昨日書きたかったけれど眠くて書かなかった分は昨日の分につけ足しておいた。 きょうのランチタイムに橋本さんと話していて気づいたことを加えておこう。
古語の「る」「らる」、口語の「れる」「られる」には、 自発・受身・可能・尊敬の意味がある。 この用法についての荒木さんの指摘はとてもおもしろいのである。 特に、可能の意味については「自発可能」というおもしろい論で、 なるほどと思わされる。 しかし、「私は父に死なれた」「雨に降られた」のような言い方の場合、 この受動態の行為者は誰か、という分析になると、もうこの人についていけなくなる。
「この場合はもちろん〈私〉と〈父〉、〈私〉と〈雨〉とは 対立的に存在する何かではなく、 あるいは〈働きかけるもの〉と〈働きかけられるもの〉という相互関係でもなく、 〈天〉において統一されるべき、主客を越えた何かであると認識されているのである」
この気持ちはわからないでもない。 「父が死んだ」「雨が降った」と言うよりは、 「父に死なれた」「雨に降られた」と言った方が運命的な情緒を帯びる。 その代わり、この言い方は〈我が身の〉さだめということを、 つまり、自分の存在をより強調するので、決して主客未分の表れではないのである。
こういう、「受動態ならぬ受動態的表現」は、日本語の曖昧さから来ているのである。 「私は父に叱られた」「強盗に金を盗られた」という場合でも、 この「に」に「によって」などという意味を意識していない、 そういう習慣的な使い方から生じた、悪く言えば誤用である。 また、日本語は、自動詞・他動詞の区別もそれほど厳密でない。 また、「雨が降る」は印欧語では1語だろうけど、日本語では3語である。 こういう事情から生じた誤用だが、なかなかいい表現として認められてしまうのである。
それにしても、こうしていろいろ考えさせてくれる本はありがたい。 もう少し考えたいが、大急ぎで市吹に行かなければならない。
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