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2003年03月20日(木) |
僕の生きる道 その弐 |
昨日のエンピツ作家さんたちは「僕の生きる道」に材をとる方が多かったですね。 だからじゃないけど、今日も僕の生きる道について。
私は「僕の生きる道」では、小日向さん演じるドクターが大変気になる存在でした。 けっして患者を一個のモノとは見ていない、けれどいたずらに患者を自分の方に引きずりこまない小日向ドクター。 浅からず深からずのそのスタンスを観ていました。
最終回の小日向ドクター。 もう先の見えているガン患者が、最後まで生き続けるために外出させて欲しいと懇願するが、ドクターとしてそれを許さない。 昨日の私はそんな小日向ドクターに失望していた。 それまでのスタンスとのギャップに違和感を持っていた。 なぜ、外出を許さなかったのかが分からなかった。
これはドラマ。深く考えることもない。とは思わなかった。 ので、今日は昨日の小日向ドクターについて考えていた。 これはドラマ。視聴者は自由に観て受け取ることが許される。と思う。 ので、私なりに小日向ドクターを解釈し、私自身に問いかけることにした。
小日向ドクターは、生き抜くことと、死に逝くことを分けていたのだと思う。 患者さん自身として最期の日まで悔いを残さず生き抜いて欲しい、という思い。 ドクターとして最期の時に正面から関わってあげたい、という思い。 だから、最期の時に向かっている患者に外出許可を出さなかった。ドクターとして。
私は、寝たきりの母を5年間看病した。 しかし寝たきりとは、動脈血中酸素が常人の半分しかないという数字からの安全パイ的寝たきりで、機能的に動けないわけではなかった。 なのに私は、ドクターの指示を守るべく母にベッド上安静を強制していた。 それにより確かに寿命は延びた。 しかし、それが正しかったのか、間違っていたのかは分からない。 母としては、たとえ寿命が少しくらい短くなろうとも四季の景色を見、外の空気を吸いたかったと思う。 私は1日でも長く生きていてほしかった。
これからも遭遇するであろう大切な人の死。 誰にも平等に与えられている、生まれ,生き、死ぬという事実の前で、自分のとるべき姿をその都度真剣に考えようと思う。 そして、自分も経験する死。 その日まで、自分を生き切りたい。
そういえば、この頃連鎖的に自殺する方がいますね。 生きてほしいですね。
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