無責任賛歌
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| 2005年04月08日(金) |
訃報二つ/『名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(石川森彦) |
出張で一日ばたばた。そのためか、買ったばかりの定期をどこかに落としたらしい。 「もしかしてスラレたかなあ」とつぶやいたら、しげ、「あんたが落としたにきまっとるやん! どうして他人のせいにするとね!」と烈火のごとく怒る。別に他人のせいにしてるわけじゃなくて、どこでどう落としたかが皆目見当がつかないので(ポケットに入ってたほかのもの、鍵とかは無事で定期だけが落ちているのだ)、そう言っただけのことなのだが、しげは怒りのぶつけどころがなくて、私に当たっているのである。 でも、落として損したのは私であってしげではないのだが。私が悔しがる前にしげが半狂乱になってたんじゃ、私はどうしたらいいのやら。
映画監督の野村芳太郎氏が、8日、肺炎のため死去。享年85。 遺作が1985年の『危険な女たち』(原作はアガサ・クリスティーの『ホロー荘の殺人』。エルキュール・ポアロにあたる探偵役は石坂浩二!)つまり、十代、二十代の若い人は、リアルタイムで野村芳太郎の映画を見たことはないということになる。だからこその「誤解」が、この人に関してはかなり付きまとっている気がしてならない。 例えばその「代表作」のように思われている松本清張原作による『砂の器』である。以前もこの日記やコンテンツ(現在再アップ中ですが)で書いたことがあるが、お涙頂戴好きの日本人には痛く受けていても、これは映画としてもミステリーとしても何ら評価すべき点のない駄作である。あんなハンセン病を「利用」した映画に価値を認めるというのは、いったいどういう神経の人間かと憤りを覚えるほどだ(詳しくは都筑道夫の『サタデーナイト・ムービー』を参照のこと)。 公開当時も、知り合い連中で(もちろんコアな映画ファン、ミステリファンばかりなのだが)あれを誉めている人というのは皆無に等しく、「ヒットしてるって言うから見に行ったのに、何だあれは」と憤慨すらしていた。つくづく作品の出来と大衆受けとは別物なのだと実感せざるを得ない代表例が『砂の器』であった。 今やその「大衆受け」でしかなかった虚名が定着し、後追いでこの映画を見た若い人はこれが本物の名作であると大きな誤解をしているように思える。まさしく「歴史の風化」と言うか、「古いものはみなよい」症候群に罹ってんじゃなかろうか。 基本的に野村芳太郎という人は、特に個性的な演出家というわけでもなく、やはり松竹大船の人情路線の伝統上にあってペーソスは解せてもナンセンスギャグは不得手、社会派としてもごく小市民的で床屋政談的な思想しか持ち得なかった人で、だからこそ逆に一般大衆にはわかりやすい庶民感情に根ざした娯楽作品を作ることのできた職人監督であったと思う。70年代、80年代の「大作志向」の映画以前は、小品だけれどもたまにしんみりした文芸映画、コメディ、ミステリーなど、ジャンルを問わない映画を数多く撮っていた。原作知ってりゃ誰が見たってミス・キャストだろうって印象の、美空ひばり主演の『伊豆の踊子』とか三波伸介主演の『ダメオヤジ』とか、一連のコント55号シリーズとか、いくらプログラム・ピクチャーだからとは言え、映画の出来云々以前に、企画段階で誰か止めるやついなかったのかって言いたくなるような珍品の数々が目白押しなのだが、これは恐らく、「タレント人気」に乗っかりゃいいんだからと軽い気持ちで(つか何も考えずに)作っていたと思しいのである。 だからこそ初期作品でたまに光って見える『張込み』とか『拝啓天皇陛下様』とか『五瓣の椿』も、脚本もそんなに上手いわけではないのでやはり役者の力に起因するところが大きいのだろう、と演出家としての野村さんの腕は割り引いて考えてしまいたくなるのである。 それにしても不思議でならないのは、野村さんは本人の資質的にはおよそ合っているようには見えないミステリー・推理映画に、どうしてあそこまで拘ったのかということだ。全部で88本ある監督作の中から、広義のミステリー・推理映画に当たるものを抜粋してみる。
1953 鞍馬天狗 青面夜叉(原作 大仏次郎) 1958 張込み (原作 松本清張) 1961 ゼロの焦点 (原作 松本清張) 1961 背徳のメス (原作 黒岩重吾) 1964 五辧の椿 (原作 山本周五郎) 1968 白昼堂々(原作 結城昌治) 1970 影の車 (原作 松本清張) 1974 砂の器 (原作 松本清張) 1977 八つ墓村(原作 横溝正史) 1978 事件(原作 大岡昇平) 1979 鬼畜(原作 松本清張) 1979 配達されない三通の手紙(原作 エラリー・クイーン『災厄の町』) 1980 わるいやつら(原作 松本清張) 1981 真夜中の招待状 (原作 遠藤周作『闇の呼ぶ声』) 1982 疑惑(原作 松本清張) 1983 迷走地図(原作 松本清張) 1985 危険な女たち(原作 アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』)
晩年の作は殆どミステリーばかりと言ってよいが、そこそこの秀作はあっても文句なしに傑作と言えるのは『張込み』『事件』『鬼畜』くらいのものであろう。しかもこれらの作品の面白さはあくまで映画としての面白さであって、ミステリーとしてのそれではないのである。『張込み』『鬼畜』は犯罪を題材にはしているが、ミステリーとしての興味はかなり薄く、『事件』も原作が本来目指したものは裁判の集中審理方式に関する是非であり、推理小説のそれではない。これだけ松本清張作品を映像化していながら、最も本格ミステリとしての体裁を整えている『ゼロの焦点』が一番つまらない出来なのである。横溝正史、遠藤周作、クイーン、クリスティーの映像化に至っては、ミステリーとしてはトホホなものばかりであった。「ミステリ映画を作る才能がない」と断定しても構わないと思う。 「いったい何が野村芳太郎に欠けていたのか」という点を考えたとき、比較の対象として黒澤明や岡本喜八を挙げれば、納得していただける方も多いと思う。黒澤明の場合はブレーンにミステリマニアの脚本家・菊島隆三がいたことも大きいと思うが、実際、野村芳太郎以上にミステリに対する造詣は深かったと思われる。純粋にミステリーを原作にしたものはエド・マクベイン原作の『天国と地獄』くらいだが、『野良犬』『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』などにはミステリーの要素が横溢している。岡本喜八も、出世作『独立愚連隊』は完全に本格ミステリの体裁を取っていたし、大藪春彦原作の『暗黒街の対決』『顔役暁に死す』、ウールリッチ原作の『ああ爆弾』、都筑道夫原作の『殺人狂時代』、天堂真原作の『大誘拐』のほか、やはりミステリ趣味満載の映画が数多くある。黒澤・岡本両監督のミステリ趣味は、常に「粋」だということだ。 まさしくその「粋さ」こそが、ミステリ映画をミステリ映画たらしめる重要なファクターなのである。例えばそれはどんなところに現れているかというと、『用心棒』『椿三十郎』で三船敏郎が敵を欺くために見せた数々の機知、『天国と地獄』のあのパートカラーの煙、『殺人狂時代』での仲代達矢のとぼけぶり(あまり具体的に書くとトリックをばらしちゃうので書けない)などなど、それらは映画、映像表現であるがゆえに効果的なものばかりであった。まさしく黒澤・岡本監督は「映画作家」であったのである。 それに対して、野村作品のミステリ描写はことごとく芸がない。ただカメラで写しているだけで演出というものがない。『砂の器』の「カメダ」ほか、謎解きの高揚感のなさはどうしたことだ。「allcinema online」などのユーザーコメントを見ても、「親子の情愛」云々について語るばかりで、一般観客の感動がミステリ部分には全く関わっていないことがよく分かる。 「ミステリ映画の第一人者」というイメージが、いかに野村芳太郎の本質とかけ離れているか、それは例えば野村さんの映画を見て原作者に興味を持ち、他の作品を読んでいけば、野村さんがいかに原作者の代表作を“外して”映像化しているかもよく分かる。横溝正史、クイーン、クリスティーについてはどうしてそれを選んだのか、理解に苦しむほどで、これはもうミステリに対する感度が著しく低いと言うしかない。別にミステリとして面白くなくてもいいじゃないか、と仰る向きにはミステリをミステリとして映画化しないのは羊頭狗肉であると反論しておこう。 監督としての評価も『事件』『鬼畜』を最後に、作る映画作る映画、酷評を受けヒットもしなくなっていく。結局は『砂の器』や『八つ墓村』が予想を超えて記録的に大当たりしてしまったことが、野村さんを「勘違い」させ不幸にしてしまったのではなかろうか。その結果、「大作」を「ヒット作」を作らなければならない、という思い込みが、野村さんを、そして松竹を支配し、そのために「ミステリー映画で当たったのだから、次もミステリーを」という安易な選択に走らせてしまったのではなかろうか。 そうでさえなければ、あともう少し、小粒ながらもしっとりした映画を作り続けられたのではないか、そんな気がしてならないのである。
訃報がもう一つ。 こちらは野村監督に比べて扱いが格段に小さいが、マンガファンにとっては絶対に忘れられない、忘れちゃならない名前である。 かつて伝説のマンガ雑誌『COM』(手塚治虫責任編集だったんだよ)誌に珠玉の短編マンガを発表し、「天才」の名を恣にしていた岡田史子さんが、3日、心不全のため死去していたことが判明。享年55。つい何年か前に旧作の短編集が編まれていたし、『消えたマンガ家3』でもインタビューに答えていらっしゃったので、お元気なものと信じていた(「消えた」と称するが、もともと寡作家で、数年作品の発表がなくてもファンは気長に待っていた)。 作品数は限られていたが、24年組の人たちに強く影響を与え、少女マンガが少年マンガを凌駕するほどの深遠なテーマを扱うようになるきっかけを作った人であった。……こういう「常識」も、知っている人間の“誰もが”記しておかないと、忘れられてしまうのである。 多分に60年代、70年代の世界に対する逼塞感を感じさせる作風であるが、少年の、少女の、壊れ行く精神を、切り絵が人形のようなキャラクターに託して象徴的に描いた作風は、現代でもあるいは未来でも充分に通じるだろう普遍性を持ちえていたと思う。代表作の『ガラス玉』『ピグマリオン』などは、飛鳥新社から発行されている『ODESSEY1966〜2003 岡田史子作品集』で読むことができる。
マンガ、大橋志吉脚本・石川森彦まんが『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(NHK出版)。 マンガやアニメからクリスティーに入ろうという人には「原作を読んでくれ」と言いたいところだが、ともかく活字離れの進んでいる現代では、若い人にミステリーを読んでもらおうと思ったら、「学習マンガ」的な、マンガとしての面白みに欠けるマンガであってもないよりはマシ、ということになるのかもしれない。 と、好意的に評価しても、原作の選択に『雲をつかむ死』というのはちょっと納得がいかない。クリスティーの長編の中では犯人の動機、トリックにかなり無理があり、せいぜい中の下、程度の評価しか与えられないのだが、やっぱり「空中の密室」である飛行機の中での殺人という設定に、つい魅力を感じちゃうんだろうね。犯人が限定される状況でなぜあえて殺人を犯さなければならなかったのか? という疑問に明確に答えられていないのが難点なのだが、この疑問に納得のいく解答を出しているミステリーって、実はすごく少ないのである(去年の『名探偵コナン 銀翼の奇術師』も、そのあたりの矛盾が全く考慮されてなかったものなあ)。しかも前作の『パディントン発4時50分』と、内容的にちょっと「かぶっている」部分もあり、その点でも原作選択においてもう少し検討はされなかったのかと疑問が生じるのである。 アニメに準拠しているので、今巻もメイベル・ウエストが登場しているのだが、『パディントン』のように「置き換える」キャラがいなかったため、出番も少なく、いてもいなくてもいいテイタラク。ポワロがやたら「解けない謎はない。真実は私に微笑む」と決め台詞を口にするのもうるさい。これはもう『金田一少年』と『名探偵コナン』の明らかな悪影響だ。原作ファンには宣告ご承知と思うが、ポアロは確かに「名探偵、みんな集めてさてと言い」という状況を作るのは好きだが、巷間言われているほどのハッタリ屋ではない。マンガもアニメもキャラクター造詣が雑なのである。 アニメもじきにめでたく放送終了だと思うが、いくらクリスティーファンとは言え(デヴィッド・スーシェ主演版のDVDボックスはしっかり買っているのである)、あれはDVDが出ても買う気になれないのである。
マンガ、和月伸宏『武装錬金』7巻(集英社)。 黒い核鉄のために、人類を滅ぼすモンスター・ヴィクター�靴伐修恒震燭砲△襯�ズキの逃避行編。斗貴子がくっついていくのは当然としても、もう一人の仲間、前巻より新登場の中村剛太のキャラクターが弱いのが難点。つかねー、もう中堅どころと言っていいキャリアがあるのにねー、和月さんが脚本・キャラ作りともに一向に進歩・上達しないこと自体、将来が心配になるんだけどねー。なんつーか、あれやこれやの先行作品からの流用が多すぎるよ。しかもそれを正直に後書きで告白して、「反省」したりするから、かえって評判を落とすのである。技術が上達しなきゃ、反省なんて有名無実だとしか思われないって。 「いずれ化物になるかもしれない恐怖」ってモチーフもまあ昔からいくらでもあるんだけれど、ちょうどサンデーで夏目義徳の『クロザクロ』が全く同じ展開になってて、こっちのほうがはるかに面白いものだから、比較されるとどうしても和月さんのほうがワリを食ってしまう。何がよくないって、カズキに宿命を背負った悲壮感がまるで感じられない点なので、これはどう言い訳したって和月さんの演出力不足に原因があるのだ。「カズキはあくまで明るく振る舞うキャラだ」と弁護したいファンの人もいるかもしれないが、「明るく振舞うからこそその運命の重さが際立つ」演出がまるでなされていないのである。 和月さんの実力を考えると、これから先、このマンガが面白くなるとは思えない。なのにファンとして和月さんを見捨てられないのは、前にも書いたと思うが、マンガそのものはつまらなくても、和月さん本人に「人間としての誠実さ」を感じるからだ。誠実でなければ誰が自作の欠点をあそこまで堂々と後書きで書きまくるものか。ほんの少しでも面白くなってくれれば、という淡い期待で、8巻、9巻と続いてほしいのだが、10巻越えての伸びがどこまでか、苦しいところだろうなあと思うのである。
2004年04月08日(木) もう好きなだけトンガッちゃってください(-_-;)。 2003年04月08日(火) 新番組攻勢始まる。/『アニメ『キノの旅』1話「人の痛みが分かる国」/カレイドスター』1話「突然で! 初めての! ステージ」 2002年04月08日(月) ゲイは身を助く/『光の島』2巻(尾瀬あきら)ほか 2001年04月08日(日) デイ・アフター/『漫画 巷説百物語』(京極夏彦・森野達弥)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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