TENSEI塵語

2003年01月05日(日) 大学の授業採点

今朝の新聞の一面トップは、「一橋大学 今年度から授業を学生採点 教官名も公表」。
そうするねらいについて、教育研究機構長だという藤田氏の言葉が載っている。
「教員を刺激して、授業を改善し、教育水準を上げたい。
 他大学の例を見ても、学生は授業を評価できる。
 教官や科目名をはっきり出すのが、学生からの批判にきちんと応える道だ」
驚いたことに、4年制大学の4分の3は、教官名など公表しないにしても、
こうした学生による授業評価を実施しているという。
昨日か一昨日の朝刊には、授業マニュアルを作った大学の話が載っていた。

そうしたことは、悪いことと言ってはいけないのだろう。
学生は講義を受けに大学に通う、その講義を充実させるのは大切なことである。
けれども、こうした話を聞くたびに、どこもかしこもコセコセした社会になるなぁ、と
うんざりしてくるのである。
私としては、小・中・高の教員と違って、大学の教官というものは、
まず第一に、研究者集団だと思っている。
教えるということに対して、そうコセコセと思い悩んで欲しくないものである。
遠い過去の研究成果にしがみついているだけで、ろくに研究もしない上に、
講義に対してあまりにもいい加減な人は抹殺してもらってもいいのだけれど、
研究第一にして、鷹揚に構えていて欲しいものである。
授業が難しくてわからなくても、大学まで行くような者は、
自分でもそれがわかるよう努めてほしいものである。

私の大学生活を振り返るに、大学の授業なんてものは、きっかけでよかった。
自分の講義ノートをゆっくり読み上げて書き取らせるだけの愚かな講義もあれば、
家庭内の雑事を勝手にしゃべっているだけで、自分の著書のここを読んで下さい、
で終わるだけの、何とも手応えのない、妙な授業もあれば、
淡々とあらぬ方向を見つめて勝手に説明しているだけの授業もあった。
(しかし、この3つ目の教授は、実にわかりやすい説明で、私にとって影響大だった)
そうかと思うと、古代哲学史やプラトンのゼミの担当だったペレス教授などは、
受けているこちらが疲れてしまうほど、時間を惜しまず熱弁してくれた。
けれども、どんな授業であれ、きっかけであり、入り口に過ぎないのである。
そこから自分で発展させることこそが、大学生活なのである。

「よい評価を得ようと、学生に迎合する授業が増える恐れがある」と、
ある日大の教授のコメントが載っていたが、それも確かに恐れるところである。
それとともに、大学の授業の高校化、、、というか、
高校の授業がすでに小・中化してしまって、至れり尽くせりの様相を帯びているけれど、
大学さえもそんな道をたどり、学生が、授業に頼りすぎるようになる、
授業さえ受けていれば大学生だ、などという、バカげた風潮が、
トップレベルの集まるような難関校でもはびこってしまいはせぬかと不安である。
それはむしろ、教育水準の低下につながるのである。
また、こんな妙な縛りや負担を設けることによって、
いい研究のきっかけを見失わせてしまうのではないか、という恐れもある。
研究というのは、長年に渡る地道な積み重ねでもあるけれど、
一瞬のひらめきをきちっととらえて発展させるか、見逃すかというのも大きな問題だからだ。

まぁ、そんなことするなーっ、と声高には叫べないけれど、もしするならば、
それを機に、学生の単位認定・卒業認定をもっと厳しくするという、
肝心なことをちゃんとしてほしいものである。


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