無責任賛歌
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| 2005年05月05日(木) |
人を呪っても穴がない/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』4巻(星野桂) |
6時40分起床。けれど本当は6時に起きる予定だった。 父はいつも6時20分のバスに乗って店まで出勤している。博多駅から降りて店まで歩くのに10分くらいはかかるから、夕べ父に、「朝は車で送るよ」と約束していたのだが、当然、父はもう出かけている。恐らく、我々が高鼾で寝ていたので、起こしちゃ悪いと、一人でそっと出ていったのだろう。 実は私は、いったん4時に目が覚めていたのだが(寝床が変わって広々とした場所で寝られても、不眠症が治るものでもない)、出かけるにはいささか時間が早いし、まだちょっと体もうまく動かない。とりあえず、テレビを点けておくことにした。そうしておけば、うっかり寝込んでも音の変化ですぐまた目覚めるだろうという判断だったのだが、寝惚けたしげが、私がウトウトした隙に勝手にテレビを消していた。 ハッと目覚めて、時計を見たときにはもう遅い。 暢気に鼾をかいていたしげを起こして、「おまえ、テレビ消したな?」と聞いたら、寝惚けた声で「消し忘れかと思ったから」と答える。 「うちでも朝はいつもテレビ点けてるだろ!? 寝過ごさないためにそうしてるのに、何で勝手に消してるんだよ。それに、そういうことするんならどうしてお前は自力で起きないんだよ!」と怒ったが、しげは「ああ、ごめん」と口にするものの、またすぐ布団の中にもぐりこんでいる。もちろん、罪悪感から恥ずかしくなって顔を隠したわけではさらさらない。ただ単にまだ眠いだけである。しばらく待って、7時を回ったころにもう一度声をかけた。 「もう大概で起きろよ。店に行って、ここの鍵を返さないと」 「じゃあ、『釣りバカ』見てから店に行こうか?」 「ばかやろう!」 寝過ごして約束を守れなかったことを申し訳ないと感じる心がないのだ。日ごろ、他人に対しては時間の感覚がルーズだのなんだのと文句を垂れるくせに、自分には甘いのである。こういうところが「ずるい」のだが、結局しげは起きてても半分寝ているような生活を送っているので、自分が卑怯者だって自覚もないんだろう。こいつと一緒にいると、本当に疲れる。 父のマンションに泊まったときでもこんな風にぐーたらだと、今後もしも父と同居するようなことになった場合、ちゃんとした生活ができるものかどうか不安だ。なんでもソツなくやれと言いたいわけではないが、日常のリズムを作れないのが生活習慣の乱れに繋がっているのは間違いないことなんで、少しは改善しなきゃって思いを持ってもらいたいものである。でなきゃ、病院に通ってる意味だってないよ。 店に顔を出すと、仕事中の父、案の定、「気持ちよさそうに寝とったけん、起こさんやった」と答えた。ともかくムカシの人間というのは人に気遣ってばかりで、それはたとえ親子の関係であっても同じである。一言声かけて、「起きろ」と言ってくれればいいのに、その程度のことでも遠慮される。一緒に食事をしても、油断すると飯代も全額自分で払おうとするような親なので、息が抜けないのである。世間の親というものは、年を取ったら、もうちょっとわがままになるものじゃないのかね。
ここんとこ、兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故のニュースは、JR西日本のアラをいかに見つけるかに腐心しているように見える。 そりゃ、実際に事故を起こした責任はJR西日本にあるのだし、その体制に問題があって、今後も同様の事故を起こしかねない点があるのは確かだ。たかが一分半の遅れが原因で、過剰な懲罰を受けるというのは、諸外国から「日本独自の現象」とか非難されてたけれども、日本人全般の感覚からしても非常識だと思うぞ。あれを日本の常識だと思われては迷惑だろう。二、三分程度の遅れはザラなJR九州なんてどうなるんだ(いや、遅れていいと言いたいわけじゃないけれども)。 だから、その責任を追及することは確かにマスコミの仕事であろうとは思うのだ。けれど、だとしたらやはり、新聞もテレビも、今のような揚げ足取り的報道の仕方はちょっとおかしい、と自分たちで気づかなきゃいけないのではなかろうか。なんか、責任追及の目的から外れてしまっているように思えてならないのである。 例えば、JR西日本の過剰な管理体質が問題だ、とするのならば、事故後もオーバーランがやたらあった、と報道するのはその視点がズレちゃってるんじゃないか? と感じるってことなのである。結局、それらのオーバーランを起こした運転手たちが「どういう処分を受けたか」は全く報道されていない。それじゃあ、JR西日本の体質が変わったのかどうかまでは分からずじまいじゃないの。たとえオーバーして定刻に遅れるようなことがあったって、もう事故前のような運転手苛めのような懲罰は下さなくなった、と報道するのなら分かるんだけど。
「報道に対する違和感」は更に広がっている。 事故が起きた先月の25日、JR西日本大阪支社天王寺車掌区の区長ら職員43人が、発生から約3時間後に、懇親目的のボウリング大会を開催していた、という二ユースも、聞いたときには「何でこの非常時に?」と確かに呆れはした。事故を起こした管区の人間がそんなことをしていれば、それは確かに非難の対象になるだろう。 しかし、この区長さんがテレビに出て頭を下げながら言った言葉を聞いて、あれ? と思った。「自分の管区外だということで、自分も行かなければならないという認識に欠けておりました」というような趣旨の言葉を口にしていたのである。 えーっと、大阪の地理には詳しくないのだが、事故現場と天王寺って、近いの? 遠いの? 管区が違っていても、近場で事故が起こっているのなら駆けつけなかったのは人としてどうかとは思うけれども、普通、管区外の人間が公的に認められた休暇取ってたからと言って、責められる筋合いのもんじゃないんじゃないのかねえ。 マスコミの報道の仕方の「いやらしさ」は、このことをこんなふうに「歪めて」伝えている。 「天王寺車掌区は阪和、関西線などが管轄で福知山線と直接関係ないが、同じ大阪支社管内」。なるほど、こういう表現の仕方だと、たとえ管区外だろうが駆けつけるのが当然で、事故を無視するのはおかしい、という印象になる。けれどこれって簡単に「天王寺車掌区は、大阪支社管内ではあるが、阪和、関西線などが管轄で、福知山線と直接の関係はない」って言い換えられる。それぞれ自分の地域に当てはめて考えていただければ分かるんじゃないかと思うが、「同じ大阪」って、やたら広いと思うのである。福岡で考えたって、博多区で起きた事故に東区の連中が出張ってきたら、かえって現場が混乱することだってあるんじゃないか。人手が足りないなら足りないで、改めて休暇返上で召集をかけるのは、それこそ、上層部の仕事なんだから、責任が重いのはやっぱりそっちのほうだろう。マスコミ、何を「下っ端イジメ」やってるんだか。 それに、区長は放送で事故のことは知ってたと言うけれども、その放送内容自体が当初は死者が出ていることも告げず、「踏切事故」程度のことしか言ってなかったっていうじゃないの。だったらレクリエーションに行こうって判断したとしても仕方がないと思うけどな。繰り返すけれども、責められるべきなのは、現状把握が事故後何時間経ってもできなかった上層部にあるとしか思えないのである。 当該の電車に乗っていながら現場から出勤した阿呆とは、状況が違う(あの阿呆たちは、たとえ上司が出勤せよと命令しても、「あほかお前は!」と罵倒すべきであった。上司に逆らえないと言うのなら、人間辞めちまえ)。それをなあ、もうどこまでこのニュースで「引っ張りたい」のか知らないけれど、マスコミのアラ探しも今に始まったことではないが、今回は特にひどすぎやしないか。ボウリング大会の後、どこぞの宴会場で開かれた二次会の現場まで出かけて行って取材なんてしてやがるが、誰がそこまでしてくれと頼んだ。「みんな楽しく酒を飲んでいた」とか、そんなニュースまで知りたがるやつなんて、どれだけいるって言うんだよ。 とか何とか言っても、今や全ての報道機関が「フライデー化」してしまったと言っていいマスコミの体質が、たとえ訴えられたり処分されたりしたところで、変わるわけもない。そこんとこが胸糞悪いのだが、やはり「報道の自由」は保障されなきゃならない。だから、行政による報道規制がされるような事態にはならないでほしいとは思う。ただ、こっちが頼んでもいないのに余計な調味料を振りかけてまずくなった料理に対して、「くそまず」という権利だって、こっちにはあるのである。 だから、怪我した人のインタビューまで、病院にずけずけと入りこんで取ったりするな。この腐れ脳どもが。
昼間、テレビでドラマ『金田一耕助の傑作推理 悪魔の手毬唄』の再放送。これも本放映当時は見逃していたもの。金田一耕助の古谷一行、等々力警部のハナ肇はレギュラーで、それに磯川警部役で藤岡琢也が絡む。原作ではこの東京、岡山の両警部が相協力する描写はないので、これは横溝正史ファンにとってはなかなか嬉しいサービス描写である。磯川警部役は市川崑監督映画版の若山富三郎という極め付けがあるのだが、藤岡琢也の名演も捨てがたい。 ストーリー自体は、恐らくは長大な原作を二時間に収めなければならないためだろう、原作のトリックを台無しにしている部分もあって、評価はしがたいのだが、『八つ墓村』などと違って、原作を妙にいじったりしない限りは(高倉健版『悪魔の手毬唄』のことね)そんなに駄作にはなりようがないのである。古谷一行の金田一物の中では、比較的出来のいいものとして仕上がっているように思う。つか、まだ古谷一行が若いしね。
木曜ドラマ『アタックNo.1』第4話。 猪野熊監督に選抜の合宿から帰され、富士見学園に戻ったこずえの再起編。 今回のこずえに対する仕打ちも無茶苦茶で、実際、本郷コーチが言うように、こずえが自殺でもしたら選抜自体がオジャンになりかねないわけで、猪野熊監督のやり方はただの熱血バカのそれでしかなく、「世界に通用するためには」なんて台詞にまるで説得力がない。原作ではこずえに厳しいようでも実は監督としてこずえをしっかり見ているはずなんだけど、やっぱ船越栄一郎が演じると胡散臭いやつにしか見えないな。つか、ありゃ柏葉英二郎だわ。こずえの代わりにみどりをっていうのも、どちらかをかませ犬にしようって手段にしか取れないから(まあ最終的に選ぶのはこずえなんだろうけれど)、こんな人事をやってれば、選手全員離反して、監督解任されるって。ドラマとは言え、作りが強引に過ぎる。 緑の人物描写もなんだかなあで、酔漢に教われたチームメイトを助けたこずえを「売る」必然性がない。自分はもう選抜に選ばれたんだから、これ以上こずえを貶める必要なんてないじゃんかよ。まあ、脚本は一話目から破綻してたから、今更なんだけれども、これくらいデタラメやるってのは、やはり往年の題詠ドラマを意識してるのかねえ。いやまあ、加藤夏季が出ている限りはとりあえずドラマは追いかけますって。ドラマの中で一番素直でいいい子の役だし。
マンガ、星野桂『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』4巻(集英社)。 いかにもどこかで見たようなマンガであっても、3巻、4巻と続けばもうオリジナルである。人気も出てきたようで、今巻からいかにも「場つなぎ」な印象の強い、「孤城の吸血鬼」編が開始。 前巻で左眼をつぶされたアレン・ウォーカー、冒頭でいきなりその目が再生し始めているというやや気色の悪い描写が。一時期、マンガでもアニメでも、身障者を描写しちゃいけないとする過剰な自主規制がはびこってたものだが、この『ディー・グレイマン』はそんなのどこ吹く風で、言い方は悪くなるが、悪趣味なゲテモノ描写をどんどんかましてくれている。ノアの一族のフランケンシュタイン継ぎ目なんかは最たるものだ。 こういう描写がジャンプ誌上で許されるようになったのは、やはり『幽遊白書』あたりからの冨樫義博の「暴走」がかなり寄与していると思う。冨樫さんは「自分があるエポックを作り出してしまったこと」について、どの程度自覚しているのか分からないが、ごく自然に異能力者が“いびつな姿”で存在している世界を描くことは、フリークスが当たり前に存在するのが自然な世界である、と主張しているのと同じなのである。こういうマンガには、その絵柄のグロテスクさとは相反して、世界設定の根底に差別とか平等とかいった概念についての深い思索が巡らされているので、読んでいて気持ちがよいのである。 今巻初登場のアレイスター・クロウリー男爵も、一応「吸血鬼」らしいのだが、前巻のミランダさん同様、やがてはエクソシストの一員として活躍していきそうで、しばらくはこういう「仲間探し」という形での展開が続きそうな感じである。 ということはエクソシストたちと、千年伯爵&ノアの一族との戦いが、一時、ワキに追いやられてしまうわけで、てっきり今回も新しいノアの一族が登場すると思っていたのに、ちょっと肩透かしを食らった感じである。 でも、ということはこの作品、かなり受けているということで、5巻以上は確実に続くだろうと思われる。となると、あまり大風呂敷を広げすぎると、そもそも世界観自体、『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』よりもずっと大きいので、両作以上に収拾がつかなくなる心配もある。アクマはあくまでアクマであって悪魔ではないのだから、今後は神だの仏だの、ハルマゲドンだの出してこないことを祈るばかりだ。
2004年05月05日(水) 躁なんだか何なんだか。 2003年05月05日(月) 東京の空の下�ぁ娠撚茵悒椒ぅ后戮曚� 2002年05月05日(日) トンデモさんの系譜/『こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』』(山本弘)ほか 2001年05月05日(土) 東京ドドンパ娘/葛飾柴又寅さん記念館
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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