一橋的雑記所
目次&月別まとめ読み|過去|未来
綺麗な夢のその果てに(改訂版)その3. ※060609.改訂まだ途中。
どのくらい、そうしていただろう。 時折、近くの部屋や廊下から小さく物音が響くのが聞こえて。 その度に、何故だか夢の中に居るような気分になって。 自分の左肩に押し付けた、彼女の温もりに意識を集中する。 そうやって、実際には数分ほどの時間を過ごした後。 ずっと、身体を強張らせ、震え続けていた彼女は。 不意に、大きな息を深くゆっくりと吐くと。 諦めたように、その肩から力を抜いた。 同時に、左手首を抑え込んでいた彼女の右手が。 そっと、離れていく。 それを、私は。 何だか切ないような気持ちのまま。 視界の隅で、見送るしか、無かった。
大きな吐息を一つ漏らすと彼女は、静かに身じろいだ。 離れ難い気持ちと、ようやく押寄せてきた自身の行動に対する困惑とが、私の胸の中で、せめぎあいを起こしている。
「……なつき」
その間にすっと入り込んできた彼女の声の静謐さに、上っていた頭の血が、すっと降りる。
――違う。本当に、追い詰められているのは、私じゃない……。
唐突に思い出して、それから、ゆっくりと腕を解く。 彼女は、私の当てたハンカチに添えた手はそのままに、そっと身体を起こした。 その顔はでも、やっぱり逸らされたままで。乱れて頬に張り付いた髪が、その表情すら伺わせてはくれなくて。
「静留……」 「ほんま、あんた、無茶ばっかりやね……」
ぽつり、と、色のない声が、辛うじて見える口元から零される。 ほんのりと紅いその唇は、かすかに震えているように見えた。
「……ごめん」 「謝ることないけど……血ぃ止まるまで、ちゃんと抑えといてな」
空いた手で無造作に私の手を取ると、ハンカチの上に添えさせる。 そのまま何かを考える暇も与えず、彼女は、静かに立ち上がった。
「ま……静留……っ!」 「喋ったら、あかんて」
丁度一歩分の距離を置いて佇むとようやく此方に向けた、その顔に。思わず、息を飲む。 彼女は、笑っていた。 笑いながら、一粒の涙も流さず、泣いていた。
「あんまり、酷い様ならお医者さんへ行かんとな。綺麗な顔に、痕でも残ったらおおごとどすから」
そんな事を呟きながら空疎に目を細めて、背を向ける。
「ま……待て!静留……っ!」
慌てて身を起こした私を振り返りもしない。その姿に、身震いする程の既視感を覚える。 瞬間、背中を駆け上がった何かを無理矢理抑え込んで。私は立ち上がった。
「待て、話が……」 「喋ったらあかん、言うてますやろ……!」
思わずその手を取って振り返らせると。彼女の厳しい紅い瞳に射抜かれる。
「し、ずる……」 「うちはもう、あんたをこれ以上傷つけとうない」
叫ぶように吐き出された声が静かに、胸元を叩いた。
「せやから、もうこれ以上……」
不自然に途切れたその声音が湛える。 これまで一度も聞いた事のない血の滲むような響き。 不自然な位穏やかなその声に打たれたように。頬に血が集まるのを覚えた瞬間。 駄目だ、と思う間も無かった。 彼女の、胸元で握りこまれた両の手を強く掴み取るように引き寄せる。当然、口元からハンカチが落ちる、けれども、構ってなどいられない。
「今更そんな事を言われたって、私は、聞けない!」
蒼白に近い顔に、真紅に近い瞳の中に走る、痛みの色を目に焼きつけながら。私は、叫んでいた。 泣かせたくはないと、確かに思っていた。 悲しませたくはないと。 けれども、その気持ちさえ振り解くようにして、叫んでいた。
「お前が私の側から居なくなるのは、嫌だ……!!」
傷ついたその瞳を真っ直ぐに見据えて。 その痛みを与えているのは自分だと分かっていて。 それでも、叫ばずにはいられなかった。
「勝手なのは分かってる、だけど、私は嫌なんだ。 お前が居なくなるのだけは、絶対に……!」
卑怯だ、と激しく鳴り響く胸の鼓動が軋み声を上げる。 そんな言い方で彼女を繋ぎとめようとする自分の浅ましさに眩暈を覚える。 優しくしたい気持ち、傷つけたくない気持ちの裏側で。何をするか分からない程の激しさで、彼女を求めている自分。 知らない。 こんな自分は、これまで、知らなかった。
「なつき……」
苦しそうに、悲しそうに、彼女が私の名前を呼ぶ。 強く戒めるように握り締めたその手首の細さに、胸が痛む。 でも、離せない。離したくない。
「……堪忍……」
今度こそ、彼女は。 面伏せ、肩を落として、静かに、涙を流していた。 色を失った頬に、傷跡のような軌跡が走る。
「うちの……せいや……堪忍……堪忍な……」 「……!」
何が。 何が彼女のせいだと、言うのか。 何処までも、何もかもを自分の背に負おうとするその姿を。悲しむよりも早く、冷えかけた頭に再び一気に、血が集まる。
「静留……っ!」
叫んでも、叫んでも。 決して、届かない気がした。 辛くて、切なくて。 言葉にすら、ならなくなるほど、悲しくて。 きつく掴んだその手首に。この手の痕が、いつまでも残れば良い。そんな事さえ。酷く、苦しい胸の中、考えながら私は。 こんな自分を、今の今まで。知らないままで居たいと願っていたのかと。 自分自身を激しく責め立てたい衝動に、駆られていた。
痛くない筈はないのに。 彼女は眉一つ動かす事無く、静かに涙を流し続けている。 光を失ったかのようなその瞳の中には。 何一つ映ってはいないようで。 そう、私の姿すら、映してはいないようで。 その事が、辛かった。
綺麗な夢のその果てに・6
いつだって、彼女は、自分の事は何一つ語らないままに。独りで何かを決めてきた。 私の為に、と思う事ですら、いつだって。 そんな彼女の、寂しいまでに厳しい優しさに守られなければ私は。多分、何処かで折れてしまっていた。 だから、分かる気がする。 今なら、分かる気がする。 彼女が、何を恐れて離れていこうとしているのか。 悲しかった。 でも、それ以上に、情けなかった。
「静留……」
彼女を、そんな寂しい檻に更に堅牢に、閉じ込めたのは、私だ。 あの日、偽りなく言葉にした、私の思いだ。 でも。
「……」
彼女の手首を戒めていた両の掌を開く。 強張った指の間から、その温もりが遠ざかる。 淡い血の色をした、この手の痕が。自分のした事だというのに痛々しくて、見ていられなかった。
「……静留。お前が望もうと望まなかろうと」
だのに、私の唇は、激情の勢いを残したまま、また。 偽れない気持ちを言葉に代えて、吐き出してしまう。
「私だって、いつかは、変わる」
ひっそりと。 彼女の肩が小さく揺れる。
「それを恐れているのは、お前だけじゃない」
零される言葉とその意味を。多分、私以上に理解する為に。彼女が息すら堪えて耳を澄ましているのが分かる。
「そんな事、お前は良く知っていたんだろうな……だから……」
一旦握り締めた右の掌を解いて、そっと伸ばす。 脳裏を掠める既視感。 あの日彼女が差し伸べた、震える掌。それすら恐ろしくて、怖くて。 初めて見た、彼女の泣き出しそうな怯えたような表情にすら。気付けないままに、その手を拒絶した。 今、私の差し伸べた掌を彼女は、拒まない。 けれども、その頬にこの指の先が触れても。色を失った頬はぴくりとも動かなかった。
「でも……私は嫌だ。嫌なんだ」
白い、涙の跡を、親指でそっとなぞる。
「お前に守られるだけの自分でいるのは、もう、嫌なんだ」
言った瞬間、彼女の頬が微かに揺れた。 口元が、歪むように緩んだように見えた。
「……せやったら……」
何処か遠い所で鳴る風のような声が聞こえた。
「尚更、うちがあんたの側に居る訳には、いかへん……」 「……! 違う、そうじゃなくて……!」
聞け!と叫び出しそうになる気持ちを堪えて、彼女の顔を覗き込む。 悔しかった。 守られていたのは、事実で。 何も知らないでいたのも、事実で。 何処かで私が、折れてしまわないように、彼女が。 全てを見越して、私の側に居てくれた事が。 嬉しくて有難くて…それでも、悲しくて。 だから。 どうすれば良いのか。 何処から、やり直せるのか、知りたかった。
「私は……私は、お前に守られる私でなければ、 お前の側には居られないのか……?!」 「……違う……!」
弾かれたように、彼女が顔を上げる。
「そうやない……なつき、そうやないんよ……!」 「違わない、私にとっては、違わない……っ」
瞬時に炎のような色を取り戻した彼女の眼差しを振り切るように。大きく首を振って、叫ぶ。
「だったら、そんな風に私から、離れようとするな……!」
またこみ上げてきた涙を堪えたくて。痛む唇に再び、歯を立てる。
「なつき……!」 「私は……もっと、お前を……」 「あかん…て…っ!」
ぱんっ!と、頬を張られる音に遅れて。唇の痛みを越える痛みがそこに広がった。
「もう、分かったから……」
痛みに思わず緩んだ口元を彼女が掌で押さえ込むように塞ぐ。
「これ以上……自分を痛めつけるのんだけは……お願いやから……!」
酷いな、と。 彼女の血の気を失って冷たい掌を感じながら。再び震えだしたその肩を眺めながら。 熱と冷気がひっきり無しに入れ替わる頭の片隅で思う。 でも、どんなに酷くてもいい。 あの日以来、何もかもを独り決めしたまま。自身の身も心もずたずたに引き裂くようにして。私の目に留まらない場所で何もかもを独りで。勝手に考えていた彼女を、私は。 知りたかった。繋ぎ止めたかった。 多分、それだけを、望んでいた。
「静留……」
塞がれた口元を気にする事なく、私は言葉を繋ぐ。
「私は、お前を、もっとちゃんと、見ていたい。分かりたい」
お前が望もうと、望むまいと。 この想いが、何と名付けられるものだろうと。 もう、構うものか。 たとえ、返される答えが、拒絶であろうとも。 もう、怯んだりしない。 恐れたりしない。 傷つく事も、傷つけられる事も。 悲しむ事も、悲しませる事も。
睨みつけるようにして見据えた彼女の顔が。呆然としたまま、色を取り戻すのを見ていて。ことり、と胸の中に何かが落ちるのを感じた。 ああ。 また、分かった。 あの日の、お前の気持ちが。 こんな気持ちを、自分独りで抱え込んで。再び拒まれるのを恐れて、逸っていただろう、お前の気持ちが。 だから。
「……お前は、本当は、どうしたい……?」
投げ掛けた問いに、どんな答えが返ろうとも。決して、逃さない……その気持ちに嘘はなかったけれども。 口にした瞬間、心が震えた。 何も問わずとも、私の心の幼さも弱さも知っていた。あの頃の彼女のようには、いかない。 明かされない心を思いやれる強さも広さも私の中にはまだ、ない。 だからせめて、答える彼女を見誤らないようにと。 私は、自分の瞳に、力を込めた。
|