恋人じゃなくて - 2002年05月19日(日) 雨の音が聞こえて、目が覚めた。 窓辺に行って雨を確かめようとしたら、雨の音だと思ったのは窓の下のスプリンクラーだった。雨も降ってた。スプリンクラーの音にかき消されて、音のない雨が降ってた。 もうお昼をとっくに過ぎてた。 電話が鳴った。あの人は真夜中のはず。 あの人からとは思わなかったのと、声がすごく低かったのとで、よくわからなかった。日本語で「もしもし」って言ったようには思った。黙ってたらもう一度「もしもし」が聞こえた。はっきりあの人の声だった。でもやっぱり低いくぐもった声で、いつもと違った。「どうしたの?」って聞いたら、歯が痛いっていう。少し前から親不知が大変なことになってるって聞いてた。親不知が歯茎の中で横向きに生えてて隣りの歯を圧迫してて。今日歯医者に行ったら親不知抜くより先に隣りの歯を削らなきゃいけなくて、それが痛くて痛くて、口も思いっきり腫れてるらしい。 「痛くて眠れない・・・」 子どもみたいに言う。 「苦しくて眠れないときはきみの声聞いていたい」。いつかそう言ってたっけ。 痛くてあんまり喋られないって言うから、いいよ、喋んなくて、ってわたしがひとりで話してあの人が返事だけして、少しして切った。 切ったあと、いつかのその言葉が、深呼吸して息を止めたときみたいに胸にいっぱいいっぱいになって、苦しくなった。甘くて苦しかった。わたしはいつもそうだ。あとにならなきゃあの人の言葉の重みがちゃんとわからない。あとになるほどわかってくる。 突然あの日のことを思い出した。9月11日。やっと繋がったわたしからの電話に、「よかったー」って泣き出しそうだった声。「心配で一睡も出来なかった。いないのわかってても一晩中電話してたよ」って安心して嬉しそうだった声。 最初から変わらずに、最初からずっと、そんなふうにいつもわたしを大事に思い続けてくれてるのに、わたしはときどきその意味の大きさがわからなくなってる。言葉に紛れてそのうんと奥にある気持ちが見えなくなってしまってる。 窓辺に戻った。窓を開けたら、スプリンクラーの霧みたいなシャワーが顔に優しく跳ね上がってくる。いつまでもそこに立って、スプリンクラーのシャワーを顔中に浴びていた。 眠れないあの人が心配で、わたしも一晩眠れなかった。 恋人じゃなくて、ただ大切な人。恋人じゃなくて、特別な人。そしてそう思ってくれる人。 いつのまにか雨が止んでた。 空が明るくなったのと同時に、バスタブにお湯を溜めた。アワアワのお風呂にゆっくり入ったあと、やらなくちゃいけない溜まったペーパーワークを済ませた。インターネットでアパートも探してみた。外に出て陽差しを浴びた。 そろそろ手近なものから少しずつ片づけようと、お昼から IKEA に行ってプラスティックのクレートをいくつか買った。ぼろぼろになってたから、マウスパッドもついでに買った。世界地図が、時差を表すタイムゾーンの縦の線で区切られたデザイン。タイムゾーンの境界線って途中で交差したりしてるんだ。知らなかった。距離もわかればいいのにと思った。こことあの人のいるところは一体何マイル離れているんだろうっていつも思う。 帰って来たら、留守電が入ってた。今度は絶対あの人だと思ったのに、違った。 ドクターだった。 「Ken だけど、電話くれる? 今4時10分前。じゃああとでね、バイ」。 テープが悪いのか、雑音で声が聞き取りにくかった。何回も聞き直したけど、やっぱりドクターの声だった。でも胸は痛くならなかった。 手を洗って、チビたちにごはんをやって、友だちからの留守電に返すみたいに普通に電話をかけた。 呼び出し音は鳴らずに信号音が鳴って、テープの無機質な声がわたしのかけた番号を告げたあと、「 ...has been disconnected. No further information is available.」って言った。それだけを何度も繰り返した。番号を確かめたけど、間違いなくドクターの番号だった。 解約されてる。止められてるだけ? わかんない。引っ越したのかな。違うよね。「電話くれる?」ってメッセージに入ってたけど、新しい番号なんか言ってなかった。なんかのイタズラ? まさかね。 ペイジャーにかけようかと思ったけど、やめた。 メールしようかと思ったけど、それもやめた。 また忘れた頃にかかってくるよ。 もう大丈夫。もう多分普通に話せる。もうただの友だちになれる。 もう、恋人の代わりなんかじゃなくて。 友だちになれたらいいね。もうすぐ遠くに行っちゃうんだものね。 -
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