一橋的雑記所
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愛しくて、切なくて。 触れる指先さえ、震えて止まらない。 痛いのは、望まれる形と望む形の違い。 この子の笑顔の為には、決して踏み越えられない。 境界線の存在。
生徒会室の扉を開いた途端に、目に飛び込んでくる。 開きっぱなしのノートパソコンを前に、頬杖を付いて。 年齢相応の、幼さを顔一杯に湛えて眠るその横顔。 音を立てないようにそっと手を添え、扉を閉める。
「……なつき」
近づいて、小さくその名を呼んでみる。 余程疲れているのか、そっと肩に触れても目を覚ましそうにない。 今、この学園で、何が起こっているのか。 この子の身に、何が起ころうとしているのか。 知っていて、知らない振りを続けているのは。 ただ、この子の傍に居る事の出来る自分を守る為だと。 とうに、分っている。 この子の為ですらない、この想い。
「知れたら、この子、どない思うやろか……」
顔に浮ぶ笑みの冷たさを、自覚しながら。 幼い寝顔を晒すこの子の背中の温もりに、触れるか触れないかの距離から。 そっと、その髪をひと房、この手に掬う。 夕映えに輝く漆黒の髪。 その綺麗な手触りを愛惜しみながら、この指からさらさらと零す。
「なつき……」
抱き締めたくて、でも出来なくて。 そのつかの間の安息を、妨げたくなくて。 そっと、自らの利き手を、他方の腕で押さえつける。
「……かなんなあ……」
苦笑混じりに呟いて、そっとこの子から離れる。 開け放しの窓辺、夕陽を湛えて翻るカーテンに手を添えて。 その冷たい感触に、掌に集まった熱を逃がす。
――玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする
いつまで続くのだろうか。 この、戦いの日々は。
深く目を閉じて、胸の奥、みじろぐ不穏な気配をそっと閉じ込め。 肩越しに振り返る先に在る筈の、稚いあの子の寝顔を。 振り切るように、視線を投げた先には。 窓の外、不吉な程眩く輝く穏かな海の、照り返し。
――守ってみせます。
たとえ何を犠牲にしても。 あの子の心からの笑顔を見る、その日までは。
― 了 ―
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