transistasis
DiaryINDEX|past|will
男は男に産まれるのではなく、男に「成る」のだ。 今月の『ニュートン』誌には男と女が如何にして創造されるかを特集していた。 ヒト、いや哺乳類は、胎児の初期段階ではすべて雌。 ところがある時点でアンドロゲンという男性ホルモンの作用により雄が意図的に造られるという。 いわば雄は必要に応じて意図的に造られたモノなのだ。 何のために? 何故? この社会が人類創世の頃より如何に築かれてきたかを振り返ればあえて語るまでもあるまい。 自らの種の自己増殖と維持発展のためには雄という存在が必要だったからだ。 好むと好まざるに関らず雄という存在がそのために造られたのは疑う余地があるまい。 だが、この西暦2001年、少なくともこの國の若年層の雄にとってその雄たる存在理由はもう何処にもない。
この國の若いプライドある雄はこう思う。 「一体俺は何のために産まれてきたのだ?」と。 確かに物的には満たされているかもしれぬ。飢餓も生命の危機もない。 だがヒトはパンだけでは生きられぬ。 なにかをするためにこの世に産まれたはずなのに成すべきものが何もない。 生命を賭けても成し遂げるべき使命感もない。その対象もない。 誰かのために身を削るモノもない。 家庭?仕事?国家? そんなものはもはや幻ではないか? 結婚すら覚束ないのに一体どうやって家庭のために将来のために生きよというのか? 婦女子も学校も企業も国家ももはや雄としての自分の存在を必要としていないではないか? 結婚を望まない婦女子。子供を欲しない婦女子。新たな意欲的革新的人材を望まない企業。 国家のために献身的戦闘的活動を欲する人材を望まない行政府。 これでは何のために産まれてきたか意味がないではないか?
フリーターと呼ばれる男子が増殖している。 その日暮しの展望なき雄たち。 何のために生きているのか解らず、何一つ必要とされない存在。 本来の雄としての役割を与えられないまま無駄に時を刻むしかない哀れな男たち。 発展が止まり、衰退に任せるままのこの國にあって彼等の成すべき事と言えば死に場所を捜す事。 それも無益な死。 かつて男は必然的に死地、死の拠り所が与えられていた。 国家のための誇りある戦場での死、巨大プロジェクト完遂のための企業に身を捧げた職場での死、家庭を守るために身を削った末の死。 全て男として、真っ当な男として誇りある死が用意されていたのだ。 彼等の死は未来への礎だった。 それが雄として生まれし使命であり存在理由だった。
ところが今やそんなものは何処にもない。 男としての死に場所は何処にもないのだ。 あるのはただ反射的な無意味で虚無で何の役にも立たぬ野垂死、犬死の類。 ただだらだらと生き恥を曝し、その日その日を自堕落に過ごし老いていく。 しかしそんな日々に耐えられる雄はいない。 たとえ雄として生きる事を否定したとしてもそれは欺瞞に過ぎない。哺乳類として雄としてこの世に生を受けた以上、その生物学的掟から逃れることは出来ぬ。この魂がこの肉体に宿る限りはね。 結局は40前後でバタバタと自殺するしかない。 そしてその死はすべてが無駄なのだ。 若きフリーターの雄たちはその無駄な死のために無益にただ生き恥を曝しているに過ぎない。
衰退する社会では雄は必要とされない。 極端な話、雌だけで十分成り立っていけるのだ。 つまり、彼等は生まれてきただけ無駄だったのだ。
子供の頃、TVで高校野球を一生懸命応援していた頃があった。 しかしいつしかそれがただ高校生のクラブ活動であると気付いた時、もはやそれに対する熱意は失せていった。 同じように結婚や夫婦生活、子育てもいつか自分達が大人になる時の必須な通過儀礼と信じていた。 しかし、本人が大人になってみるとそれはお伽話に過ぎないことを知るのだ。 家庭ために職場で働く自分。その帰りを待つ妻や子供。休日は妻子のために遊園地へ・・。 そんなものは全てが幻。 メディアが流す典型的な家庭、夫婦生活の有り様など現実に手にする男はもう存在しないのだ。 もはや家庭や子育てすらこの衰退する社会には不要なのだ。 やがてはこの世に生きている事さえ幻と悟る時が来るだろう。
雄として生まれし不幸は犬死をもって成就される。 この國に生まれし若き男達に希望はない。 運命だったと諦めよ。
絶望皇太子
|