無責任賛歌
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| 2005年03月28日(月) |
気持ち悪い話(笑)/『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』(稲葉振一郎) |
しげの病状、さらに悪化。 ともかく「気持ち悪い」を繰り返すばかりで、食事も喉に通らない。ともかく医者に行くように言い置いて、今日は職場へはタクシーで。 しげは結局、病院で点滴を打ってもらったようである。これまでさして健康面では特に悪いところのなかったしげだが、検査の結果では肝機能が悪くなっていたそうだ。 しげも酒は全くやらないので、これはもう「肉」のせいだろう。これで「肉しか食わない」生活がどれだけ体によくないかいくらバカなしげでも理解したとは思うが、でもだからといって抑制が利くような性格ではない。つか、我慢がストレスに直結するもんで、食わないでいれば食わないで心と体のバランスを崩すのである。……どうしようもないじゃん。 食事も喉に通らないので、しげはウィダーインゼリーでの食事。私は自分でスパゲティを作ったら、「油の匂いが気持ち悪い」と言われた。そこまで油使ってないのに、かなりひどい状況なのである。
夜、NHK『BSアニメ夜話』「新世紀エヴァンゲリオン」。 冒頭で「10年経ったら冷静に討論できるのではないか」という視聴者からのメールが紹介されていたが、滝本竜彦を呼んだ時点でそりゃ無理だったんじゃないか(苦笑)。編集でかなり“見られる”レベルにしてはいたが、かなり会場の雰囲気は重かったのではないかと想像される。 『エヴァ』にどっぷりハマッてしまって、心ここにあらずになってしまった人というのは、私もホモオタさんという実例を身近に知っているので、滝本さんの言動を見ていると、なんだか暗い気分になる。一歩間違ったら自分もああなりかねないと思うと、ああいうのめりこみ型、思い込み型の人を笑い飛ばせないんだわ。岡田斗司夫さんも唐沢俊一さんも、実にしゃべりにくそうであった。 肝心の論争も、説明のための説明に堕している部分が多々あって、例えば「『エヴァ』は『文学』でありまた『エンタテインメント』であり」といった言葉の使い方についてはかなり乱暴で、文学研究者から見ればあまりに無知な言に聞こえてしまうと思われる。じゃあ『文学』って言葉をどう定義してるんだよ、と突っ込まれかねないのだが、これは視聴者のレベルを想定しての故意の用語なんだろうね。視聴者をバカにしているようだが、まあホントにバカなのでこれは仕方がないのである。結局ここでは、「文学」とは「なんか難しいことを作者が内省してるもの」、「エンタテインメント」とは「お客さんを喜ばせるもの」と、単純に作り手のベクトルが内外のどっちに向いてるかという点でのみ解釈すればよいようになっているのだが、本来「アニメで文学をやるというのはどういうことなのか」まで、もうちょっと突っ込んでしゃべってくれないと、あまり意味のある話にはならないのである。 宮村優子の「気持ち悪い」エピソードは前にも雑誌で読んだことはあるが、より詳しくて楽しかった。いや、よくぞ放送したものである。すごいぞNHK。
稲葉振一郎『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』。 「どうせ藤原のことだからこれは買って読んでるだろう」という声がどこかから聞こえてきそうだが、そりゃ買うよ。買わいでか。 いやね、最近読んだ本の感想、全然書いてないから(だから書き出したら止まらないのである)、これも書くのどうしようか迷ったんだけれど、やっぱりSFファンにはビッグ・ネームである長谷川裕一が、一般のマンガファンには今ひとつ知られていない、というのが悲しくて仕方がないからだ。 長谷川裕一が「スペース・オペラ」「タイム・トラベル」といったSFの古典的モチーフを大河ロマンとして描いて来た唯一無二のマンガ家である、という作者の主張には、「ほかにもいなかったかな?」と思いはするが、長谷川裕一のマンガ作品がどのように生み出されてきたか、そのルーツとなる文化背景としてのSF作品、それこそ海外日本を問わず、小説、映画、マンガの歴史をたどりつつ詳述していく姿勢は好ましい。文化を無視した単独の作品論、作家論というものはただの個人的感想にしかならないからである。 『スター・ウォーズ』が『スペース・オペラ』と言いつつも、実は宇宙を舞台にした御伽噺でしかなくなっていることはもはや明確な事実であるが、長谷川裕一の『マップス』は「寓話」となる寸前で「SF」として成立していると作者は主張する。そんなのどっちでもいいじゃないか、という反論はあろうが、その違いは、長谷川裕一マンガの魅力はSF性にこそあり、と信じている読者にとっては重要だろう。「神とは何か」というSFのテーマをただの「寓話」として終わらせるか、科学的可能性としての「未来」として受け取るかは、そのベクトルが全く違う。 種々雑多な宇宙人が登場する銀河世界など、現在ではほとんど荒唐無稽な域の物語であるし、私は別に「寓話」でかまわんと思う。人間であれビメイダー(人工生命)であれ、自意識(心)を持った存在が、そのアイデンティティーを「心があること」に求めるというのは、循環論法であり、証明不能な「コギト・エルゴ・スム」の哲学の課題でしかない。しかし、現代では「SF」は「寓話」としてしか語りえないのではないか。科学もまた本質的には哲学であり神学の範疇にあるのであろう、というのが私の現在のSF観である。 もちろん私は稲葉氏の論が間違っていると言いたいわけではなく、長谷川裕一作品が、「SFマンガ」を考察したい人のための格好のテキストである、という作者の基本的姿勢は多くの人に共感を持って受け止めてもらいたいと思うのである。
本の内容からちょっと離れて、これは私の推理、というよりは勝手な憶測なのだが、石森章太郎が『サイボーグ009』を完結できなかったのは、長谷川裕一の存在があったからではないか、と想像しているのである。長谷川さんの『マップス』が連載されたのは『SFアニメディア』(後に『コミックNORA』と改題)の創刊号からだが、これには『009』最後の長編「時空間漂流民編」も同時連載されていた。 最初、編集部は、『009』完結編「神々との戦い編」の連載を依頼したという。それに対して石森さんは「まだ準備が整っていない」と断ったという。ではなぜ、「漂流民編」が終了した後、完結編に着手しなかったのか。『NORA』は長いこと「時空漂流民編」の権利を他社に渡さなかったし、当然その「席」を用意していたはずなのだが、結局、完結編は描かれることはなかった。 これは、同誌に連載されていた『マップス』を石森さんが読んで、「しまった! 先を越された!」と思ったんじゃないかというのが、私の憶測なのである。 「神々とは何か? 地球上に残るさまざまな不可解な遺跡、ピラミッドやモアイ像などなどの探索から人類発祥の謎を追い求め、その果てに『創造者』としての“神”とサイボーグ戦士たちが対峙する」というのが「神々との戦い編」の基本ラインになるはずだったことは今ではよく知られている。 しかしそれは、「宇宙に残る伝承を辿って、この宇宙発祥の謎を追い求め、その果てに創造主たる“神”と対峙する」という『マップス』のストーリーラインとそっくりなのである。しかもスケールは長谷川さんのほうがはるかに大きい。結局は「専守防衛」で内へこもって終わりそうな『009』に対し、『マップス』は銀河障壁を越えようという、外へ外へと広がっていく物語だった。 「009」をライフワークと任じ、自身の最高傑作であるのみならず、日本SFマンガの最高峰にしたいと望んでいたと思しい石森さんにとって、『マップス』ショックは相当なものだったのではないかと思う。『マップス』を超える作品を描かなければならない。しかしそのプレッシャーがどれだけ大きいものか、これは『マップス』を読まれた方ならばすぐにご理解いただけると思うのだが、日本におけるスペース冒険ファンタジー作品としては、『マップス』を超える作品は空前絶後なのである。最高傑作を超える最高傑作なんて、いくら石森章太郎でも無理というものである。 石森さんは悩んで悩んで、結局、描けなかった。膨大なメモだけは残っているようだが、完結を約束された息子さんたちも、それを「傑作として」纏め上げることは不可能なのではないかと思う。残念なことではあるけれど。
関係ないけど巻末の「長谷川裕一作品リスト」、『ハイスピード・ジェシー』が載ってないなあ。ああ、あれは双子の弟さんの「長谷川裕二」さんの作品だったか(笑)。
2004年03月28日(日) 夢の中では生きられない。 2003年03月28日(金) メモ日記�� 2001年03月28日(水) 悪役NO.1/映画『隠密剣士』/『名探偵コナン 科学トリックBOOK』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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