Diary




2001年10月10日(水)
ふらんすはあまりに遠し

 B'zをウォークマンで聞きながらネットとかしてると独り言が大声になっていけない。
 日々叫んだり歌ってたり泣いてたりするから、マンション隣人の方々には怪しまれてンかなぁ。やれやれ私。(苦笑)

 後期の英語の授業が二つあるんだけれども、我が選択の結果として、二つともオーラルだとかスピーキング系の授業になった。授業の時間中、英語で友達と議論とか会話とかをネイティブの先生に導かれつつ行うのである。
 私は英語が好きだ。一つには小学校〜中学校の頃に通っていた塾の先生のおかげで。大学受験にまで使えていける文法の骨をしっかりとたたき込んでもらったから。もう一つにはおそらく私の特性として。

 英語で喋るというのが楽しいのは、多分、多分にそれが私にとって「目新しいこと」なのであるからなのだろう。
 覚え立てのツールを喜んで使っているようなものだ。
 こういうときは半ば躁状態であって、おそらく、調子に乗っちゃってるのであって、周りのみんなに不快感を与えたりしそう……だなぁ。
 はぁ。

 英語の授業があるのは水曜と木曜。ついでに言うと水曜は体育もあって、私は後期体育にバドミントンを選択した。バド、激ラブ。激ラブ。弱いんだけど。

 あー、だから下手したら体育の時間も調子のりそう。
 やだなぁ。後でうんざりしてしまう。じぶんにうんざりしてしまうのだ。



 英語についてもう少しー。
 私の思考回路は、多分けっこう、英語の使用に適応するものであると思う。
 江國香織さんがNHKのラジオ英会話のテキストに去年の何月かにインタビューされていたけど、そこで、「私は英語で話しているときの方がきっぱりした性格になります」って言うようなことを言っていた。
 そういうのって非常に理解できる。私は今、英語はなす事が目新しいことであって調子乗ってしまう部分が多分にあるのだけれど、ちゃんと取り込めて自分の範疇内に落ち着いた頃、「英語ではなし英語で考える自分」というのが見えるようになるのだとしたらそれはどのような物かしらー、と思うのです。

 外国語を学ぶのは、すき。ポエットとしてすき。
 別の言葉の枠組みから、世界の意味を捉えられるようになるというのは、非常に、非常に、大きいことだ。そう思う。



 うん。旅にゆきたし。
 詩でも引用してそんな心を慰めるに試みる。


 旅上

  ふらんすへ行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広を着て
  きままなる旅にいでてみん。
  汽車が山道を行くとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことをおもはむ
  五月の朝のしののめの
  うら若草のもえいづる心まかせに。

             萩原朔太郎っ。


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