一橋的雑記所

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2005年11月29日(火)


綺麗な夢のその果てに(改訂版)その2.
※060609.


隙のない動作で片づけを始めた姿を、ただ眺めているのも何故か辛くて。
逃れるような気持ちを胸の片隅に抱えて席を立つ。
今更、食事前に手を付けていたゲームに興じる気分にもなれなくて、ソファの上に深く腰を落ち着ける。
背中で感じる彼女の気配は穏やか過ぎて、静か過ぎて。
儚くて、遠くて、何だか耳を塞ぎたくなる、そんな気がして。
我知らず立てた両の膝に額を押し付けて。
頭を抱えるようにして目を閉じた。



――……なつき。

声が、聞こえる。
懐かしい、でも何処か切ない、声。
一心に走り続けている日常の合間、あるいは、ひと時のまどろみの生暖かい夢の中、。
そんな、ふとした瞬間に振り注ぐ、優しい呼び声。
決して、むやみに心の中にまでは、踏み込まずに。
距離を置いて、優しく包み込むようにして。
穏やかな時間の狭間に私を。置き去りにして見守ってくれるような、そんな……。

不意に。
頬に何かが触れる気配を感じて、はっと目を見開く。
一気に覚醒した感覚が四方に解放されてゆく。
大きく身を捩った時、身体を覆っていた何かがはらりと落ちた。

「……ああ、目ぇ、醒めてしもたん?」

笑い含みの声は、ローテーブルの向こうで茶器を用意していた彼女のもの。
時間の経過を感じさせない仕草で悠々と急須を手にしている。

「……すまない」
「ううん。やっぱり、疲れてはったんやね」

もうちょっと寝ててもろてても良かったんに、と微笑みながら、薄藍色の湯飲みをテーブルのこちら側へそっと置く。

「甘いもん食べたらちょっとは疲れ、取れますえ?」

言って桜色の皿に乗せた和菓子をその隣に並べる。
有難う、と口の中でもごもご呟きながら。胸から膝に掛けてずり落ちている綿の毛布を傍らに押しやって座り直す。

「ふふ……せやけど、なつきはほんまにどんな格好でも寝られる子ぉやねんねぇ……」
「な……っ」
「あんたが居眠りしてはるとこ、これまでも仰山見てきたけど」

ソファの上に三角座りで寝てはるん見たんは初めてやわ、と。口元に手を添えて、彼女は肩を震わせている。

「……! 静留……!」

声を荒げて身を乗り出そうとして。
背けられた彼女の横顔に漂う。気付くか気付かないかの、僅かな緊張感を感じ取ってしまって。
こめかみの辺りに上がり始めていた血液の流れがすっと。引いていく。

「……静留……」

正直すぎる自分の声が、彼女の肩にぶつかる。
ほんの一拍、何かを置くようにしてから、彼女は顔を上げる。

「堪忍。笑い過ぎやね、うち」
「それは……」

良いから、と零しかけて、膝の上で掌をぎゅっと握り締める。

「ああ、また謝ってしもぉた」

何でも無い事のように続けて彼女は自分の分の湯飲みと茶菓子を整えると、真向かいにそっと正座する。
以前ならば同じさり気なさで多分、私の隣に席を占めたろうに。
そんな一つひとつが少しずつ少しずつ、二人の間に、積み重ねられていって、やがてそれは、新しいルールになっていく。新しい当たり前になっていく。歩く時の、あの微妙な位置や距離のとり方のように。
彼女がそれを、望んでいるなら。
ならば、私は。
私は……。

「どないしたん……?」

お茶、冷めてしまうえ?と。ほんのり微笑みながら促す、その姿が、既に、遠い。
聞きたい事があるのに、確かめたい事があるのに。

たとえば。

お前は、いつから私を見ていたのだろう。
いつから、私を知っていたのだろう。
いつから、自分がHiMEである事を、私が、HiMEである事を知り。
私の求めていたものの空しさに気付いていたのだろう。
私が失ったものは、私の元へは永遠に戻らない事に。
その事実に私がいつ、辿り着くと思っていたのだろう。

そんな取りとめも無い思いが胸の中で渦巻き始めて唇を噛む。
それは今、自分が言葉にしてしまえば、彼女を責める形にしかならないものばかり。
けれども、違う、そうじゃなくて。
彼女を、責めたい訳じゃなくて。
ただ、知りたいだけだ、どうして、私だったのか。
そこまでして、どうして、私だったのか。
それなのに何故、今更。
どうして、お前は、私から。
どうして、私から……。

「……なつき……っ?」

知らず顔を伏せてしまったのと同時に。
焦ったような彼女の声が耳を打った。

「どないしはったん…!」
「え……?……あ……っ」

まずい。
なんで、こんな。

気が付けば、私の目は。
自分でも分かるくらい、熱を帯びた雫を、馬鹿みたいにあからさまに、零し始めていた。

「ち、違う……!」

焦った私は。
気遣わしげに身を乗り出して、手を伸ばしてきた彼女をまるで。
まるで、拒むように、顔を背けてしまう。

「……なつき……」
「……あ……」

ためらいを滲ませ、差し伸べた手を止める彼女の瞳。
その中に確かな痛みの色を認めた瞬間、直視出来ないまま私は、大きく頭を振りながら、叫んでいた。

「やめろ!お前が悪いんじゃない……!だから、もう……!」

ぐい、と右袖で勢いをつけて顔を拭い、そのまま、腕に両の目を押し付ける。
こんな、自分で制御出来ないままに溢れる涙。
そんなものを、彼女の目の前に晒すのは、酷く卑怯で情けない。

「頼むから……」

―……『頼むから』……?

何を。
私は、何を今更。
彼女に願おうとしているのだろう。
願えるのだろう。
熱くなった頭の片隅に、冷えた感情がするりと差し込む。
何も知らないでいたのは、私の方で。
何もかも知っていたのは、彼女の方で。
それでも、私を。私を、好きだと言ってくれた。
守り続けてくれた。
ずっとずっと、多分きっと。
彼女自身は、何もかもを、堪えるようにして。
何があっても、平気な振りをして。ただ、私の為に、私の為だけに。
でもそれは。
それは。

押し付けた腕の下で両の目の奥が軋むように痛む。
けれども今、彼女を見つめるのは、怖かった。
今の自分の顔を彼女に見せるのは、怖かった。
全てが終わり、全てを知った。
だから多分、これからが私にとっての本当の、始まりで。
だからこそ、ずっと私を見てきた彼女が、これから取ろうとしている道が、選ぼうとしている道が。
どんなものであるのか、薄々でも分かってしまったから。
彼女が見せるどんな表情も優しさも、私にとっては、遠く辛く、痛いのだと。
本当は、気付いていた。知っていた。
そんな甘ったれた自分を直視することが、本当は、怖かった。
全てを彼女の口から聞く事を求めながら、どこかで今、彼女が自分を避けてくれている事に安心していた。
でも、多分、それだけでは済まない。済む筈が無い。
そんな日がやがて訪れる事が、ただ、怖かった。悲しかった。

ようやく、本当に、ようやく分かった。分かってしまった。
私が知りたかったのは、過去なんかじゃなくて。
今の。
これからの。
彼女を。
本当は……。

――……願う資格が、今の私に、ある筈なんてない。

冴えた脳裏で揺れ動き続ける、冷たい感情。それが、彼女を止める為に全てを賭けた、何の迷いも無かったあの日の自分すら許さない勢いで、自らを責めたてる。
想いの形が違う、ただそれだけの理由で、彼女を失いたく無くて。
その願いの強さが、彼女を追い詰める事がある事にさえ思い至らないでただ、彼女を求めて戦った。
そんな自分自身がどうしようもなく、情けなくて、辛かった。

今更なのは。
彼女ではなくて。
本当は…ほんとうは……

「なつき…!何してんの……っ!」

不意に。
思いがけない近さで激しい声がした。
強く両腕を引かれて、視界が転倒する。
何が起こったのか分からない間に背中がソファの上に押し付けられ、口元に何か、柔らかいものを押し当てられる。

「口、開けて!早う…っ!」

耳元で叫ばれた途端に、舌の上に鉄錆びた、でも、何処か覚えのある、甘苦い味が広がる。
思わず見開いた両の目の、視野一杯に迫る、彼女の顔は、いつか見たものよりも、もっともっと。
辛そうな、痛々しい、涙顔。
彼女は。手にしたハンカチを私の口元に強く押し当てていた。
私といえば、一体何が起こっているのか分からないままに、こんなに近くで彼女の顔を見たのが酷く懐かしくて、それだけで何だか胸が詰まるような思いに襲われていた。

「……静留……」
「喋ったらあかん…!」

思わず零した声を彼女は、怒ったような叫びで制すると、口全体を塞ぐように、ガーゼのハンカチを押し当ててくる。

「何で……何で、こないに血ぃ出るまで……っ」

こみ上げてきたものを振り払うように彼女は、折角直ぐ近くに寄せてくれていた顔を、強く横へと逸らしてしまう。

――……血?

そうか。
この甘いような渋いようなのは、血の味。
何度か渡った危ない橋の経験の中、確かに覚えのある味。
思い至った途端、唇の右端にじんじんと鈍痛が沸き始める。
知らず噛み締めていた犬歯がおそらく、思いの他深く、そこへ食い込んでしまったのだろう。
そんな事を、馬鹿みたいに冷静に確認しながら、背けられた彼女の横顔を、まじまじと眺める。

―……静留……。

押し付けられた布が邪魔で、声にならない。
けれども、こんな事くらいで酷く動揺している彼女を、何とかしてやりたくて。

――……大丈夫、だから。

きつく掴まれ、ソファに押し付けられた左手はそのままに、空いた右手で彼女の肩を軽く押しやろうとして。

――……違う、そうじゃない。

考え直して、そのまま、彼女の首筋にそっと回して。
何かを堪えるように震えているその頭を、抱え込んだ。

「……なつき……っ?」

驚いたように身を剥がしかけた彼女には構わず、そのまま、自分の肩に引き寄せる。
その拍子に、唇に押し当てられていたハンカチが僅かにずれて引き攣ったような痛みが走る。
けれども、そんなものは、もう、どうでも良かった。

「何してはるんのん……!ちょぉ……離し……」
「いや……だ……」

傷は痛む。
言葉を漏らせば、唇だけではなくて、この胸の中でさえ。
でも。
でも。だからこそ。

「なつき……っ!」
「痛いのは……幾らでも我慢できる。でも、私は……」

私は。
彼女の泣き顔は、もう。
見たくないから。

「……泣かないでくれ。私は、大丈夫だから……」

言った自分が、また、泣きそうで。どうしようもなくて。
でも、今度は唇を噛み締める訳にもいかなくて。
だから私は。
彼女の頭を、強く強く。
自分の肩に、強く強く、押し当てるようにして。
抱きしめる事しか、出来ないでいた。


一橋@胡乱。 |一言物申す!(メールフォーム)

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