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午後のラッパ - 2001年05月07日(月) ふと窓の外に目をやると、隣家の屋根とステンレス製の物干し竿に区切られた狭い空を、消えかかった飛行機雲が一筋、うっすらと横切っていく。 この窓からは見えないが、6m道路を隔てたお向かいの敷地では、新築工事の重機の音が響き、裏手のお宅の庭先からは、重機の音に負けじと鳴いている、スズメやクロツグミ、キジバトの声が聞こえてくる。 風も吹いている。 昨日まで、傍らでごろごろしていた娘も学校に行った。 平日が戻ってきたんだ。 久しぶりに日記でも書こう。 ・・・・・・・ 話しは少し長くなる。 ・・・・・・・ 今は昔、私が高校生だった頃、Fさんという未亡人がいた。 息子さんしかいなかったので、女の子を連れてお出かけするのが珍しかったのかもしれない。 銀座のロードショウ、デパートのショッピングなどに、よく誘っていただいた。 亡くなったご主人の事業を引き継いで、社長さんでもあったFさんのお供をすると、千疋屋パーラーのフルーツパフェや、帝国ホテルのサンドウィッチと銀のポットに入ったコーヒー、隠れた名店の仏蘭西料理など、当時の高校生の口にはそうそう入らない、贅沢なものをごちそうになって、他愛ないおしゃべりができる。 楽しくておいしいお出かけだった。 そんなFさんで、忘れられないエピソードがある。 映画の話だった。 「Nちゃん、Nちゃん、すっごい映画が来るんだって、これ、絶対Nちゃん好みよ」 「えっと、何て言ったかな・・・えーっと、えーっと・・・」 「そうそう、『午後のラッパ』!」 ―― しばしの間あり ―― 「おばさん・・それって『ブリキの太鼓』じゃない?」 「そうそう、『ブリキの太鼓』!」 「Nちゃんが読みそうな翻訳モノの原作でさ、面白そうなのよね」 ―― 何事もなかったように、会話はつづく ―― まあ、言う方もラッパなら、それで分かる方も太鼓な話である。 ・・・・・・・ ぷっぷくぷー♪ ・・・・・・・ 以下本題に入るのだが、事の発端は、連休の始まりとともにやってきた歯痛だった。 昨年、治療中に歯どころじゃない事態に見舞われて、放置したままになっている欠けた奥歯が、猛烈に痛くなってきたのだ。 歯医者嫌いの私も、さすがにこれは、と思い、ずいぶん前になるが、お世話になったことのある歯医者さんに予約を取ろうと決心した。 「どこの歯医者さんに行くの?」 と、母。 「うん、△△町の 『下村さん』 」 と、私。 ここ2回の引越しで、住所録も診察券入れも、すべて棄ててしまったので、電話番号がわからない。 タウンページで調べるべく、歯科のページを繰っていた。 ・・・ない。 △△町の該当する所番地に、『下村歯科』 はなかった。 閉めてしまったのだろうか。 1万5千分の1の地図をべろべろっと広げて、もう一度住所を確認する。 「おい、何を調べてるんだ?」 と、父まで登場。 「いや、ちょっと、その、歯医者さんを、ね・・」 そのときになって、やっと私は自分の記憶装置の故障に思い至ったのである。 もしかしたら、『下村さん』 じゃなかったかもしれない。 さっきまで確信をもっていた名前が、あっという間に靄につつまれていく。 そうだ、『西村さん』 だったかも・・・ 再びタウンページを探す。 ・・・ない。 いや、『西原歯科』だったかな・・・ ・・・ない。 先生の顔も、入り口のドアも、窓にかかったブラインドの色も、歯磨き指導をしてくれる大柄な女性の腕の形まで思い出せるのに、名前だけが空白。 ・・・まただ! もはや、頭の中は靄どころではない。 イエローページでホワイトアウトである。 翌日、もう直接行くしかない、と、鎮痛剤で朦朧とする頭を抱えて、隣町まで運転していった。 幸いなことに、運転と道順をつかさどる回路は無事のようで、オートパイロットが作動しているかのように、10分で歯医者さんに着いた。 恐る恐る看板を見上げる。 イヤ〜な予感。 『神田歯科』 う、やっぱり・・・。 ぜ・ん・ぜ・ん・ち・が・う。 ・・・・・・・ ぷっぷくぷー♪ ・・・・・・・ 雨上がりの青空に、高らかに午後のラッパが鳴り響く。 ドアに掛けられた “本日休診” のプレートに、底無しの脱力感が漂う。 思えば、私はあの頃のFさんの年齢を通り越している。 病気じゃなくても、結構こんなものなのかもしれないな、と、一人、車の中で笑いながら、どこかで、『ブリキの太鼓』の少年のように、悲鳴を上げている私もいるのだった。 ※文中に使用した歯医者さんの名称は仮名です。 ...
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