「春の世の夢の浮き橋とだえして峰にわかるる横雲の空」に歌われているのは、 夢から覚めたごく私的な心の中のできごとと、その時に見た空の光景である。 それがどうなんだということは何も書かれていない。 けれどもそこから漂ってくるのは、何となく艶っぽい、しかし寂しげな雰囲気である。 夢の中ではおそらく恋人とともにいたのだろうし、夢から覚めて見えた空は、 未明か薄明のあたりの、きぬぎぬの別れの朝に眺める光景でもあるのだろう。 心に浮かぶ山と雲を配した一枚の幻想的な絵に、こんな情緒がいつも伴っている。
俊成女の歌にこんなのがある。 「橘のにほふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする」 これはもう、すぐに古今集のこの歌を連想させる。 「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」 こちらの古今集のは、橘の香でかつての恋人を懐かしんだのである。 こういうことは橘の香でなくても、どんな香でもいい、また、何を見るのでもいい、 あるものから懐かしい人を偲ぶということはよくあることなので、普遍的に共感される。 「袖の橘の香」としたことで、甘い抱擁の思い出がほろ苦く重なってくるわけである。 俊成女の歌は、その歌の世界をそのまま持ち込みながら、 「うたた寝の夢」の世界に入り込んでより奥行きのある、より儚い情緒を出している。
式子内親王にも似たような歌があって、 「かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘」 若かったころを懐古する心情の深さと、橘の香に包まれるように寝る空間的な広がりを 実にほんわかとイメージさせてくれるではないか。
万葉集にも古今集にも好きな歌はいくつかあるのだけれど、 奥行きの深さや、歌に漂う空間性など、新古今集の世界により魅惑を感じることが多い。 この傾向は俳句を鑑賞するときにも通じるのだが、 もちろん基準を設けて判定したり決めつけているわけではない。 どんな手法をとっていても、いいものはいいし、つまらないものはつまらない。
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