共同生活4


 過去 : 未来 : メール 2003年05月17日(土)


何もかも不安から始まった共同生活は順調に過ぎていった。


近所の5歳の女の子が朝になると



"Japanese girl! Japanese girl!"


と叫んでドアを叩いておこしてくれたり(大迷惑)、アボリジニのハーフの子が誕生日パーティに誘ってくれたりと私をすっかりとみんなは包んでくれた。


私もいつのまにか彼らの話す英語に慣れて、自分までもスラングがでるようになっていた。



私はそのころ今でもあるのかわからないけど



"AUSSIE DOWN UNDER"というお土産屋で働いていた。ジョンというオーストラリア人が経営するお店だった。


その後"PM-TOURS"という所でドライバー兼ガイドの仕事をしていた。
日本人の男性が経営されてる所だった。タカ・・・だったっけかな。



私が日本人相手に働く理由はもちろんお金。
一年間いようと思っていたので働いていないとお金がなくなる。
でもね、こういう日本人が一杯いるからオーストラリアには失業者が一杯いるんだよって言われていた・・・。


ブライアンもマークもうちの周りにはたくさんの失業者がいた。





だんだんお金に執着する生活に嫌気がさしてきた私はケアンズを出ようかと考え始めていた。ちょうどここの部屋の契約も切れるところでブライアンも私も出て行かなければならなかった。だからちょうどいいので都会に行って日本語教員養成講座に行こうと思った。



そしてあと5日でココの生活もブライアンにもさようならだなって思っていた矢先に、船乗りの仕事を始めたニックを船場に送っていったブライアンが意気揚揚とそして浮かれてと帰ってきた。



「やった〜。仕事がみつかったぜい」




「え?」




「これから3週間ニックと一緒に船に乗る!準備しなくちゃ」
「引越しはマークが全部やるから」
「リホにはもう会えないよ〜」
"Never see you!"






( ̄□ ̄;)!!






私がココを先に去るつもりでいたのでいきなりのお別れは驚きのなにものでもなかった。





私は人目もはばからず号泣した。

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