| 2002年07月01日(月) |
「晩年」の思い出(2) |
6月25日の続きである。
高校時代に「晩年」に惹かれたのは、たぶん、苦悩の結晶のような雰囲気に 惹かれていたのだろう。 たとえば、その作品群の中に「逆行」というのがあって、その最初の「蝶々」の章。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 老人ではなかった。25歳を越しただけであった。けれどもやはり老人であった。 ふつうの人の1年1年を、この老人はたっぷり3倍3倍にして暮らしたのである。 2度、自殺をし損なった。そのうちの1度は情死であった。 3度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった。 ついに1篇も売れなかったけれど、百篇に余る小説を書いた。 しかし、それはいずれもこの老人の本気でした仕業ではなかった。いわば道草であった。 いまだにこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、 そのこけた頬をあからめさせるのは、酔いどれることと、 ちがった女を眺めながらあくなき空想をめぐらすことと、2つであった。 いや、その2つの思い出である。 ひしがれた胸、こけた頬、それは嘘ではなかった。老人はこの日に死んだのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
若いころは、自分も、、、というか、自分こそは大きな苦悩を抱えていると思いがちで、 空回りするようにあくせく悩みながら、疲れ果てていたりする。 後になって振り返ってみると、ばかばかしいようなことで苦悩ぶっていたわけだけれど、 その時の自分自身にとってみれば、大まじめで悩んでいたりする。 (それはそれで良しとしよう。何であれ、人生を見つめる絶好の機会なんだから) 老いてから振り返ってみると、あの大いなる苦悩めいたものも、 多分に幻想だったとしか思われなくなるのだが、その時の当の本人にとっては、 それこそが最も身近な現実であり、生死の分かれ目に立ったりもする。 だから、「晩年」という題に漂う遺書めいた雰囲気に知らず知らず共感したのだろう。
それにしても、今、老齢に近づきつつある目で若き日を冷ややかに思い出しながらも、 「蝶々」の書き出しの、太宰の緊密な筆致には感心させられる。(つづく)
|