TENSEI塵語

2001年10月01日(月) 指揮の楽しさ

きょう1日中体が重たくて、階段の1階分登るにも難儀していたのは、
昨日体を動かしすぎたせいだろう。
混成バンドでやっている「ぐるりよざ」のように、
テンポの変化も多く、スケールの大きい曲をやるときには、
特に練習段階では、いろんな姿勢で、どうしても動きが大げさになる。
腕や上半身だけでなく、足腰も大変疲れる。
本番が近づくにつれて、つまり完成に近づくにつれて、動きは小さくなる。
私は、練習中、あまり説明をしない。
譜面台を叩いてテンポを取る段階から、ほとんど説明抜きで勝手にテンポを変える。
振るときには、たとえ指揮者を見つめていなくても、視界の片隅で感じ取れるようにと、
そう願ってできるだけ動作を大きくする。
ここはこれぐらいゆっくりにしましょうなんて、口で説明したって、
実際のところは伝わらない。
音楽は、哲学的に言うところの〈ことば〉ではあっても、
日常的な意味でのいわゆる「言葉」ではない。
むしろ、「言葉」で表現しえない世界を表現しているのである。
指揮者として言葉で説明しうるものは、その片鱗かきっかけにすぎない。
だから、言葉を最小限にして、とにかく演奏の中で交感することにしている。
そうすると時折、何ともいえない体験があるのである。
たとえば、アラルガンドからフォルテシッシモに入る部分などである。
別に何も指示したわけでないのに、棒の振りに合わせてゆっくりになって行き、
大きくなって行き、いっせいに爆発音に突っ込む。。。
実に感動的な瞬間である。
ハーモニーだとか音色だとか、より高度な部分に問題点を見つけても、
それ以上に、この雑多な集団がひとつの世界に共感しつつある、その驚きなのである。
昨日の集団は、日ごろ別々の環境で活動を続けている生徒の3回目の集まりであり、
市吹の連中はといえば、それぞれに仕事や学生生活に忙殺されている人間の、
週に1度、人によっては2、3週間に1度といったような集まりである。
それがこんなふうに時を共有してしまうことが、ひとつの奇跡のように思われるのである。
それをファシスト的楽しみだと批判する人もあるかも知れないが、
我々素人の指揮者の場合は決してそうではないのである。
現に聞こえてくる音や演奏によって、そのつど反応が変わるからである。
こういう流れで来てしまったか、、、じゃ、こう行こうか、なんて、
状況によって臨機応変に変えてみたりもする。
そんな対話的なおもしろさもある。
疲れるし、ある意味で孤独な闘いでもあるけれど、実に贅沢な楽しさもある。


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