| 2002年11月11日(月) |
なんか違うような。。。 |
昨日風呂上がりにたまたまテレビをつけたら、学力問題を扱ったNHKスペシャル。 途中からなのでなかなかわかりにくかったが、某高校での「夢探し」の取り組みらしい。 進路指導の目玉になっているようだ。 夢を見つけられないために学習意欲が低下しているから、 夢を見つけることによって学習意欲を高めようという趣旨なのだろうか?
確かに目標はないよりあった方がいいだろうけど、 目標が定まりさえすれば学習意欲がかき立てられるということは、稀にしかない。 将来何になりたいかというハイレベルな目標でなくても、 ○○大学に行きたい、○○高校に行きたいと強く望んでいても、 それが学習意欲につながるとは限らない。 志望校の学校の写真を壁に貼っておいて、それが励みになりうるのは、 勉強の波に乗れているときで、勉強できない限りそれは単なるポスターにすぎない。
学習意欲は「わかる」「楽しい」「楽しみ」によってかき立てられるのだろう。 勉強することによってわかる、知らなかったことを知るのは楽しい、 そういう味をしめることによって意欲を増していくのである。 そうして今度は、今はよくわからないけど、 だんだんわかるようになるだろうという楽しみ、期待がそれを増幅する。 そういう味がわかるようになるまで、イヤだろうがなんだろうが、 詰め込みだろうが押しつけだろうが、勉強を体験し続けるしかないのだ。 残念ながら、終始受動的な者は、この楽しさを知ることがない。 これはもう、こういう構造なのだから、いかんともし難いのである。
将来何になりたいか、どういう職業に就きたいか、 それを考えるのは無意味だなどと言うつもりはない。 けれども、最近はやけにこういう意味での進路指導が過熱している。 数年前から「あり方、生き方」なんて言葉が指導要領などに登場し、 最初はとうとうこういう倫理学的な問いかけが盛り込まれたかと喜んだのに、 実はそれは進路指導の徹底というところを狙っているらしくてがっかりした。 そんなもん、中・高時代に決められますかいな、と言いたいところである。 本当に決めて邁進できる者は稀である。 ちょっと考えてみるくらいのことはもちろんしてもいい。 けれども、それこそが学習意欲に結びつくみたいな発想は、幻想に過ぎないのである。 あまりこんなことに学校があくせくする必要はないように思われる。
昨日の番組で、ある生徒が、いろいろ体験した末にこんな抱負を語っていた。 まだ将来の夢は固まってはいないけれども、 「何になりたいかよりは、何を知りたいか、それを考えていきたい」 これだ。これこれを知りたい、これこれをわかりたい、これこれを学びたい、 そういうものを見つけることが大切なのだ。 また、そういう刺激を与えることが我々の仕事なのだ。
どうも、どんどん世の中が実利を求めて世知辛くなってるなー、と これは長年のもどかしいような思いである。
これとはまったく別の話だが、きょう運営委員会に出てきた話である。 教頭2人と学年主任3人と生徒指導主任と教務主任で構成されている委員会から 授業の秩序を正す(グチャグチャな授業がある。私語に悩まされることも多い)ための 方策として、というか、そのための最初の手始めとして出されたのが、 チャイムと同時に教室に入るキャンペーンなのだという。 もうアホらしくて話にならん、という印象で受け取らざるを得ない。 確かに教室に入るのが遅い生徒はいるし、席に着くのが遅い生徒はいるし、 時間通りに動け、っていうのは正しいことだけど、 授業を始めても生徒の方は休み時間と大差なし、ではまったく意味がないではないか。 これは付帯事項としてつけ加えるか、または、 実質的な授業開始から終わりまでが正常化されてから徹底した方がいいだろう。 この学校運営の核に相当する面々が集まって、授業中どういう点に留意するべきかとか、 こういう場合にはこういう指導をする、ということを煮詰めるのならわかるけれど、 あまりに瑣末で形式的なことを大々的に押し出すもんだから、 ばかばかしくて文句言い始めたのだが、会議の時間もほとんど残ってないし、 私自身も突然の提案にあって、考えがうまくまとまらない。 問題のポイントがまったく外れているぞ、ということは明らかなのに。。。
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