叔父の葬式に行った。 親族席の末席に連なって、僧侶を真横に、遺影を間近に眺めながら参列した。 改築されてきれいになった斎場の一室で、終始静粛に告別式が進行した。 静粛に、、というのは、葬式もこうなると行儀いいものだな、と思ったのである。 小学生の時、父の田舎の祖父の葬式に行ったときには、 座敷に入れないで、縁側や庭にいる多くの人たちが、読経の間でも、 談笑したりしているので、子ども心に、こんなんでいいんかなー、と思ったものである。 後で母にそう話したら、あの世に楽しく送ってやる送り方もあるのだ、 というようなことを答えていた。
それにしても、もともと形式張った儀式が大嫌いなのだが、 葬儀もこうして商業的に徹底されると、ますます形式的になってくる。 葬儀屋としては、いろいろとしきたりの違いで途方に暮れる参会者のために、 困ることのないよう、親切なガイドをしているのだろうけれど、 読経の間にマイクで焼香順の指名をしたり、喪主にさまざまな演出的指示をしたり、 結婚式で凝りたがるのはわかるけれど、葬儀はもっと簡素でいいのではないかと。。。
棺を開けて故人との最後のお別れの段になり、その顔を見つめていると、 いつも不思議な思いに囚われる。 その、余りに表情がないのに戸惑うのである。 後になってつらつら思うに、生きてる人間で表情がないように見えるような人でも、 無表情という表情をしっかり持って生きているんだな、と思ってしまう。 けれども、この棺の中の顔は、何の表情も感じられないのである。 人形やお面だって、もっと表情豊かなような気がするほどである。 亡き人、とは、そこに確かに存在していながら無化している存在と言えるのかもしれない。 彼が今いるところと、すぐそばの我々との間に大きな隔たり、 つまり別世界のような隔絶感があるのだ。 この感覚が、この世とあの世、現世と来世という観念を生み出したに違いない。
そんなことを思いながら、わりと冷ややかに献花をしたりして見つめていたのだが、 叔母がその究極の蝋細工のごとき叔父の額を愛おしむように撫でて、嗚咽したとき、 さすがに私も目を潤ませずにはいられなかった。 心の中では身近に生きているのに、目の前のこの人はあまりにも遠い、、、 死別の悲哀の本質は、そういうところにあるのではないかと思った。 心の中では生きているのに、現実のどこを見ても、もういない。。。
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