昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2005年01月19日(水) 期待なんかしない

 午前7時、ギャンギャンと鳴りたてる目覚ましの音で起床。嫌な電子音だ。神経を逆なでする腹立たしい時計だ、もうぐしゃぐしゃに壊してしまいたい、と八つ当たり。
 昨夜はかなり遅くまで熱心に「シンセミア」の上巻を読んでいたので、少々寝足りない感がある。私はやっぱり、気持ちを物語の中に埋没させる、ということがすごく好きなんだなあ、とあらためて思う。

 サクサクと働く。いい具合に進んでいたのに、ちょっとした行き違いというか、勘違いのようなことがあり客を怒らせてしまい、午後からはその対処に追われてグッタリした。ここでもギャンギャンと怒鳴られて、ガッチャン!と電話を切られた。目覚まし時計のような人だ。あの人はすぐ感情的になるからやりにくいなー、とNさんと話し、ため息をつく。誰かのご機嫌を取るのはしんどい仕事だ。
 
 夕刻ちょっと外出した折、旭屋に行って「草思」の2月号をもらってくる。今月の特集は『日記という表現』。これを読むとどうやら日記とは、例えば「足跡」や「記録」を残すとか「文章上達」のためとか、「自己変革」とか「自己管理」とか「〜の夢に向かって」とか、まあとにかく何がしかの「目的」をもってつけるものであるようで、そういったものを全く持たない私は、また頼りないような気持ちになった。
 小学生の時「アンネ・フランクの日記」を読んで、私もこういうことをやってみよかな、と何となく思い立って以来、一日も欠かさず日記をつけてきた。毎日毎日。来る日も来る日も。ダラダラと。無目的に。それが何か自分の糧になったか、役に立ったか、というと、特に思いつかない。なーんにも身についてないのではないか。ノートに書いている時は時々読み返しもしたが、今は完全に書いて書きっぱなしだし。要するに私にとって日記をつけるとは、ほとんど意味のないことなんだけれど、意味のないことだからこそ続いてる、というところなんだろう。意気込むとスルッとやる気が逃げるのは何故なんだろう。

 晩ご飯を食べた後、久しぶりにテレビをつけて「報道ステーション」を見たら、次から次へと気分が悪くなるニュースばかりが続くのでほとほとウンザリした。
 ひきつづき夜更けまで「シンセミア」を読む。

・購入物:なし

・朝食:お粥、梅干
 昼食:お弁当(焼塩鮭、卵焼き、大根菜とジャコのおひたし、ごはん)
 夕食:中村屋のコロッケとミンチカツ、粕汁(鮭、大根、人参、ゴボウ、コンニャク、揚げ入り)、ジャガイモの煮付け、麦酒、ごはん


フクダ |MAIL

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