1日雑記

2001年03月16日(金) 書くのに時間がかかるなぁ

言い訳にしかならないけれど一応最初に書いておきたくて。
もともと文章などや物語を書くことはおろか
ろくに読むことすらしてこなかった。
無論近年よく言われる、
若者の活字離れといったものと同質だろう。
読むこと、読解することを怠ってきたので、
これから書くことに反論されても困るってこと。

文章、特に物語を書く人は主に二通り
いるんじゃないかと思う。
物語を通じて自分の意見を伝えたいひとと、
純粋に物語として楽しませるひと。
本来もの書きっていうのは前者なんじゃないかと思う。
が、最近は結構後者が多い。
仮に僕が何か書きたいと思ったとき
それは後者だろうし。
物語として楽しませる方法にもいくつかあって、
自分の創作と既存のものを自分なりに書くという方法がある。
前者はともかく後者の場合は、
その既存の世界観を無視することはできない。
どちらも書く側にとっては結構楽しいんじゃないかとは思うが。
…本とドラマなどの違いってなんだろう?
第三者の存在なんじゃないかと思う。
原作が存在して、それをドラマとかにするとき
第三者(つまり傍観人の意見―作者自信の意見が多い―)
の表現をどうするのだろう?
本などにおいて第三者はとても重要です。
物語を構成するにあたって物語りの中に世界が存在するがぎり
その世界には悪役
(敵対するものや意見の違うもの)が存在するでしょう。
一つの世界に一つの思想では物語が面白くない。
というか、物語を書く意味がない。
同時にその世界を現実(あくまで物語りの中での)とするなら
当然主人公にとって理不尽なことなども存在するんではないかと。
現実がそうだから。
例えばいくら理想的な政治論を語る人がいても
実際に行われることは少ない。
それは政治家が人で、私利私欲にはしりたくなるからなんですが。
滅私奉公なんてしたがる人は少ないし
(特に政治家くらいまで上り詰めた人は)
いたとしても民主主義という多数決の世界では
その人は社会的に殺されます。自分自身の利益の妨げとなるから。
一方理想論を語る人は直接政治に関わらないひとがおおいです。
つまり自身は政治家でない人。
ちょっとひどい言い方をすれば無責任な人。
(純粋に責任を負う義務のない人)
でもこういう人たちは必要なんですよ。きっと。
責任を負わないからこそ、理想を語ることができるわけで。
で、物語を書いたとき、それと同様に
理想を語る、目に見えない第三者の存在が欲しくなります。
それは読者に語りかける人なわけですが。
そしてそれは主に作者の思うところでもあるわけです。
作者の(自分の)思想を人に伝えようとして
物語を書くならば第三者の存在ははずせない。
それをどのようにドラマで表現するのだろうか?
そこには当事者達しか存在しないのに。


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