考えれば考えるほど不思議なもののひとつが、言葉というものである。 誰が言葉というものを発し始め、どうやってそれが複数の人々の共用となったのだろうか。 いったん生まれてしまえば、そこから変化・発展するのは不思議ではない。 しかし、0から何かが生まれるというのは、無限大分ほどの飛躍になる。 算数では「5−4」も「2−1」も「1−0」も答は「1」だけれど、 創造・誕生・発展、、、といった見地からすると、1と0の差は「莫大」である。 なぜ日本人の先祖は、木を「き」と呼び、水を「みづ」と呼び始めたのだろうか。 なぜかわいらしいものを見て「うつくし」と嘆じるようになったのだろう。 この不思議さは、外国語についても同じである。
物の始まりというのは実に不思議である。 生命の始まり、生物の始まりについては説明可能なようだが、 言葉の始まりと同様に不思議でしょうがないのは、時間・空間の始まりである。 時間・空間の始まりと終わりに思いを馳せると、発狂しそうなほどに不思議である。 言葉の始まりというものは、それらに比べるとそれほど不思議ではない。 言語のない状態というものは決して想像できないことではないからである。 時間・空間のない状態というものを私は想像することができない。 想像力が乏しすぎるのかもしれない。
言語のない状態は想像できないものではない、と言っても、 言語のない人間関係は何とか想像し得ても、言語のない心の活動は想像しがたい。 我々の心の中では、様々なイメージとともに様々な言葉が錯綜しているではないか。 言語のない心の活動はどういうものか、という疑問は、 人間以外の生物たちの行動を観察しているときにいつも生じる難問なのである。 きっと彼らは単なる刺激−反応行為をしているだけで、精神活動などはない、 と割り切ってみても、なかなか釈然としないものである。
我々は言葉に恵まれた生活にどっぷり浸かっているので、何かと言葉を頼りにする。 物の認識に物の名前を知ることが重要な要素になっている。 どれだけ頻繁に目にしていても、「これは○○だ」「この人は○○さんだ」と 言い得るまではどことなくその存在はぼんやりしていて、 そう言い得てようやくその存在は我々と親しい関係に入るのである。 心の中のもやもやも、言葉にならぬうちは落ち着かず、時にはイライラさせる。 また反対に、心の中でははっきりとある考えがまとまっているつもりでも、 実際に文章化してみると、まったく不完全だったことを思い知らされることもある。 そうかと思うと、考えていた以上の物が文章化されたものに表れ出ることもある。 それというのも、言葉というものが単なる記号にとどまらず、 使いようによって様々な意味・イメージを伴うからである。
言葉が具体的な映像に優ることがある、、、これも考えてみれば不思議である。 分解してみれば、文字の羅列、音の羅列に過ぎない、そんなものが、 意味を持った統合体として、我々に豊かなイメージをもたらす。 こんなことを思って、ふと今思い浮かんだ文章は、遠藤周作の「沈黙」である。
「黎明のほのかな光。光はむき出しになった司祭の鶏のような首と 鎖骨の浮いた肩にさした。司祭は両手で踏み絵をもちあげ、顔に近づけた。 人々の多くの足に踏まれたその顔に自分の顔を押しあてたかった。 踏み絵の中のあの人は多くの人間に踏まれたために摩滅し、 凹んだまま司祭を悲しげな眼差しで見つめている。 その目からはまさにひとしずく涙がこぼれそうだった」
「司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。 自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと 信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。 その時、踏むがいい、と銅板のあの人は司祭にむかって言った。 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、 お前たちの痛さを分かつため、十字架を背負ったのだ」
このイエスの姿を映像化することは決してできないだろう。 「レ・ミゼラブル」のファンティーヌの悲惨な姿だって、 映画化された映像で見るよりも、小説の方が生々しく伝わってくる。 谷崎の「刺青」がもたらしてくれる映像も、言葉の魔術である。
・・・しかし、この話題はもう別のテーマで書いた方がよさそうだ。
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