きょう1日中体が重たくて、階段の1階分登るにも難儀していたのは、 昨日体を動かしすぎたせいだろう。 混成バンドでやっている「ぐるりよざ」のように、 テンポの変化も多く、スケールの大きい曲をやるときには、 特に練習段階では、いろんな姿勢で、どうしても動きが大げさになる。 腕や上半身だけでなく、足腰も大変疲れる。 本番が近づくにつれて、つまり完成に近づくにつれて、動きは小さくなる。 私は、練習中、あまり説明をしない。 譜面台を叩いてテンポを取る段階から、ほとんど説明抜きで勝手にテンポを変える。 振るときには、たとえ指揮者を見つめていなくても、視界の片隅で感じ取れるようにと、 そう願ってできるだけ動作を大きくする。 ここはこれぐらいゆっくりにしましょうなんて、口で説明したって、 実際のところは伝わらない。 音楽は、哲学的に言うところの〈ことば〉ではあっても、 日常的な意味でのいわゆる「言葉」ではない。 むしろ、「言葉」で表現しえない世界を表現しているのである。 指揮者として言葉で説明しうるものは、その片鱗かきっかけにすぎない。 だから、言葉を最小限にして、とにかく演奏の中で交感することにしている。 そうすると時折、何ともいえない体験があるのである。 たとえば、アラルガンドからフォルテシッシモに入る部分などである。 別に何も指示したわけでないのに、棒の振りに合わせてゆっくりになって行き、 大きくなって行き、いっせいに爆発音に突っ込む。。。 実に感動的な瞬間である。 ハーモニーだとか音色だとか、より高度な部分に問題点を見つけても、 それ以上に、この雑多な集団がひとつの世界に共感しつつある、その驚きなのである。 昨日の集団は、日ごろ別々の環境で活動を続けている生徒の3回目の集まりであり、 市吹の連中はといえば、それぞれに仕事や学生生活に忙殺されている人間の、 週に1度、人によっては2、3週間に1度といったような集まりである。 それがこんなふうに時を共有してしまうことが、ひとつの奇跡のように思われるのである。 それをファシスト的楽しみだと批判する人もあるかも知れないが、 我々素人の指揮者の場合は決してそうではないのである。 現に聞こえてくる音や演奏によって、そのつど反応が変わるからである。 こういう流れで来てしまったか、、、じゃ、こう行こうか、なんて、 状況によって臨機応変に変えてみたりもする。 そんな対話的なおもしろさもある。 疲れるし、ある意味で孤独な闘いでもあるけれど、実に贅沢な楽しさもある。
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