Onry Me
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2001年05月24日(木) 父がガンで死んだ時(12)灰になった父

2月10日。
昼過ぎに父は遺体となって自宅へと
戻ってきました。

父の顔には白い布がかけられており私が
その布を取ると父はうっすらと死に化粧
をされ、綺麗な顔になっていました。

父の遺体を目の前にしても不思議と悲しい
といった気持ちは湧きませんでした。
それよりも父が目の前にいることによる
安心感のような気持ちが大きかったです。

この時の私は非常に穏やかな気持ちでした。

その後、父と共に来た葬儀屋が今後の葬式に
関する準備等の説明をおこない、家の中が
とても慌ただしくなりました。

一通り今後の段取りが決まり葬儀屋が斎場へ
予約の電話をした所、火葬場の方が大変混み
あっており空きが無いので父の告別式は最短で
月曜の朝になるとの事でした。

父が死んだこの日は木曜日だったので父は
金曜、土曜、日曜と自宅で最後の時を過ご
す事になりました。
父が亡くなってから荼毘にふされるまで
実に4日もあり、それはとても異例な事でした。
しかし私は一日でも長く父と一緒にいられる
事を思うと決して悪い気はしませんでした。

その晩、父の看病でほとんど寝ていなかった
母を先に寝かし、私と姉は寝ずに父の線香に
火を灯し続けました。

父の葬儀告別式は月曜の早朝に行われました。
その日は月曜の早朝にも関わらず多くの友人、
知人が訪れてくれました。

父の葬儀は別段変わった事もなく、
極々普通に執り行われました。

最後に父の棺桶を開け皆で花々を
父の周りに入れてあげました。
好きだった草花に囲まれて父の表情は
ひときわ穏やかになったように私には
見えました。

棺の蓋を閉める前に私は最後に
父の顔を触りました。
しかし、その感触は生前に触った
それとはまったくの別物でした。

ドライアイスで4日間冷やされた父の顔は
非常に冷たく既に肌もコチコチに固まって
いました。
そこには既に生前の父の温もりはなく、
まるで蝋人形を触っているようでした。

その後、皆の前で母による最後の別れの
挨拶が行われました。
さすがにこの時、母は泣いていました。

父が火葬場に運ばれ、いよいよ最後の別れを
する時が来ました。
父の棺を乗せた台車は作業員の手により事務的
に火葬の場へと運ばれ父の棺はあっというまに
業火の中へと消えていきました。
姉と母は泣いていましたが私はただ、無言で
最後まで父を見送りました。

それから1時間。
控え室で待っていた私達の元へ父の火葬が
終了したとの知らせが来ました。

火葬場へ行くと父は生前の面影を一切
とどめる事なく灰になっていました。
そして、そこの職員も驚いていたのですが
父の骨は非常にいい状態で残っていました。
普通はここまで綺麗には残らないとの事でした。

私達は父の喉仏を見せてもらいました。
父の喉仏は名前の如く仏様があぐらを
かいて座っているように見えました。

私達は父の遺骨を骨壷へと入れ合いました。
最後に喉仏を中央にしまい込み、父の愛用
していた老眼鏡を入れてあげ蓋を閉めました。

以上で全てが終わりました。

私は今までの二ヶ月間の気持ちに区切りがつき、
何かホッした気分になりました。

帰りがけに、斎場で頭の先から爪の先まで金キラキン
のとてもゴージャスなお坊さんの二人組みが私達の
前を通りました。

私と姉はそれを見て

「あんな成金趣味の坊主にお父さん、
 念仏唱えられなくてよかったよね」

と言って笑い合いました。

私達のお願いしたお坊さんは近所の昔から
付き合いのある貧乏寺の地味な住職でした。

多額の借金をして常にお金の事を心配していた
父にとっては逆に地味なお坊さんで喜んでいた
のではないかと思います。

身なりは地味ですが心のこもった住職のお経は
父にとっても私達にとっても、とてもあり難い
ものになりました。


パンチョ |MAIL

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