TENSEI塵語

2002年02月01日(金) 主客未分化、とは?

橋本さんに教えられた、荒木博之「日本語が見えると英語も見える」を
昨日読み終わり、きょうも要所要所を読み返して、ところどころ線を引いたりした。
最近の私の読書としては、こういう読み方は珍しいのである。
久々に、こういう読み方というか、執着をしたくなる本だということである。
それは、英語を含むいわゆるインド・ヨーロッパ系言語と日本語の違いについて、
実に説得力のある用例で説明してくれているからである。
若いころ漠然と感じていたことを、明確に説明してくれているからである。
そういう意味で、この本は実におもしろい語学書なのである。

けれども、そこから文化論に話が及ぶと、ウ〜〜ンと首をかしげたくなるのである。
最も簡単な例だけ挙げると、「好きだよ」と「I love you.」の違いのごとく、
日本語では主語も目的語もない文が可能である。
「私」の代わりに「こっち」、「you」の代わりに「そっち」ということも可能で、
対象との関係よりも、単に位置関係だけの認識で言葉ができていたりする。
そういう用例を踏まえて、彼は、日本語というのは、
主客未分化の精神の中で発せられる〈モノローグ言語〉であると主張する。

確かに、日本語の方は主語や目的語を明示しな(くてもよ)い、これははっきり言える。
また、日本語の発生や発音が、英語のそれに比べて曖昧で低調なのは確かだ。
しかし、主客未分化とか、〈モノローグ〉と言ってしまうのはどうだろうか。
これは彼が印欧語系の特徴とする、主格区別、〈ダイアローグ言語〉と対比したい余りの
過度な定義、行き過ぎた規定のように思われてならないのである。
余談だが、英語は〈ダイアローグ言語〉かもしれないが、そう言うなら、
ドイツ語は〈演説言語〉、フランス語は〈呟き言語〉、スペイン語は〈論争言語〉
などと言ってもいいかもしれない。

日本語の特徴は、規則が非常に希薄な点にある。より自由なのである。
語順などというものもあってなきがごとしである。
状況と一体になって発せられるので、状況から聞き手にもわかるような要素は
省いてしまってもかまわない、という習慣を維持してきたのである。
「好きだよ」と言っても、「オレ」と「お前」が未分化なわけではない。
言わなくても明らかなことは言わないのが日本語らしさである。
それを決めるのは状況であって、「好きだよ」がふさわしい状況もあれば、
「オレ、お前のこと好きだよ」とわざわざ明示した方がふさわしい状況もある。
また、「好きだよ、お前が」と語順をひっくり返した方がふさわしい状況もある。
こういう場合にも、助詞の使い方など、実にいい加減なのも日本語の特徴である。
印欧語系も状況の中で語られることには変わりないけれど、より規則的である。

はっきりと断定できるのはここまでである。
こういう違いが出てきた遠因として、「農耕民族と遊牧民族」のような分析を
するのもいいだろうけれど(昔からかなり説得力のあるものである)、
あまり拘泥しすぎて、規定しすぎないでほしいものである。
比較文化論者の悪いクセは、対比を強調しすぎて、下手をすると
何でもかんでもその概念規定の枠に押し込めてしまうところにある。

このように、大きな疑問点もあるけれど、日本語というものを考える上で
この本がもたらしてくれる成果はたいへん多い。                    


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