結婚 withdrawal syndrome - 2002年03月18日(月) ゆうべ母から電話があった。 妹の夫の死を知らせて来てから初めての電話だった。 いくつもの精神障害と CF という不治の病を、もう何年も抱え続けてる妹は、やっぱりあれからひとりでは生活出来ず、母が妹の近くに引っ越すという。一緒に暮らさないのは、妹に少しでも精神的に自立する機会を与えてやることと、親子でも距離を置いたほうがいいという、母の判断からだった。 妹の病気は日本では症例が殆ど皆無なために、原因不明の難病としてしか扱われず、ちゃんとした診断名も与えられず、全く適切とは思えない治療を続けられている。CF というのは、症状から考えてわたしが勝手にそう思ってるだけだけど、あらゆる症状と検査数値がその病気の診断基準と見事に一致するから、多分間違いない。こっちで診てもらえば簡単に分かるのだけど、飛行機にさえ乗れない体だからそういうわけにもいかない。 日本の医療を嘆いてもしょうがないけど、なんでこんなに違うのか歯痒くて仕方ない。 精神科に入院歴があるとわかったとたんにあからさまに治療を拒否した病院は、ひとつやふたつではないらしい。やっと受け入れてくれた、妹の言う「いい病院」でさえ、これだ。 病気ごと支えてくれてた夫と結婚が突然消えて失くなる。わたしはアルコール離脱症候群を思い出す。体がぶるぶる震えているのに、大丈夫と言い張る患者さんたち。 母は妹のことと引っ越しのことを話したあと、「もうそっちには行かないの?」と、わたしに別れた夫のことを聞いた。母には離婚のことを話してない。言いたくなかった。 土曜日に、別れた夫から電話があったばかりだった。 国家試験にパスしたことを報告しようと電話したけど繋がらなくて、「おめでとうってナマの声で聞きたかったな」ってメールを送っていたから。努めて明るく話したけど、足の先から眉間のとこまで痺れが走って、じんじん切なかった。「誕生日もおめでとう。遅くなったけど」。そう言った夫の声も途切れてた。 「どうしてるの?」って聞かれて仕事のことや弁護士さんのことやチビたちのことを話して、4月にボニーの結婚式のためにあの街に行くことを言ったら突然胸が苦しくなった。 一緒に暮らしたあの街。 あの娘がまだいて、3人で幸せだったあの頃。 こころが通じ合わなくなっても、一生懸命修復しようとしてた日々。 ビーチと緑に囲まれたあの都会が、美しく哀しく目の前に広がる。 わたしはどんな気持ちであのなつかしい空港に降り立つんだろう。 離婚は簡単なことじゃない。 疑問を持ったまま結婚を続けることの辛さより、離婚の辛さの方が何十倍も大きい。 たとえ望んでいた離婚でも。どんな形の離婚であっても。 誰も簡単になんか、離婚したりしない。 簡単にしたように見えたとしても。 離婚したことを何ごともなかったかのように平然と言う人がいたとしても。 「おめでとう、とか、よかったな、とかは、今はまだ言わないでね」。そう書いて二度目の離婚を報告した昔の恋人は、それからメールの返事をくれない。離婚したことのある彼にはその気持ちがわかるんだとも思うし、わからないんだとも思う。 離婚の辛さは人それぞれで、経験があっても人の辛さの程度まではわからない気がする。60を過ぎてから離婚した母の胸の内を、わたしには想像がつかないほどのものなんだということしかわからないように。 母のことだから、感づいただろうと思う。 それでも言いたくなかった。 どんなふうに受け取られても、どんなに優しい言葉をかけられても、何か言われること自体が哀しくなると分かっているから。 それに、わたしが別れた夫に抱いてるある意味の愛情を、母にはわかるようで多分わからないと思うから。もしも母が父に対して、同じような愛情を抱き続けてるとしても。 土曜日はあんなにあったかかったのに、昨日は木枯らしが吹きつけた。 今朝は雪が積もってた。 スクレイパーで車のウィンドシールドに凍り付いた雪をガリガリ落としながら、 終わり切らない冬が悲しくなった。 お気に入りだったシガレットケースを失くしたみたいなのに、まだ諦められないでいる。 留守電にあの人からのメッセージが入ってたけど、かけ直さなかった。 こんな日はきっと、話さないほうがいい。 -
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