たくさんを、ぎゅうっと、 - 2002年03月01日(金) 歳取ってくと、・・・じゃなくて 大人になると、・・・じゃなくて 長いこと生きると、・・・じゃなくて たくさん生きると、そう、たくさん生きると、 自分のなかの何かにちょっとした自信を見つけられると同時に 何かものすごく具体的な不安にかられるようになる。 ような気がする。 それは、「なんとなく怖い」とか「ふと怖くなる」とか そういう種類の不安じゃなくて、 明らかに理由があって、 それも理路整然とした理屈と 経験というデータを基にしたケアフルな分析のうえに成り立った科学的な不安。 のような気がする。 それからもっとたくさん生きると、っていうより たくさんを、生きると、 そういう不安が全て消えて、 自分に対する、根拠があるようであまり根拠のないどうでもいい自信も消えて、 まるで非現実的でもっと宇宙的なことを確信を持って信じられるようになる。 たとえば「絶対」とか「永遠」とか そういう言葉で置き換えられるような。 そしてそれをそんなふうに信じられるときには、 それはもう非現実ではなく、確かに絶対であって永遠なんだと思う。 たくさんでも「たくさんを」でもなく、 ぎゅうっと生きている人は とてつもない勇気を授かる。 ような気がする。 それは、捨てる勇気とか飛び込む勇気とか 乗り越える勇気とかじゃなくて、 わけのわからない不安も、わけのわかる不安も、抱きかかえたままで、 それらをひとつずつ丁寧に消化しようとする底知れぬ強さが備わった勇気。 のような気がする。 だからね、 わたしの愛は絶対で、 そう信じてるからあの人の愛も絶対で、 そう言ってくれたあの人のこころも信じてるからそれは永遠で、 あの人の勇気が全てを支えてくれるとわたしは信じてて、 そしてそれも絶対。 行き着くところがなくても 会うことがなくても 悲しみが苦しみにオマケみたいにくっついてても、 本当にそうなんだからしょうがない。 絶対が事実なんだからしょうがない。 オメデタイ? でもね、 貴女にももうわかったでしょう? もう不安になる必要はないんだよ。 怖がると幸せが逃げ腰になるんだよ。 もう、絶対も永遠も信じられるでしょう? 貴女は今、たくさんを生きてる人。 彼はぎゅうっと生きられる人。 -
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