これは左翼でも右翼でもなんでもないの。いわば愛国心ですよ。だけど、ああいう国にしてはいけない、ああでない国にしようと思っていた。だから、ああいう国のことはバンバン批判する。でも、僕らの弱味をいうと、ああいう国じゃない国を造ろうとして、ついに新しい国が発見できなかった、というところなんですよ」

私「封建的な権力構造が残る縦社会では、『公』の強制は必然的に、お上への服従になります。『公』の美名の下に、個人の尊厳や自由をないがしろにした滅私奉公的な風潮が支配的になります。そこで社会を民主化して、『公』が横のゆたかな繋がりを生み出すようなしくみを造る必要があります。民主的な横社会では『公』は隣人愛や社会的連帯といった横の繋がりを生み、『公』と『個』は敵対関係ではなく、ゆたかな協力関係をつくることになります。そうしたビジョンも処方箋もないままに、マスメディアの尻馬に乗って、いたずらに危機感を煽ることは慎みたいと思います。追いつめられた危機意識で国がひとつにまとまると、ろくなことがないですからね」


2005年01月10日(月) 小林よしのりとの対談

私「小林さんの『戦争論』を読ませていただきました。小林さんは日本の現状にたいへん危機感をもっていますね。現在の日本がここまで堕落したのは、戦後の民主主義教育が間違っていたとお考えですか」

小林「若者がここまで豊かになれたのは、日本の過去の長い歴史の上に立っているからでしょう。ところがその若者が、学生服の問題で国連まで出かけていき、学校は制服をを無理やり自分たちに着せようとしている。ボクらには人権がないって訴える。うちは制服なんか全然配ってもらっていんないよという国なんか、いくらでもある。それがもう全然わからないところまで、豊かなわけですよ。そんな豊かさっていうのは、いったいなんなのか。いま現在ここにいる自分の存在が、どうして成り立っているのかがわからない。それは歴史を喪失しているということでしょう」

私「たしかに、若者ばかりではなく、大人たちもこの未曾有の豊かさの中で方向感覚をなくしているところがありますね」

小林「わしがいいたいのは、ようするに過去営々と蓄積されてきたもののおかげで、いまの日本人があるということ。日本語だって最初からあったわけじゃないですよ。小さな島国でえんえんと育まれ変化してきた歴史の中で、ようやくいまの日本語があり、いまの豊かさもあるってことですよ」

私「たしかに現在の日本のゆたかさは日本人の勤勉さのたまものでもあるのでしょうね。小林さんは、この豊かさはこのままでは維持できないところまで来ていると考えているわけですね。私にはいまでも日本は世界でもまれにみるほど平和でゆたかな成功している国にみえます。民主主義も充分になく、人権も守られていなかった戦中・戦前と比べるまでもなく、戦後の私の幼い頃と比べても見違えるように日本は豊かになりました」

小林「戦後がいいというふうにいったところで、戦後の民主主義がこれでよかったんだという話には絶対ならない。いま現在の戦後民主主義の中でずっと進んできた日本人のありようが自体が、次の滅亡にむかっていないか、すごく衰退してきていないか、なんかもっと別の罠にはまりこんでいないかと、そういうことに対する危機感が新たに芽生えてきていると思う。昔に比べればいまのほうがはるかにいいんだから、これでいいんじゃないかという話では、全然ない」

私「たしかに、冷戦構造がおわり、世界は新たな歴史のステージに入りましたが、日本はこれにどう対応したらよいのかわからないでいます。バブル経済がはじけて、不良債権がたくさんできた。この負の遺産からもなかなか立ち直れないでいます。日本は今曲がり角にたっているかもしれませんね」

小林「日本がバブルでものすごい好景気だと浮かれ、アメリカがものすごい不景気だといっていたとき、アメリカ側は次の戦略は情報と金融だとビジョンを立てて、そのためにチームを組んでびっちり計算して、それを打ち出したから、いけたわけでしょ。ようするに、国家としてのビジョンなり哲学なりというのは、つねに考えていかなければいけないんですよ」

私「国家としてのビジョンが描けなくなったのも、民主主義教育の弊害だとお考えですか。私は民主主義や個人主義を否定するのではなく、これを生かす中で、日本社会の活力や創造力を高めていきべきだと思います。つまり、個がしっかり確立されていなかったから、バブルに踊らされたわけでしょう。戦前は国民全体が長いものにまかれてファシズムになっていったのではないのですか」

小林「個人のアイデンティティとは、ようするに欧米だったらそこに宗教が入っているから、確固としてあるわけですよ。あるいは伝統とか歴史とか国家の観念が入り込んでいるから、個のアイデンティティが保てる。それがなんにもないのではね、個人のアイデンティティはたもてないんですよ」

私「民主主義では個のアイデンティティは育たないというわけですね。私は個人の決定権があって、責任や義務が生じると考えます。自由と責任は車の両輪ではないでしょうか。民主的な自由主義体制があって、個のアイデンティティが育ち、自己責任の意識もうまれるのではないかと考えています」

小林「個人の自己決定権なんていうものは、基本的には公の意識がないと全然できないものでしょう。若者の末端のところの部分での意識っていうのは、もっと、とことん崩れていっているというかな。国家のアイデンティティというものを持たなければ、個人も崩壊する」

私「個のアイデンティティを育てるためにも、国家のアイデンティティが必要だというわけですか。私は個のアイデンティティが確立して、はじめて公的な意識や責任感が成り立つのだと考えます。それに、公的なものとして、なにも国家に限定する必要ないのではないでしょうか。地域社会や、国家を越える存在として国際社会もあります」

小林「世界的な公なんてものはなくて、現実には、どの国も自国の安全とか繁栄とかを第一に考えている。やっぱり公の範囲は、国までということでしょ。それから、自由って言葉があまりにも美しく響き、自由ならなんでもいいんだ、強制や規制っていうものは一切ないほうが人間の世の中にはいいんだと、そんな架空の物語を、若い人たちは、やっぱりかなり信じ込んでしまっている。そう教える教育も蔓延しずぎているとわしは思う」

私「私は校則がうるさくて、規制ばかりで自由がないのが戦前戦後をとおして日本の教育の特徴だと思っています。これにくわえて受験体制による偏差値のしめつけがあります。こうした画一的な人権無視の没主体的な教育環境が、無気力で自己責任のない人間を大量に作りだしたのだと思っています」

小林「芸術家や作家が、世の中は個人主義だ、自分の好きなことでやっていけってかっこよくいう。村上龍なんかもいつもそういう。でも、一般の人にとってみたら、むごいことをいうよなあと、わしは思っちゃうんですよ。ふつうの人間はそうは生きてはいけない。戦後の一般庶民もインテリも、官僚も若者たちも、もう全員個人主義から出発している。それこそ、いろいろな問題が噴出してきている原因ではないか」

私「それは個人主義というより、利己主義ではないでしょうか。それに、すくなくとも法治主義に基づく近代的国家は個のアイデンティティを前提にしています。小林さんはヨーロッパに始まる近代主義の国家の理念を否定するのでしょうか。日本の文化的風土にはそうした近代主義の理念はなじまないとお考えですか」

小林「本来ならば日本は、近代国家にすら、する必要はなかったのかもしれない。ヨーロッパやアメリカの列強から開国を迫られるという国際情勢がなかったら、ずっと江戸時代のままでもよかったわけですよ。それを近代国家にした時点で、ある種の人工性というものは、取り入れなければもう仕方がなかった」

私「その人工性というもののせいで、日清、日露戦争がおこり、太平洋戦争が起こった。そして敗戦を迎えたと考えているのですね」

小林「あの時代に日本が西洋列強と、しのぎ合って生き残っていくためには、結局その道しかなかったんですよ。やむなくそこに突入して行っただけの話。世界の資源や富が限られているとしたらどうします? これをたくさん奪取するところが裕福になり、残ったやつはもう餓死して死ねというのが、この世界ですよ」

私「それは一面の真実をふくんでいますね。国際社会の状況は今もあまりかわっていない」

小林「この前テレビで見たけど、スーダンなんか、アメリカやアラブが武器渡して戦争ばっかりさせて、子どもは全員もうガキのときからほとんどミイラみたいな感じで、どんどん餓死していく。わしは、世界認識の仕方として、そういう搾取してしまっているということ自体を、罪悪感としてとらえるんでなくて、人間社会のどうしようもない掟である、それは乗り越えられないんだって思ってしまう」

私「ずいぶん悲観的なんですね。しかし、たしかにそうした考え方に立つと、アメリカやアラブが搾取するのが悪いのではなくて、される方が愚かだということになる。日本が朝鮮を併合したのも、中国や東南アジアを侵略したのも、それは仕方がない。そうしないと当時の国際情勢の中では日本が生き残れないからだということになる。これは社会ダーヴィニズムの弱肉強食の論理であり、強者の考え方ですね」

小林「わしが思うには、たとえばアラブはアラブの文化水準じゃないと絶対いけない。そこから石油を強奪してきて、アメリカの富は徹底的に栄えるんですよ。日本もこの豊かさをなんとか維持するためには、中国がもうあれ以上になってはまずいんだ。あそこが万が一近代化していったら、大変なことになるんだ。公害もなにもかも垂れ流しにされて、自然環境なんか全部破壊ですよ」

私「ずいぶん、過激ですね。小林さんは原子力発電も必要だと思いますか」

小林「原子力を維持しておくしかない。なんだって、そうしなきゃ、生活レベルは落とせない。選択肢はないでしょう。僕は、世界がなんといおうと、生活はいまのレベルを維持しなけりゃいけない、これこれの理由で原子力は必要だと、やっぱりいわなきゃいけないと思う」

私「その論理は、生活レベルは落とせないから、戦争をするしかない、ということに結びつきますね。日本はそうした論理で戦争に入っていったのではないでしょうか」

小林「日清日露にしろ大東亜戦争にしろ、反対した人間はほんの一部の少数に過ぎないっていうのが常で、国民全体は結局、戦争をやりたかったんですよ。国外では帝国主義の流れがどんどん押し寄せてくる。その危機感みたいなものを国民が感じ取り、軍部にさらに強く肩入れしていく。それが結局、大東亜戦争になっていく」

私「そうすると、日本人は国際状況によっては、また戦争しようとするかも知れませんね。小林さんは国益のためなら戦争はしてもよいとお考えでしょうか。そのために自衛隊なんか頼りにならない。もっとちゃんとした軍隊を持った方がよいとお考えですか」

小林「だって、武力を持っているから国家なんだ。暴力装置そのものが国家なんだから。どんな国だって、経済の裏側には、つねにちゃんと軍備がある。たとえば、大東亜戦争そのものがなかったら、この豊かさは実現されていないですよ」

私「戦争に負けて、日本は旧体制が破壊され、戦後の冷戦体制の中でアメリカの庇護のもとで奇跡的な復活をはたしました。しかし、それは単なるラッキーな偶然が重なっただけかも知れませんよ。再び戦争して、日本が豊かになるという保証はないし、この豊かさが完全に破壊されることになるかもしれない。その方が、国民の目がさめていいかもしれませんが」

小林「もう60年も戦争がないですからね。主体性の問題を言えば、たとえば江戸時代には、奇跡的に平和という時代が300年近く続いた。でもそのとき、武士階級は貴族の責務(ノーブレス・オブリッジ)を忘れていなかった。それがあったから明治維新ができた。戦う気概、独立する気概というものをずっと持っていたんですよ」

私「民主主というのは、そうした独立心をすべての人々に持たせて、政治に参加させようという理念ですよ。江戸時代にはそうした独立心を武士のなかでもほんの一握りの人たちしか持っていなかった。もっとも、戦後60年続いた安保体制のもとで、どれほど独立心のある個人が育ったかは疑問ですが。私はこれを日本で民主主義や個人主義がしっかり根付いていないからだと考えていますが、小林さんはそうは考えないわけだ」

小林「これは民主主義そのものの病理ではないか。これを打破するためには、武士道とか、公とか、公論というものを考えるとか、それこそ階層そのものを作るぐらいのことを考えないといけない」

私「小林さんのいう公の世界が見えてきましたよ。小林さんの理想とする社会は江戸時代のような身分制社会ですね。民主主義は必ず衆愚政治に堕落するいうプラトンの国家論の世界です。政治は一部の貴族的魂をもった人間が行い、大多数の人間は、自分の分を守ればいいわけですね。小林さんは民主主義より、封建制もしくは君主制がいいとお考えですね。戦前のような天皇を元首に復活したほうがよいのでしょう」

小林「天皇制は、ずうっと考えたこともなかった。『戦争論』でも、あんまり深く考えていない。まあなんちゅうのかね、戦争中みんな天皇のために死んだみたいな話になっているけど、それだけじゃなかっただろうなと思う。なんのためといったら、郷土だったり、家族だったり。そういう意識が集合した国というものひとつの統合体ととして『天皇万歳』というときは、きっと『日本国万歳』というのと同じ意識だったんだろうと思う」

私「やはりお国が一番なわけですね。小林さんは初めからそんなお考えだったのですか」

小林「わし自身もずうっと、自分は個人主義だ、個人で立っている、国なんてものがなくても個人でやれるんだって感覚だった。それをもういっぺん問い直してみたいと」

私「個人主義の限界を自ら痛感して、それで『戦争論』を書いたわけですか」

小林「なにしろ左翼というのは、戦争中に国を思って死んだ人とか、国を思うという感覚そのものも、戦争と一緒に否定したがるから。そもそも国そのものを、ないほうがいいと思っているわけだから」

私「私は国民がしあわせに生活していくために必要な装置が国だと考えています。国と同様に、家族や地域社会、そして国際社会といった『公』も大切だし、そうしたなかで個人が育っていくと考えています。自分の生まれ育った社会を大切に思っていますが、そのなかから『国』だけを特別扱いにして、崇拝や礼拝の対象にはしたくないですね。それは新たな災いの種になりかねないと思っています」

(これは私と小林よしのり氏との架空対談である。ただし、小林氏の言葉は、架空ではなく、小林と田原総一郎の対談集「戦争論争戦」(ぶんか社)から、彼の発言を一字一句正確に再現してみた。実際の対談では強烈な個性がぶつかり、よく本音が出ているが、発言は平行線でかみ合っていない。私ならこう発言するだろうな、ということで書いてみた。いずれ田原総一郎さんとの「対話」も楽しんでみたい)


2005年01月09日(日) 沖縄に見る共死の悲劇

 沖縄は先の大戦でずいぶんひどい目にあった。島の人口密集地帯が主戦場になり、人口の1/3を失っている。沖縄の人々は敵軍に殺されただけではない。友軍であるはずの日本軍の手によっても殺されている。

 たとえば米軍が上陸してからは、たんに沖縄の方言をつかっただけで、スパイとして処刑された。このこともふくめて、大田昌秀・前沖縄県知事が講演「戦後沖縄の挑戦」で沖縄の問題について述べているので、今日はこれを紹介しよう。

<敵米軍の非戦闘員に対する特別な配慮とは対照的に、味方の守備軍司令部は、米軍が沖縄本島に上陸して9日目(1945年4月9日)、同地下司令部で出していた軍会報につぎのような命令を掲載しました。「爾今軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜として処分す。」

 その後、5月5日になって同文の命令は再度出ていますが、今度は長参謀長名で発せられています。その結果、何名かの地元住民が自らの呼吸にもひとしい言葉を使ったというだけで、友軍に間諜(スパイ)の汚名を着せられて処刑された、と沖縄県史などに記録されています>

 日本軍は米軍の沖縄上陸直前に、市町村長をはじめ県会議員、大政翼賛会支部長、医師、校長・教員など30名程からなる「国士隊」という秘密の特務機関を設置した。そのねらいは「一般民衆に対する宣伝防諜の指導及び民情の把握、並びに最悪時に於ける諜報戦の活動を強化する」「軍官民共生共死の一体化を図る」ことにあった。

<つまり、地元の非戦闘員は、いかなる意味においても守護の対象ではなく、あくまで軍と共死する存在でしかなかったわけです。いきおい国士隊の真の目的は、親米的もしくは米軍協力分子の摘発とか反軍、反戦的人々を発見して、監視し、守備軍に通報することにあったのです>

 大田昌秀さんはさらに、八重山群島における石垣島事件について述べている。1945年4月15日、石垣島に米爆撃機が1機不時着し、3人の飛行士が同島の日本海軍警備隊に捕縛された。そして尋問の後、2人が斬首、1人は刺殺された。刺殺された捕虜は、指揮官が模範突きで刺殺した後、約50人の各小隊員が命じられるまま30分ほど刺突を繰り返したのだという。

 戦後2年も経った1947年夏頃、この件についてマッカーサー司令部に通報があり、被疑者が一斉に検挙された。横浜で行われた裁判の第一審では、46名の被告中、41名が死刑を宣告された。

 この中には、沖縄出身者が7名含まれていたが、正規の軍人は1人だけで、残りは事件発生から3、4カ月前か、わずか2週間前に沖縄現地から召集された農民あがりの兵士で、しかも3人は年令が20歳未満だったという。
 
 無罪放免となった県出身者の被告の一人が、東京の沖縄連盟の仲原善忠会長に仲間の減刑運動を嘆願し、これを受けては仲原会長は40名の連盟会員の署名を添え、嘆願書を裁判の管轄者たるアイケルバーガー第8軍司令官宛に提出した。

<仲原会長は、著名な郷土史家で、とくに沖縄の万葉集と称された『おもろさうし』の研究者として知られていました。『おもろさうし』は、12世紀から17世紀にかけての古歌謡(それは生活万般に関するもの)を1530首集めたものです。それとは別に古来からの伝説や説話を142首収録した『遺老説伝』という本もあります。

 仲原会長は、嘆願書において、これら2著の1672首のデーターを調べてみたところ、「殺す」という言葉がない、言葉がないのは「殺す」という意識がないことを意味する、と主張し、沖縄の非武の文化の特質について言及しました>

 嘆願書には、15世紀後半から16世紀前半にかけて在位した琉球王国の尚真王は、武器の携帯を禁止し、琉球は武器のない国、守礼の国として海外にまで知られるようになったこと、沖縄では空手を編み出したが、それも他人を攻撃するためでなく、他人の攻撃から身を守るためだ、ということを理を尽くして述べられていたという。

<本土の家庭では、多くの場合、床の間に槍や刀が飾ってありますが、沖縄の場合は三味線という楽器を飾るのが一般的で、きわ立って対照的です。そのようなところから、沖縄の文化は、「女性文化」とか「やさしさの文化」などともいわれます>

 仲原会長が主張した沖縄の平和思想や「非武の文化」の主張は、裁判官の心を動かし、沖縄出身の死刑囚は最終的に1人残らず死刑を免れた。大田昌秀さんは「沖縄の伝統的な平和思想がたんなる理念としてではなく、現実に7名の尊い人命を救うほどのインパクトを与えた好例といえます」と書き、17歳で死刑を宣告された後、重労働の刑に処せられた元兵士の言葉を引用している。

 「思えば、志願兵として入隊し、東西もわからないままただ皇国日本の勝利を信じつつ上官の命令するままに動かされてきた青春、そして戦犯として5年余り刑務所生活を余儀なくさせられた青春、平和時の今日よく考えて見ると同じ人間でも戦下の人間は精神的状態が異常になるのです。それは戦前の教育に問題があったのです。…」

 「戦争は各国の事情で起しているのではない。精神状態の狂った人間をつくり出すことによって起しているのです。そういうことを私は学ばされました。人間の生命、人格が尊ばれる社会こそ戦争を否定する社会だと思います。それは真実を教える教育がなされてはじめて可能だと思います。そしてわたしたちは、毎日毎日の生活の中で正しい教育、正しい社会をつくるためがんばらなければならないと思います。」

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4053/1999-after-1c.html

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/p12.htm


2005年01月08日(土) 旅のたのしみ

 今年の冬休みには、青春切符を使った旅を3回した。12月30日に「若狭小浜」へ、1月4日には「敦賀」、そして1月6日には「近江今津・新旭」へ行った。

 青春切符は11500円で5回分だから、あと二回分残っている。しかし、学校の部活があり、テニスの公式大会もはじまるので、もう使えそうもない。しかたがないので、ボーイフレンドと京都に遊びに行くという次女に、2千円で売るにした。

 それにしても、青春切符の旅はたのしい。これを使った旅をもう6年以上続けている。家族で倉敷に行ったり、友人と山口や萩に行ったこともある。一人で金沢や高山へも行ったし、若狭地方や東京の浅草へも毎年のように行っている。

 青春切符が使えるのはJRだけで、しかも普通と快速しか乗れない。こうした大きな制約があるが、乗り降り自由の各駅停車の旅も捨てたものではない。のんびりと道中を楽しむのが旅の醍醐味だからだ。

 旅に出ると、心がかるくなる。無重力状態におかれたような浮遊した気分になり、全身がくつろぐ。もはや現実のさまざまな思惑は遠くに消え去り、みるみる心が「からっぽ」の状態になる。心身を縛り付けていた生活の悩みや思惑がきれになくなり、そうしたものから解放されて、心がすがすがしい鏡になったような気分がする。

 そうすると、車窓から見える風景がどれも絵のように美しくきよらかに見える。同じ風景がまるで違って見えるのは、私の心が「からっぽ」になっているからだ。こうした状態では、俳句や短歌もうかびやすい。芭蕉が旅を愛した心境もわかる。

 こうして「心の窓が開いた状態」のまま、列車を降りてあちこち見て回る。ゲーテの「心の窓を開けば、すべてが美しい」という言葉はほんとうだと思う。旅の心とは、現実遊離の心だが、もう一段と深い世界に自分をひらくことでもある。旅に出て、はじめて見えてくる現実の姿があるわけだ。

 さて、中でもこのたび訪れた湖北の新旭町はすばらしかった。この土地については、HNKの番組にも出演していた写真家の今森光彦さんが、「藍い宇宙―琵琶湖水系をめぐる」(世界文化社 2800円)という写真・エッセイ集を出しているらしい。

 読みたくなって、さっそくインターネットで注文した。湯川豊(東海大学教授)さんが「生命をつなぎ 巡る水」という題ですぐれた紹介文を書いているので、ここに全文引用しておこう。

<琵琶湖の北、針江(はりえ)大川の河口に新旭町という小さな、しかし奇蹟(きせき)みたいな町がある。ふつうの家のなかに地下水が湧(わ)き出し、人びとは「かばた(川端)」という井戸のような装置でその水を利用している。自然写真の第1人者ですぐれたエッセイストでもある今森光彦氏は、この町で田中三五郎さんという琵琶湖の老漁師に出会った。このへんでいう「おかずとり」漁師で、モンドリという仕掛けで自分が食べるだけの魚(ニゴロブナ、ギンブナ、ギキなど)を毎日とり、「かばた」の生け簀(す)に入れておく。

 「かばた」は田中さんの日常の中心にある。そこで顔を洗い、飲み水を汲(く)み、食事どきには生け簀から魚や野菜をとりだして料理をつくる。今森氏はそこに「水と人とが本来どのような関係であるべきか」を見とり、ときにはギンブナの造りなどを御馳走(ちそう)になって田中さんの生活に参加する。そして、老漁師が湧き水を飲む姿を見て、いう。「体内を水が通ることによって、“かばた”や水路、小川や琵琶湖の水が三五郎さんの中で1本の川になる」のだと。

 町じゅうの「かばた」が細い水路で結ばれていて人間の生活の残滓(ざんし)がそこに入るのだが、水路やその先の小川にはゴリとかセタシジミが豊かに生息している。人と動植物すべてが水を通して緊密に繋(つな)がっている、おそらくは明日にも消えようとしている世界がここにある。琵琶湖を巨大な水の貯蔵庫としてでなく、人と水との繋がりから見ることで、著者は一つの「藍(あお)い宇宙」を発見したのだ。

 メガネサナエというトンボ、ナマズ神社のこと、町の路地で衝突しそうになったコサギの姿、内湖(ないこ)やヨシの話などがゆったりと語られ、人間にとっての水の意味が明らかになる。湖畔で生まれ育った今森氏の少年時代への郷愁が話のまにまに、また見事な写真のなかに水の匂(にお)いのように滲(にじ)み出てきて、この写真文集を比類なく美しいものにしている。◇いまもり・みつひこ=1954年、滋賀県生まれ。写真家>


2005年01月07日(金) 命あふれる水辺

 昨日、青春切符を使って、琵琶湖湖畔の新旭町へあそびに行った。湖北にある新旭町針江地区は、2004年11月29日にNHK総合テレビ「地球・ふしぎ大自然」で放送された、「魚が家を訪ねる里 琵琶湖畔ふるさとの水辺」の舞台だ。この番組を見たときから、是非訪れてみたいと思っていた。

 JR木曽川駅を8:33に出て、岐阜、大垣、米原、長浜で乗り換え、北陸本線から湖西線に入って、11:03に近江今津に着いた。米原まで乗り換えが多いのは、新幹線をつかわせようというJR東海の腹黒い儲け主義に違いない。

 近江今津駅の旅行案内でレンタサイクルを借りた。2時間で300円で、一時間超過するごとに100円ずつ追加料金を支払うことになる。低料金で、しかも受付のお姉さんが素敵だ。自転車の乗り心地もよくて、これはとてもありがたかった。

 5分も走ると、湖畔に出た。曇り空だったが、対岸の伊吹山はくっきりと見えた。雪の山肌が美しい。湖面には水鳥が点々と浮かんでいる。江戸時代の街道を思わせる松並木の海岸を走っていると、サイクリング道路の標識が見えたので、そちらに入った。

 サイクリング道路は広く取ってあり、水ぎわを走っている。ヨシが茂り、水鳥が近くまできている。命あふれる水辺の様子に心がうきうきして、寒い風の中でもペダルを踏む足に力が入った。途中にいくつも休憩用のベンチがあり、案内の標識がたっていた。

 この辺りで観察される水鳥はヨシガモ、ヒドリガモ、ホンハジロ、キンクロハジロ、コハクチョウ、オオバンなどで、その数は11月から次第に多くなり、3月頃に最高になるらしい。カイツブリやカモ、ホオジロ、モズ、キジバト、オオヨシキリ、ムクドリなどの野鳥も見られるという。

 寒風の中をさらに自転車を走らせていると、湖面をヨシの群生が埋め尽くすばかりになった。セイダカオワダチソウなど外来種はみかけない。枯れた蘆をわたる風の音に耳を澄ませていると、これこそ日本の太古の風景かと思われ、安らかな思いに胸が満たされた。幼い頃は、こうした風景が身近にあったものだ。

 やがて風車村が見えてきた。風車が何基かあり、遊技場らしい施設があったが、季節外れのせいか人気はない。敷地の手前の川の堤がサイクリング道路になっていたので、そこを遡ることにした。川はコンクリートの護岸ではなく、自然のままの姿を保っている。幼い頃に戻って、故郷の川端を走っているような錯覚を覚えながら、自転車を走らせた。

 前方に、落ち着いた集落のたたずまいが見える。そこが新旭町の水郷集落だった。NHKの番組どおり、集落の家々の前を清らかな用水が豊かに流れ、大きな鯉が何匹も悠然と泳いでいた。小さな魚たちも水草の間で群をなしていた。清らかな流れのなかで、ゆたかな命が躍動していた。

 水路を利用したカバタ(川端)の暮らしが今に残っているのを、この眼でたしかめ、さまざまな生き物たちととともにある昔ながらの生活のゆたかさを実感することができた。カバタのある民家の瓦屋根には雪が残っている。素朴な暮らしを思わせる民家のたたずまいが好ましかった。

 カバタが家の構造の一部になっていて、NHKの番組では、家の中の水槽にも鯉が飼われていた。水槽に汚れた食器を入れると、鯉たちがきれいにしてくれる。外からヨシノボリのような小魚も訪れて、一緒になってそこに棲んでいる。「魚が家を訪ねる里」というキャッチフレーズのとおり、まさに童話の世界が現実になっている。

 こうした生き物たちによって浄化された水を外に流すので、集落を流れる水路はどこもきれいなのだ。昔の人はこうして自然と調和して生きる智慧があった。自然を守り、その恵みの中で、清らかにやさしく生きていた。

 私が小学生時代を過ごした若狭小浜にも40年ほど前までは、こうした水辺の暮らしが残っていた。田んぼの中に清水がわき出すカバタがあって、母もそこに通って洗濯をしていた。家々の中にも滾々と水がわき出していた。台所には階段状に3つの水槽があり、水を汲んで飲んだり、果物を冷やしたり、食器を洗ったりした。

 妻の母方の実家のある海部郡の梶島村でも、家の前の水路に降りる階段があって、水辺で洗い物をしていたという。じっさいにそうした洗い場を「カバタ」と呼んでいたらしい。現在は水路はいずれもコンクリートで固められて暗渠になっている。

 垂れ流しにされて汚れた生活排水のなかでは生き物は棲めない。これは私が現在住んでいる町の現状でもある。木曽川に近い私の家の近くには、田んぼや畑がまだかなり残っているが、川辺にも用水にも生き物たちの躍動する姿はない。

 カバタの暮らしはどこにでもあったのだろう。それがほとんど姿を消してしまった。そして川や海が汚れ、生き物の数が減って、私たちの周辺はすっかり淋しくなった。水が汚れれば生き物は棲めないし、野鳥も少なくなる。私たちも大量の塩素で消毒された苦い味のする水道水を飲むしかなくなる。

 集落からの帰り道、湖畔の野外休憩所で昼食にした。近江今津駅の近くのスーパーで買った290円の弁当を、琵琶湖の景色を眺め、小鳥の声を聴きながら食べた。雲がたれ込めて今にも降り出しそうな空のもと、かじかんだ手で鼻水をすすりながらの食事だったが、私の心はいつになくほがらかで温かだった。

 自然を大切にするカバタの暮らしが残っている琵琶湖湖北にきて、生き物たちの元気な姿を身近に眺めているとホッとする。海岸には弥生時代の集落跡も発掘されているそうだ。はるか昔から続く人々の営みが、こうしたなつかしい風景を育てたのだろう。故郷の匂いのするこの町を、これから何度でも訪れることになりそうだ。


2005年01月06日(木) 過去の日記帳

 HPで日記を公表するようになって、5年と数ケ月になる。私の手元にはそれ以前の日記帳が13冊あり、これを少しずつデジタル文章に置き換えている。

 すでに「1882年の日記」は「過去の日記」として発表しているが、この正月に暇を見つけて、「1883年の日記」「1884年の日記」をデジタル化した。ここで「1883年の日記」の「あとがき」を紹介しよう。

  −−−−−「1883年の日記」の「あとがき」−−−−−

 ここに収めたのは1983年の日記の一部である。この年の3月、私は2年間務めた県立豊田南高校を転勤になった。転勤先は名古屋市内にある県立瑞陵高校の定時制である。定時制への転勤は私自身の希望だった。

 これにともない、これまで住んでいた長久手町のアパートを出て、名東区西里町に借家をかりた。そして、そこに1年余り別居していた妻と長女を迎えた。生活の上で、ずいぶん大きな変化を体験したわけだが、その詳細について、ほとんど日記に書かれていない。

 日記とは名前ばかりで、そこには生活の記録はあまり書かれていない。ほとんど思想上のことが書かれている。その一端をここに紹介したが、それは一部である。すべて書き写したら厖大な量になる。

 読み返してみて、それなりに面白いと思ったが、労力を使って残すだけの価値があるとは思わなかった。それでそのほとんどを捨てることにした。しかし、そうすると、あとに残るものはそれほど多くはない。

 読み返して残念だと思うのは、やはり日々の記録が少ないことである。たとえば10月26日の日記には、ただ一行「母が福井から来た」とだけ書いてある。母が何のために来たのか、その状況がよくつかめない。20年以上も前のことで、記憶をさぐってみても何も思い出せないのである。

 日常の細々をなぜ書き残してくれなかったのか。あとで振り返ってみると、こうした何でもないことが、とても大切に思われてくる。そして、日記を読み返す楽しみも、その大部分はこうしたことなのだ。

 しかし、これはあとから振り返って言えることである。現在の私の日記も、経済や、思想、哲学、社会問題について多く語っていて、日常についての記述はあまりない。後日読み返してみて、おそらく同じ不満を持つのではないだろうか。(2005,1,3)


2005年01月05日(水) 神奈備山考

 万葉集を読んでいて不思議に思うことがある。それは当時の壮麗な宮殿や法隆寺などの大寺を詠んだ歌がほとんど見あたらないことだ。今日私たちが奈良を訪れると、そこには当時の文明を誇示し、権力の大きさをものがたる建造物がたくさんある。

 例えば聖武天皇の御代には東大寺の大仏が国家的事業として鋳造された。ところが、万葉集のどこをさがしてみても、この巨大な大仏をまともに詠んだ歌は見当たらない。そもそも仏像を詠んだ歌もほとんどない。

 相思はぬ人を思ふは大寺の
 餓鬼のしりへに額ずくごとし   (巻4−608)

 たまたま見つければ、大寺の餓鬼をうたった他愛もない歌である。万葉集にうたわれているのは、どれもこれもほんとうに小さなことである。たとえば、万葉の人々は、恋人が踏んでいった何でもない小石を拾い上げて、これを宝物だと考える。これが万葉人に見られる際だった感性である。

 彼等は小石に神を感じ、道端の名もない花に無尽蔵な愛情を感じた。妻と旅の途中に見た一本の木や、一緒に植えた花にかけがいのない愛惜の情をそそいだ。他者から見れば何でもないものが、たちまち宝物になる。そうした愛情のマジックを、万葉の数々の歌は見事に示している。

 三輪山も小さな丸い山である。どうしてこんなどこにでもある平凡な山が神山となりえたのだろうか。三輪山に限らず、神奈備山はほとんど小さな山だ。山というよりむしろ丘といった方がいいものもある。

 万葉集に富士山を詠んだ歌は11首ある。たしかに宮廷歌人である山部赤人や高橋虫麻呂が詠んだ歌は有名だが、他の歌は「富士山が煙を吐くように私も燃える心であなたを思っています」というたぐいの歌ばかりで、当時の人々が富士山にどれほど神性を感じていたか疑わしい。山高きがゆえに貴からずというところだろう。

 当時の人々が神性を感じていたのは、もっと身近な山や木や岩だった。たとえば、800メートルあまりしかない筑波山は古くから「神々の住む山」として敬われ、なんと25首も歌われている。当時の人々にとって、富士山はただ高いだけの山だが、筑波山はもっと身近で、生活に密着した山だった。そして人々はそうした多くの恵みを与えてくれる山に、生産のシンボルとしての神性を感じ、愛情を感じたのだ。

 私は三輪山は当時の人々にとって大切な里山であったのではないかと思う。そこは共同性の高い場所で、特別の日しか入れなかった。そしてこの里山の掟を守護する神が三輪大明神だった。そう考えれば、三輪山の神が蛇身をしているのも分かる。蛇は山を守る神であり、同時に水を守り、農耕を支配する神でもあったわけだ。

 筑波嶺(ね)に雪かも降らるいなをかも
 愛しきころが布乾(にぬほ)さるかも  (巻14−3351)

(筑波山が真っ白になっているが、あれは雪だろうか。いや、そうじゃなかもしれない。可愛い娘たちが、さらしの布を乾かしているのかもしれないな)
      
 これは恐らく、山の情景をうたったというより、男たちが女たちを前に掛け合いで歌ったものではないかと言われている。当時の若い男女は特定の日に山に入り、歌を詠みあい、気に入った相手と情を通じ合った。これを歌垣というが、筑波山はとくに歌垣の山として有名である。

 三輪山でも同様のことがおこなわれていたに違いない。神奈備山というのは、このように人々の生活圏に接していた里山だった。そしてその近くに住む人々に生活の糧をもたらし、精神的な恵みを与えてくれる、大いなる自然の象徴だったわけだ。

 私は万葉の時代の終わりを、筑波山信仰の衰退のなかに見ている。天皇を頂点とする律令制国家が成立したとき、日本一高く秀麗な富士山が日本の象徴となって、人々の心の中にそびえ立った。

 どうじに筑波山や三輪山などの神奈備山が神聖をうしない、そこに繰り広げられた歌垣の豊穣な世界がみるまに失われて、古代信仰の香りにみちた万葉のゆたかな世界も、ついにその終焉を迎えたわけだ。

(ここに書いたことは、十数年前、私が仏教大学の国文科に籍を置いていたころ、卒業論文として構想したことだ。残念ながら、卒論は書けず、卒業もできなかったが、おそまきながら、ここに「万葉集入門」として、ようやく完成することができた。念願がはたせてほっとしている。2005年1月4日夜記す)


2005年01月04日(火) わたしの三輪山

 私の通勤路は木曽川の堤防だが、そこから対岸にこんもりとした丸い山がみえる。この山を私はひそかに「三輪山」と名づけて拝みながら、ときにはこんな万葉集の歌をつぶやく。作者は額田女王だという。

 三輪山をしかも隠すか雲だにも
 心あらなむ隠さふべしや  (万葉集 巻1−18)

 20年ほど前にはじめて山辺の道を歩いた。そのとき読んだ短歌をもとに「明日香風」という歌集を作ったことがある。三首引いておこう。

 三輪山をみつつしのびぬいにしへの
 人のこころはやさしきものか

 まろやかな小さき山を神と見し
 人の心に神はやどりぬ

 神やどる人のこころにほのぼのと
 やさしき歌は生まれいづるか

 古人が愛した三輪山は、日本人の信仰の原点であり、心のふるさとだ。そこに三輪大明神大神(おおみわ)神社があるが、この神社は三輪山そのものをご神体としているため、今も本殿はない。

 私の「三輪山」にはもちろん社殿はない。神社に社を建てるようになったのは、仏教の寺院建築の影響らしい。内村鑑三が「信仰心があるところ、そこが教会だ」と書いていたが、麗々しい社殿など、ほんとうは必要ではない。

 三輪山の杉は古来より神聖な霊樹として尊ばれていた。拝殿前の「巳の神杉」には雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉を祈った。現代でも、この杉の前には、巳(みい)さんの好物とされる卵が酒とともに供えられている。万葉集にこんな歌ある。

  美酒(うまざけ)を三輪の祝部(はふり)が斎ふ杉
  手触れし罪か君に逢ひ難き      (巻4−712)

 (三輪の神官が神木として崇めている杉に手を触れた罰でしょうか、あなたに逢えないのは)

 もう三首、万葉集を彩る哀切な歌を紹介しよう。これは恋人であった十市皇女を失ったときの高市皇子の歌である。二人はともに天武天皇の子供で、高市皇子はその長子である。異母兄弟でありながら、二人はひそかに愛し合っていたらしい。

 ちなみに十市皇女は額田王女の娘で、壬申の乱で破れた大友皇子の妃であった。十市皇女は夫の死後、高市皇子のもとにいたが、二人の仲を疑った天武天皇から伊勢に斎宮として下るように命令された。その直後の急な死であったという。十市皇女は約26〜31才、高市皇子はおよそ25才だったという。

 三諸の神の神杉夢にだに
 見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き   (巻2−156)

(三輪の山の神杉を見るように、夢にだけでもあなたを見ようとするのに、あなたを失った悲しみに眠れない夜が多い)

 三輪山の山辺真麻木綿(まそゆふ)短木綿
 かくのみからに長しと思ひき    (巻2−157)

(三輪山の山の辺にある真麻の木綿が短いように、あなたの生命も短かったのに、私は長いものだと思っていました)

 山吹の立ちよそおひたる山清水
 汲みに行かめど道の知らなく   (巻2−158)

(黄色い山吹の花が彩る山の清水を汲みに行こう、黄泉の国にあなたを訪ねて行こうと思うが、道が分からない)

 万葉集の歌にはこうした原初的な信仰心がしみとおっている。万葉の歌を魅力的にしているのは、森羅万象すべてのものに神が宿るという、この重厚な信仰心だと言えるかも知れない。


2005年01月03日(月) 鳥たちのいる池

 昨日は家族で鵜沼にドライブした。陰平山にのぼり、その麓の池で、鳥達にパンをやった。鴨やおしどり、アヒルなど、何十羽もの鳥がやってきて、ガア、ガアと賑やかなこと。途中から妻と長女は少し離れたところで休んでいる一羽のアヒルの方に行った。

 このアヒルは12月に来たときにも、水の中に入らずにコンクリートの堰に石段にいて、私たちが池の鳥達に餌をやっていると声だけだして催促した。そのときは羽を痛めているのかと思ったが、なんとなく哀れでそのアヒルにたくさん餌をやった。

 昨日もそのアヒルは同じところで羽を休めていた。しかし、前回とちがって、ほとんど声を出さない。妻と娘がパンをちぎって投げても、ほとんど食べようとしなかった。
「怪我が治らないのかな。それとも病気かしら」
 妻も娘も少し心配そうだった。

 この池に来た目的の一つは、このアヒルの様子を見ることだった。元気に回復していることを祈っていたが、どうも様子が変である。痩せていて、目に光りがない。緩慢な動きで、食欲までなくしているところを見ると、もう先があまり長くないのではないだろうか。

「家に連れて帰れないかな」と娘が言う。
「まあ、むりだね」と私。
「役場に電話をして、助けてもらいましょうか」と妻。
「怪我や病気とは限らないぞ」と、あくまで冷静な私。

 私の見るところ、そのアヒルはかなり高齢である。水に入らず、食を絶って、静かに死期を迎えようとしている、いわばアヒルの聖人(聖鳥)なのだ。人間の勝手な都合で、おせっかいをしても始まらない。

「家の水槽で飼っているメダカと同じだよ。生があるものはいずれは死ぬんだ。これが自然界の摂理なんだよ。鳥だって、人間だって、この自然の掟にはさからえないさ」

 そんな話をすると、妻や娘も納得したようだ。今度来るときには、もうそのアヒルに会えないかも知れない。心の中で「さようなら」と呟いて、そのアヒルのいる池を後にした。


2005年01月02日(日) ユリカゴメと凧

 今月号の表紙の写真は、去年デジカメで撮った写真を使っている。庄内川の河原でユリカモメに餌をやっている写真である。写真には妻と長女が写っている。他に次女もいた。

 今年も近くの神社にお参りしたあと、庄内川へ車を走らせた。途中で食パンを買い込み、いつもの河原へ行くと、ユリカモメたちが水辺で羽を休めていた。その数、ざっと30羽ほどだろうか。

 ところが、私たちが近づくと、いそいで遠くへ泳いでいく。パンをちぎって投げても、近づいてはこない。ずいぶんいつもと様子が違っている。それでも妻が辛抱強くパンをちぎって投げていると、どこからか数羽の鳩が現れた。鳩たちは恐れる様子もなく私たちの足もとまで近づいてくる。

 鳩たちが声を上げ、嬉しそうに餌を食べているのをみて、ようやくユリカモメたちもやってきた。その数が10羽、20羽と増え、やがていつものような大にぎわいである。鴎の白い翼が一斉に空を舞い、甲高い鳴き声があたりに響き渡る。

 餌をやっていると、突然、川上の橋の上で大きな音がした。乗用車が欄干にぶつかったようだ。横転して煙を出している車の上のドアが開き、若い男が這いだしてきた。たぶん、ユリカモメの大群に見とれて、運転をあやまったのだろう。男の無事な様子をみて、私たちも胸をなで下ろした。

 餌をやったあと、家から持参した二つの凧をあげた。風があったので、勢いよくあがった。青空に舞い上がる凧をみてホッとした。大晦日に雪が降り、屋根から落ちた雪で、庭の南天が折れた。南天には「難を転じる」という厄除けの意味がある。

 これが折れるということは、あまり縁起がよいことではない。「今年は事故などにあわないように気を付けようね」と話していた。その矢先に交通事故を目撃したので、何となくいやな気がしていたのだ。勢よく上がる凧を見て、心が晴れた。

 ところが、長女が手にしていた凧の糸が突然切れた。糸の切れた凧はそのまま風に乗って、大空高く舞い上がり、みるみる遠くなっていく。次いで、妻が揚げていた凧も糸が切れた。いやな気持になった。

 私は寒いので車に引き上げたが、妻と長女が凧を探しに行った。次女と二人でかなり長いあいだ待っていると、やっと二人が帰ってきた。凧は一つだけ見つかり、電柱にかかっていたということだ。妻が控えてきた電柱の番号を、電力会社に電話で報せた。罰金を取られるかと思ったが、そういうことはないらしい。

「凧の糸が切れたときにはショックだった」と妻や娘がいう。南天の折れたことにくわえて、正月早々縁起の悪いことが続いた。「きっと凧がわが家の厄をひきうけてくれたんだよ。これは厄おとしに違いないよ」と私。ものは考えようである。今年もポジティブ思考で乗り切るしかない。

 初春のめでたき空にゆりかもめ   裕


2005年01月01日(土) いのちの根

 いつも早寝の私が、昨日は珍しく11時過ぎまで起きていた。妻や娘に、「初詣に行くのならつきあうよ」と声を掛けたが、みんな乗り気でないので、私も少しほっとして寝床へ。

 除夜の鐘を5,6個聞いたところで、すうと意識が遠のいた。寝付きがよいのは私の特技のようなもの。今朝の起床は4時50分。いつもより、1時間以上遅い目覚めである。よく眠れたおかげで、心身ともにさわやかだ。

 2004年はイラク問題やアメリカの大統領選挙、そして大地震などの自然災害が続いた。2005年もまた予断を許さない年になりそうである。今年もまた、背筋をしっかり伸ばして、がんばりたい。そんな思いで、少し前に書いた詩を読み返し、手を入れてみた。

 いのちの根

 冬枯れの木の
 裸の枝々は
 土中に張り巡らされた
 根のすがたを思わせる
 
 空へと伸びる幹や枝に
 土中へと伸びる根の
 たくまししい意思を感じる

 天へとそびえ立つために
 大地に根付く木たち
 その幹と根の
 厳かな相似

 雨の日も
 風の日も
 雪の重みにもひるまず
 しずかに立ち

 冬の寒さの中でさえ
 花々のあかりをともし
 春の陽射しの中で
 やわらかな若葉をひろげる

 私たちも
 かくのごとく爽やかにありたい
 大地に
 たくましい
 いのちの根を張りたい

 正月にはまた青春切符のひとり旅でもしようかと思ってる。去年は雪の高山を訪れたが、今年は郡上八幡を考えている。もっともその前に、まず初詣である。近所の神社に参拝して、家内安全、世界の繁栄と平和を祈ることにしよう。

 初春はたのしからずや屠蘇をのみ
 神社に詣でて妻とよりそふ     裕


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