無責任賛歌
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| 2005年03月25日(金) |
愛知万博開幕/映画『カナリア』 |
愛知万博(愛・地球博)が、今日から開幕。 でもニュースはと言えば、テレビも新聞も、ライブドアVSフジテレビにソフトバンク・インベストメント(SBI)が参戦した話題とか、サッカー・ワールドカップの日本・イラン戦のほうをメインに報道している印象で、万博関連については今ひとつ影が薄い。 まあ、35年ぶりの万博とは言っても、その間に沖縄海洋博とかつくば科学博とか「ミニ万博」はいくらでもあったわけで、正直な話、地域振興に利用しようってだけが目的の、中身の薄い博覧会には日本人は飽き飽きしてると思うのである(福岡の「よかトピア」とか「北九州博」を知ってる人が全国的にどれだけいるのか)。メインの展示が「冷凍マンモス」と言うのも弱い。大阪万博の「月の石」は「未来」の象徴だったけれども、「マンモス」じゃベクトルは過去に向いちゃってるもの。ロボットたちのダンスも今更そう珍しくもない。何より、今回は大阪万博の「太陽の塔」に匹敵するような象徴的なモニュメントがない。あの塔がもしなかったら、大阪万博の印象は180度違ったものになっていただろう。岡本太郎がいかに偉大であったかと言うのは、見た目は何なんだかよく分からない塔一つが切り取った空間が、万博会場すべての空間の「意味」を支配し、「何かよく分からないがとてつもなくすごいことが行われているのだ」という期待と驚愕とを我々に与えてくれたからだ。そういう「期待と驚愕」が、今回の愛知万博にどれだけあるか。 一つの時代を共有する感覚というものがなければ、たとえ同時代に、同じ国に生き、同じ言葉を話していても、人と人との心は離れる。人間は所詮は主観でしかものを判断理解できないものではあるが、それでも多数の主観に共通項を見出すことができればそれは客観と呼ばれる。簡単に言えば、人がコンサートや芝居やイベントやスポーツの観戦にわざわざ足を運ぶのは、単に対象をナマで見たい、じかに触れたいと考えているからだけではない。そこにいる人々との「空気」の共有、一体感を求めるからである。「あのころはこういう時代だった」と誰もが同じように語れる共通概念がほしいのである。それは本質的に孤独である人間の精神が欲求する本能のようなものだと言っていい。 しかしながら、戦後の“個人主義”の歴史の中で、我々日本人はそのような「共通概念」を徐々に見失っていくことになる。テレビの人気番組の視聴率が40%、50%を記録し、年末の紅白歌合戦に至っては80%を越えるという、「君もあなたも日本人」的な時代は過ぎ去った。せいぜい東京オリンピック、大阪万博の時代くらいまで、すなわち高度経済成長の時代くらいまでが、おおむね日本人が「同じ方向を目指していた」と言える時期ではなかったろうか。 別に、過去を懐かしんでいるわけではない。一度細分化してしまったものを再び統合することなど困難極まりないことだし、またそうする意義もないと思う。個人の意志の意図的な統合は、全体主義を生みかねないからだ。しかし、バラバラになってしまったもの同士が、自らの個人主義を貫き存在意義を尊重すると同様に、他者の価値も理解し許容することができずに、それぞれに屹立しているだけ、という状態はやはり一つの不幸なのではないか。そういう現状だからこそ、「文化による国際交流」を図る万博の存在意義は確実にある、と言いたいのだが。 私は代理戦争としてのスポーツに熱狂している人々を見ながら、その「闘争を無批判に許容する無自覚な態度」に対して常々苛立たしさを覚えている。「スポーツによる国際交流」なんて不可能なことは、各国のサポーターの「敵憎し」の態度を見れば明らかである。しかし、闘争本能をどこかで発散せねばならないのが人間の業であり、勝利による擬似支配もまた、孤独からのやむを得ざる脱却であることは、私も理解しないではないのだ。ただ、それが力道山対シャープ兄弟のプロレス中継を映し出す街頭テレビに人々が群がったころとたいしてかわりばえもしない未成熟な精神に基づく熱情であり、決して誉められた類のものではないこと、本来ニュースとは何をメインに報道すべきものなのか、マスコミがそれを見失ってしまっていることを、認識くらいはしてほしいと思うのである。 予想していた通り、初日の客の出足も関係者の期待数には届かなかったようだ。会期中の半年の間には何とか大赤字にはならない程度に繁盛してほしいんだけど。
ライブドアと言えば、中島みゆきやタモリ、倉本聰が、もしもニッポン放送がライブドアによる経営に乗り出した場合、出演を拒否する、と答申していたそうな。まあ歌手やタレントの世界だって「義理」のしがらみに支配されちゃいるんだいるんだろうから、それ自体はしょうがないかなあと思うんだが、これまでそんな「義理」とは縁のない言動を繰り返してきてた人が今更ニッポン放送に義理立てするってのもなんだか解せない。 中島みゆきがずっと『紅白』出演拒否をしていたのは、紅白という存在と、自分の歌手活動との間に乗り越えられないほどの乖離があると感じていたからではなかったのか。ニッポン放送の経営者が変わったら、局のアイデンティティ、放送内容のカラーそのものが変わってしまうのだという確証でもあるのか。なんかそのへんに“ウラ”がありそうで、出演拒否した人たちのナマの声が聞きたいものなのだが、こういう場合、たいてい当事者は沈黙しちゃうんだよね。それがかえって“癒着”を連想させる胡散臭さを醸し出す結果になるんだけど、ホントのとこはどうなんでしょうかね。
午前中で、転勤のための残務整理はほぼ終了。 ということは、来週は一応出勤はするけれども、仕事は全くないということになる。本でも読んで暮らしてればいいわけで、これだけ体が空くのは今の職について初めてである。いや、これまでにも転勤は何度もあったんだけれど、転勤する直前まで引継ぎやら何やらで立て込むことが多かったんでねえ。
午後から有給を取って、しげと買い物。 とりあえず食事を「すき家」で。 いつものようにメニューを凝視しながら、しげは「いかに肉をたくさん食えるか」と、牛丼の大盛りを注文しようか並盛りにしようか、目をキョトキョトさせている。肉はたくさん食べたいが、ご飯は少なめで充分なので、どちらにしようか迷っているのだ。さらに本音を言うなら、「豚丼」と「牛丼」の両方とも食べたいのである。でも豚丼と牛丼を両方食べれば当然食べ過ぎになる。口には出さないが、そんなことで悩んでいるのは一目瞭然であった。 「……なあ、ミニ牛丼頼んで、豚皿頼んだら?」と言った途端、しげの顔がぱあっと輝いた。思わず「アンタ頭がいいね!」なんて言うのだが、そこまで肉が食えることが嬉しいのか。この日記もかなり長いこと書き続けているが、食事の話題になるといつも必ず「肉」「肉」「肉」である。もっと細やかな味を表現できるような、しっとりとしたようなまったりとしたような、要するに何が言いたいんだよ、ワケ分からん、と腹立たしくなるような食通ぶって気取ったいけ好かない文章も書いてみたいのだが、そういう機会はしげと一緒にいる限り、まず訪れそうにない。
博多駅に回って、「紀伊国屋書店」で、吾妻ひでおの『失踪日記』を探すが、品切れ状態。ここんとこ何件も本屋を回って探してるんだけれども、一冊も見当たらない。既に初刷は売り切って二刷かかってるらしいが、それだけ売れてると言うよりは初刷の部数が少なかったのだろう(涙)。『ミステリーズ』9号や「SFジャパン」春号を入手する。 「SFジャパン」は版型を単行本サイズに縮小されての新発行。今回は「SF大賞」特集で、受賞は押井守監督作のアニメ映画『イノセンス』。もっとも、選考評を読むと、たいていの選考委員が本作の完成度には不満があり、これまでの押井作品をひっくるめての「功労賞」としての意味合いで受賞を決定したとのことである。そういう受賞のさせ方についてはどうかと思いはするが、確かにSF界が押井守に対してきちんとした評価をしてこなかった点については大いに不明を恥じるべきであろう。一般的な判断に基づくならば『軌道警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』のときに、私個人としては『うる星やつら』『御先祖様万々歳』の時点で大賞をとっていもおかしくないと思われるからである。だから、受賞自体はファンとして嬉しい。 けれど選考委員の選評を読むだにつくづく、SFに対する見方の格差は人によって天と地ほどもあるなあと思う。「全体的に低調」「全体的に高水準」と、全く感想が逆だったりするが、どちらかが間違っているのではなく、SFについて「拠って立つ地点」が違うだけなのだ。「昔、SFというジャンルがあった」という表現も一時はやりはしたが、曲がりなりにも『SFジャパン』の刊行が続いている現状、「SF冬の時代」は過ぎて、ほんの少し春めいては来ていると思う。福井晴敏が“大”ブームを起こすくらいの勢いを示してくれればこれはもうハッキリ「春だ」と言えると思うんだれどもね。
「メトロ書店」にも立ち寄るが、そこにも『失踪日記』はなし。入手するにはもうしばらくかかりそうである。 横山光輝の『狼の星座』2巻を見かけて、ふと帯を見ると「1、2巻発売中」と書いてある。あれ? 2巻が出ていたのに気がつかなかったのかな? と思って、付近を探してみたがやはり2巻は見当たらない。不審に思って、店員さんに聞いてみたところ、「不適切な表現があったので、回収されました」とのこと。 ああ、またか、と嘆いたのは私だけではあるまい。何がどう引っかかったのかは分からないが、新刊ならまだしも、かつて流通したものを再刊行しようとした途端に問題視すると言うのはそれこそ「歴史の改竄」ではないのか。しかも、この事実、新聞も雑誌も現時点では殆どのニュースが扱っていない。わずかにネット上の個人の日記などに紹介されているくらいだ。つまり明らかに「緘口令」が敷かれているのである。 もう本作を読んだのは何十年も昔であるので、内容も細部は忘れてしまっている。どこがどう引っかかったのはよく分からないが、多分中国人に対する差別的な表現とか、そんなのであろう。しかし、そういう差別と戦う男の話なのであるから、そういう言葉が出てくるのは自然、というよりも「出さなければならないもの」である。でなければ差別がどれだけ悲惨か、その実態が分からない。それが差別のばらまきになるではないかとの主張は当たらない。だったら学校や会社で必ず同和教育とか人権学習なんてのをやってるのはどうなるのか。どんな言葉もバカにかかれば差別的に使用される。バカを想定して表現を自粛することは、結局バカを温存することにしかならないではないか。日本人はこんなバカの跳梁を許す歴史をいつまで続けていくつもりなのか。 『狼の星座』2巻は表記を変えて再発売されるそうである。封印されなかっただけマシとは言えるが、こうなると私が持っていたオリジナル版『狼の星座』を紛失してしまったのは、返す返すも悔やみきれないことである。
いつのまにか博多駅のゲームセンターの横に新しくできていた「A−ZONE」を覗いた後(覗いたただけですよ。コスプレやフィギュアには興味ないんで)、「シネリーブル博多駅」で、映画『カナリア』を見る。
テロ事件を起こしたカルト教団「ニルヴァーナ」から保護された少年・岩瀬光一(石田法嗣)。初めは関西の児童相談所で妹の朝子(味野和明日架)と一緒にいたのだが、反抗的な態度が消えず、祖父の隆司(品川徹)から引き取りを拒否される。朝子を奪われた光一は、相談所を脱走し、とある廃校で運動靴とドライバーを手に入れ、妹を取り返すために祖父のいる東京に向かって走り始める。 途中、光一は、ある男(池内万作)に手錠を掛けられ、危うい目に遭いかけていた少女・新名由希(谷村美月)を偶然助ける。光一を「ニルヴァーナの子」と見抜いた由希は、「恩返し」と称して光一とともに東京に向かって旅をすることを提案する……。
「ニルヴァーナ」はもちろん「オウム真理教」をモデルとしているが、10年前日本中を震撼させたこの事件、若い人でもまだ記憶に残っていると思う。オタク的には、富野由悠季が彼らを「自分の子供たち」だと認識してショックを受け、長い間作品を作れなくなってしまったその原因として有名かもしれない(その程度のもんかいと否定しきれないのがオタクの怖いところである)。 「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」自体は殆ど描写されない。塩田明彦監督の意図は、教団崩壊後も未だに「ニルヴァーナの子」であり続ける少年を通じて、「オウムとは何だったのか」を問うよりももっと普遍的に、「他者によって規定されている自分」から「自分自身が決定する自分の価値」を発見していくことを描こうとしたのだろうと思う。ただ、そうなると、別にオウムを題材にしなくてもいいじゃないか、という感じの作品になってしまうことは否めない。実際、物語の骨格は山中恒の児童文学『ぼくがぼくであること』にそっくりだ。 ならばいっそのこと中途半端に「ニルヴァーナ」での生活の日々など描写せず、少年がとらわれている過去がどんなものかは暗示だけで済ませてしまったほうが映画としてはより効果的だったと思う。『黄泉がえり』のときもそうだったが、塩田監督、説明的な描写が多すぎてくどいのである。ラストの「これからどうするの?」「生きてく」という台詞の陳腐さはどうだろう。修行シーンやラストシーンをカットして、多少意味不明なところが出てきても全てを「象徴」として描いたほうが、ずっと面白い出来になったと思う。 しかし、こういう「僕って何?」的な話ってホント増えたね。こういうのは本来は「物語以前」のネタで、思春期の少年にしか通用しない、オトナが今更見るような話じゃないんだが、同様のネタである『エヴァンゲリオン』や『もののけ姫』に大人まで殺到している現実は、それだけオトナと称する人々も実は未成熟だということなのだろう。そういう現象を確認する映画としては面白いけど、こういう「芸術以前」の三島由紀夫的な鬱陶しい映画はしげの好みには合わなかったらしく、見終わった後、すごく疲れ果てていた。 世の中には地獄を見てきた子供なんていくらでもいるわけで、「オウムの子」だった事実なんて、たいしたことないよなあと見えちゃうのである。
帰宅して、サッカーなんか見ずに、『3年B組金八先生 最終回スペシャル』を見る。桜中学のモデルになった学校も廃校になるし、脚本家の小山内美江子さんもシリーズ中盤で病気降板してしまったし、これがホントにホントの最終回になるのかもと思って見てみたただけで、いかに「史上最悪のB組」を演出し、覚醒剤ネタまで持ち込んでも、最後がご都合主義の感動で締めくくってしまうのはドラマである以上は仕方がない。 この二十年、『金八』シリーズをどうしても好きになれなかったのは、金八が一見悩んでいるように見えて、実はまったく悩んでいないからである。結局はそれもドラマに結末つけなきゃならないためには金八に「答え」を語らせる必然から生まれた番組そのものが持っている矛盾であり、だから今回の最終回も、金八は決して教師を辞めないだろうと予測がついてしまうのである。どんなに悲惨な題材を持ってきても、所詮は予定調和、全然現実感がないんだわ。 古いドラマだけれど、加山雄三の『高校教師』のほうがヒロインの生徒が事故死するわ、加山雄三は教師を辞めるわ、現実感がありましたわ。
2004年03月25日(木) 英語はニュアンスで読む。 2003年03月25日(火) メモ日記�� 2001年03月25日(日) ハカセ登場!/『カムナガラ』1・2巻(やまむらはじめ)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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