TENSEI塵語

2002年05月17日(金) 一昨日の続き

「春の世の夢の浮き橋とだえして峰にわかるる横雲の空」に歌われているのは、
夢から覚めたごく私的な心の中のできごとと、その時に見た空の光景である。
それがどうなんだということは何も書かれていない。
けれどもそこから漂ってくるのは、何となく艶っぽい、しかし寂しげな雰囲気である。
夢の中ではおそらく恋人とともにいたのだろうし、夢から覚めて見えた空は、
未明か薄明のあたりの、きぬぎぬの別れの朝に眺める光景でもあるのだろう。
心に浮かぶ山と雲を配した一枚の幻想的な絵に、こんな情緒がいつも伴っている。

俊成女の歌にこんなのがある。
「橘のにほふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする」
これはもう、すぐに古今集のこの歌を連想させる。
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」
こちらの古今集のは、橘の香でかつての恋人を懐かしんだのである。
こういうことは橘の香でなくても、どんな香でもいい、また、何を見るのでもいい、
あるものから懐かしい人を偲ぶということはよくあることなので、普遍的に共感される。
「袖の橘の香」としたことで、甘い抱擁の思い出がほろ苦く重なってくるわけである。
俊成女の歌は、その歌の世界をそのまま持ち込みながら、
「うたた寝の夢」の世界に入り込んでより奥行きのある、より儚い情緒を出している。

式子内親王にも似たような歌があって、
「かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘」
若かったころを懐古する心情の深さと、橘の香に包まれるように寝る空間的な広がりを
実にほんわかとイメージさせてくれるではないか。

万葉集にも古今集にも好きな歌はいくつかあるのだけれど、
奥行きの深さや、歌に漂う空間性など、新古今集の世界により魅惑を感じることが多い。
この傾向は俳句を鑑賞するときにも通じるのだが、
もちろん基準を設けて判定したり決めつけているわけではない。
どんな手法をとっていても、いいものはいいし、つまらないものはつまらない。


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