もっと抱きしめてあげて - 2001年06月10日(日) 日本で起こった悲惨な事件のことを知った。 詳しいことがよくわからないから、誤解してるかもしれないけど、わたしは心の病ということがやっぱり気になって、しかたがない。 「精神障害者の犯罪」なんてひとことで片づけちゃっていい問題じゃない。日本の、心の病に対する理解にも対処にも、ずっとやるせない感情を抱いてきた。精神科医やそういった関連の団体の人たちが、研修とか視察と名付けてこっちの病院に来る。「いいですねえ、こういう環境があって。日本はだめだなあ」と言う。そう言って日本に帰って行くけど、たぶんそれだけ。何か変えようとしてるんだろうか。変えることなんて出来ないんだろうな、きっと。新しいことを受けれるのがものすごく苦手で、何かを変えることが難しい社会だから。ほんとはそんなに難しいことじゃないはずなのに。そしていつも、何かが起こってから大騒ぎする。大騒ぎしたあと、忘れてしまう。同じことの繰り返し。 確かにここにだって、まだまだ問題はあるし、何もかもが優れてるとは言えない。精神分析医とかカウンセラーが氾濫してて、それはそれで問題だとも言われてる。だけど、例えば、どんな病院にだって精神科があって、ほかの病気の人たちと同じように診察を受け、治療を受け、入院もする。精神科専門の病院もあるけど、決して患者さんを隔離するところではない。ちゃんと社会復帰出来るよう、リハビリもする。外に出れば、サポートしてくれるところがたくさんあって、同じ苦しみを抱えてる人と出会えるし、そこでも医療や心理学の専門家が助けてくれる。心の病なんて誰にでも持つ可能性があるんだからと、まわりの人の理解もある。 それは日本の社会の問題? 政治の問題? 医療制度の問題? もっと簡単なところにも、原因はあると思う。予防の余地があると思う。 抱きしめる習慣がいいんだって思ったりもする。このあいだもそうだった。久しぶりにあの病院に出かけたとき。「どうしてたの?」「インターン終了したんだ、おめでとう」。そういってみんながひとりずつ抱きしめてくれる。それだけで、ものすごく気持ちよくなる。胸に溜まってた悲しみが薄らいでいく。ずっとナンにもしてなくて、次の仕事見つける気力がなくて焦ってる気持ちをポロっとこぼしたら、「いいじゃない。ぼーっとしてることも必要よ」って、そんなことなんでもないって顔して笑ってくれる。そして帰るときには、「頑張って」って、また抱きしめてほっぺたにキスしてくれる。 彼女が死んだときも、夫とのことで苦しいときも、抱きしめてくれる習慣に救われた。「腫れ物に触るな」みたいなことはしない。様子が変だなと思ったら、「何かあったの? 話してよ」って言ってくれる。ちゃんと聞き出してくれる。そしてちゃんと聞いてくれる。「そっとしといてあげよう」なんて思わないで、助けてくれる。理解してくれようとする。一緒に考えてくれる。そして抱きしめてくれる。 習慣って言ってしまえばそれまでだけど、形だけの習慣じゃない。その習慣にどんなに救われて来たことか。 いつだったか、友だちのぼうやに前から欲しがってたベースボールハットをプレゼントしたら、ありがとうの代わりに「大好き」って抱きついてきた。どんなお行儀のいいありがとうよりも、嬉しかった。ぼうやはぎゅうっと抱きついて、離れなかった。わたしもいつまでも抱きしめてあげた。友だちは離婚したばかりで、大きな傷を背負ってるぼうやだった。 触れ合うって大事なこと。愛情を表すって大事なこと。愛情を触れ合って表現するって大事なこと。恋人にだけじゃなくて、友だちにも家族にもそうやって惜しみなく愛情を表して、抱きしめ合う習慣が好きだ。みんな優しさが欲しくて、淋しいこころを癒されたいのは同じ。誰かに思われていたい。それを確認できる習慣。自分ではどうしようもない不安や恐怖を取り除いてくれる習慣。 日本にも、もっとこんな習慣が生まれて欲しいな。 事件に遭遇して心に傷を受けたこどもたちを、いっぱいいっぱい抱きしめてあげてほしい。 差別をまた恐れてしまっている心の病に苦しんでる人たちを、うんとうんと抱きしめてあげてほしい。 誰かが「死にたい」って言ったら、放っておかないで、逃げないで、避けないで、目をそむけないで、抱きしめてあげてほしい。死にたい気持ちがどんどんエスカレートしていく前に。誰でもそんな気持ちになったことはあるはずじゃない? -
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