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2003年03月23日(日) |
正義のための戦争?ではない |
今回の戦争に対し、自分はどう考え、どう動けばいいのか? 正直自分の考えがまとまらない。
エンピツの中では、「Reiko Katoのお仕事日記」に私と似た作者の気持ちが書かれていた。 また、関連へのリンクも張ってあったので読んでみた。 とりあえず、色んな人の考えを読んで、戦争について考える自分を持っていようと思う。
私は自他共に認める短気だ。 怒り出すと、言葉は荒れ、形相もかなり尋常ではなくなる。 だから、言葉の暴力に対して抗議をしながら、こちらが言葉の暴力を振るう可能性を秘めている。 今回の戦争に対する抗議運動の中に、平和を望むために使っているとは思えない言葉も見かける。 そんなところに自分の姿を見たりもする。 しかし、優しい言葉でどれだけの思いを伝えられるのかが分からない。 喧嘩の鉄則として、 感情には理論で。理論には感情で。というのがあるが、やはり怒りはそれと分かるよう表現して伝わることが多いように思う。 だが。 反戦を唱えながら、そこにまた異を唱える人達とのミニ戦争が起こってしまう現実が悲しい。 黙して語らずがいいのか?
Reikoさんは御自分のHPのトップに、「13歳のシャーロッテ・アルデブロンがメイン州の平和集会で話した内容」をアップしていた。 現実を端的に述べ、とても説得力のある文章だ。
私は骨髄バンクのボランティアをやっている。 その活動の折々に、ふっと耳にする言葉がある。 「我々はボランティアだからやれると思うことは率先してやる。国との交渉も、患者サイドに立ってその労を惜しむ気はない。 でも、なぜもっと患者本人やその家族が表に出て、自分達の置かれている状況をより良いものにしようとしないのか?自分達のことなのに」 私はそれとは少し違う考えをしているのだが、そうボランティアがこぼしてしまう心理は分かる。 ただ、患者はいきなり血液の病気になり、分からないのだ。目の前を見るだけでいっぱいいっぱいなのだ。 だからボランティアが動く。 しかし、どうしたわけかボランティアは片手間では出来ないほど専門性を持ってもいるので、つい愚痴りたくなるのだ。と思っている。
そんな骨髄バンクの話とダブらせてイラクという国を見てみた。 なぜ、国民は動かないのだろうか?叫ばないのだろうか? なぜ、アメリカにいる13歳のシャーロッテ・アルデブロンがイラク人の代弁をするのだろうか? やはりイラクの国民は分からないのだと思う。目の前を見るだけでいっぱいいっぱいなのだと思う。 だから、私達は動くべきなのだと思う。 自分の生活を守りながらでもいい。恋人と楽しい時間を過ごしながらでもいい。何も考えないよりはずっといい。 戦争はやめよう。戦争はやらない。 そう、強く強く念じなければならないのだと思う。
小泉首相を批判することは簡単だ。 バカ、アホ、鬼畜と言うことは構わない。 けれど、それとは別に、私達はひとり一人が戦争感をしっかり持つべきなのだと思う。 でなければ、戦争は絶対なくなりはしない。
私はMy登録している作家さんはあまり多くないけれど、(5人)あちこち拾い読みをしていると色々勉強になる。 でも、これは本当にタイミングがあるなぁと思う。 最新の日記に書かれている内容が、好きか嫌いか、良いか悪いか、自分にとってためになるかならないか。 それによって判断してしまうことがあるから。また、判断されてしまうことがあるから。 全てを見ずして。いや、少なくとも複数の文章を見ずして。
これはエンピツ内での話だけれど、やはりこの延長上にあるのが日々の生活だなぁと思う。 とても気を付けなければならないことだと、自分の肝に銘じたい。 戦争もやはり、ある限られた断面だけを凝視することから始まるのかもしれない。 そして、凝視した断面がそれ全てであると自分に刷り込み、他を扇動し、悲惨な形に向かうのかもしれない。 一点凝視の弊害をアメリカの独裁者に語っても聞く耳は持たないだろうが、 罪のない国民を殺す戦争が正義であるはずはない。
書くというのは、自分が何を考えているかを教えてくれるから時々驚く時がある。 なんか、今はそんな気分。
このエンピツでの日記書きを始めたのは、Reikoさんの文章をたまたま読んで自分も書いてみたくなのですが、やはり書くのはいい。うん!
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