ケイケイの映画日記
目次|過去
2025年09月21日(日) |
「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」 |

あー、一安心!死が二人を別つ迄、絶対観続けようと思っているのが、この作品の監督のウェス・アンダーソン。しかし!前作「アストロイド・シティ」は、最後まで来ても一度も盛り上がる事無く、もう許して下さい、私が悪かったです!と、叫びそうなくらい、つまんない。これが続くと、ウェスと私の蜜月がヤバいじゃんと、今回恐る恐るの鑑賞でした。でもですね、いやいや、今回は問題なし。「フレンチ・ディスパッチ」くらいには面白く、安堵しました(笑)。
六度の暗殺未遂にも生き残っている、ヨーロッパの大富豪のザ・ザ・コルザ(ベニチオ・デル・トロ)。独立国のフェニキアのインフラを整備すれば、150年間利益がザ・ザの懐に入るという、フェニキア計画を立てます。しかし妨害などで赤字が増大。ザ・ザは長女で修道女のリーズル(ミア・スレアプレン)を後継者として任命・帯同。フェニキア全土を股にかけ、出資者を募ります。
まっ、ウェスの作品は、美術だけ観ていても、絶対楽しいのよね。この作品も、いつものように豪華なドールハウスみたいなセットから、本物の絵画がいっぱい仕込んであって、アートに強い方は、どこに隠れているか、探す楽しみもありそう。
如何にも悪い事してきたそうなご面相のザ・ザ。信頼を置ける人もいません。子沢山なのに、子供もリーズル以外は皆養子。そして、リーズルも、異母弟のヌバル(ベネディクト・カンバーバッチ)の娘かも知れないと、疑心暗鬼です。
道中がオフビートというか、ユルユルというか。ここらであらゆる小ネタを仕込んでくるわけですが、ここで笑えるかで、面白かったかの勝負が決まる(笑)。私はクスクスが続きました。そして、ユルユルクスクスの中に、意外に硬骨な監督の主張を見出せたら、後は流れるまま、楽しめば良いわけで。
ザ・ザが疎遠だったリーズルを手元に置きたくなったのは、何回も死にかけては転生して、あの人この人に天国で再開して、里心がついたのでしょう。妻(シャルロット・ゲンズブール)の「あの子はあなたの娘じゃないの」も、確かめたかったんでしょう。三人の妻のうち、子供を産んだのは、リーズルの母親だけだったしね。
出資を頼んだ、はとこのヒルダ(スカーレット・ヨハンソン)は、「私たちの祖父同士も喧嘩した。理由は簡単よ。どちらが強いか、それだけよ」。あー、戦争を手短に的確に表現すると、これに尽きるよね。
道中で、久しぶりの父娘の愛情交換も無く、至ってハードボイルドな二人。それでもお互い胸の内を、正直に打ち明けます。出資を募るリーランド(トム・ハンクス)やマルセイユ・ボブ(マチュー・アマルリック)は、リーズルに「私はあなたのママを知っている」と言います。俺はあんたのママと寝たんだよ、という事でしょう。リーズルは母親の淫蕩な血が、自分に流れているかもと怖れていたのでしょう。淫蕩さを密かに表現したくて、「ニンフォ・マニアック」でヒロインを演じたシャルロットに、ちょびっと出て貰ったのかと思いました。
でもリーズルのブルーのアイシャドーと、パイプをくゆらす姿は、若い子に似つかわしくなく、貫禄すらあり似合っています。どこか花魁や、椿姫みたいな高級娼婦のよう。リーズルは男たちに一度も笑顔を見せませんが、弟たちには、「ハイ、ボーイズ!」と、満面の笑顔を見せます。母性的な豊かさを持ち合わせているのでしょう。彼女の理想と現実の乖離を埋めるのが、修道女だったんじゃないですかね?ハードボイルドな所は、自分を律しているわけで。私はこの子、好きだなぁ。演じるミアは、なんとケイト・ウィンスレットのお嬢さんです!
対するザ・ザも、天国では再会した祖母が、自分の事を忘れてしまっている事に落胆。そこへこれまた縁続きのヒルダから、「どちらが強いか」だけの滑稽な理由で、殺し合いまでした祖父たちの事を聞き、自分とヌバルの間柄について、再考したかと思います。そう思うと、ドールハウスのような美術の中の、本物の絵画は、あまり価値が見出せません。血=本物志向への、メタファーだったかも知れません。
そんな中、いよいよヌバルと再会する直前、ザ・ザはリーズルに「もし私が父親ではなくても、私の養女にならないか?」と、告げます。リーズルの答えはイエス。フェニキア計画のために久々に再会した父と娘は、血を超えて、二人が本当に求めていた物を見つけたんでしょう。それは穏やかな争いのない人生。父は葉巻、娘はパイプをくゆらす姿はそっくりです。
それを表現していたのが、ラストの二人の様子なのでしょう。こんな普遍的な事を表現するのに、まー、手が込んだ事で(笑)。でも何時だってウェスは、人生の哀歓を表現するのに、奇想天外な表現で見せてくれるじゃないの。今回はそれが感じられて、ファンとしてはとっても幸せでした。、

最近は思い悩む作品はパスして、ストレートな直球作品ばかり選んでいます。この作品は前者の気がしていましたが、そこそこ評判が良いので観てきました。内容はほぼ仕入れていませんでしたが、想像していたより、思いの外楽しめました。私は戦後と原爆をモチーフにした、母性を描くファンタジーだと思いました。監督は石川慶。
1980年代のイギリス。日英ハーフのニキ(カミラ・アイコ)は、大学を中退して作家を目指しています。母悦子(吉田羊)は、戦後に連れ子の景子を伴い、ニキの父親と再婚、渡英しています。景子はイギリスに馴染めず自殺。父も亡くなり、瀟洒な実家は、今は悦子一人が住んでいます。悦子に戦後すぐの日本の事を尋ねたくて、ニキは久々に実家に戻ります。悦子は佐知子(二階堂ふみ)、小学生くらいの万里子(鈴木碧桜)親子と過ごした、ひと夏のお話を語り始めます。
雑なのか狙っているのか、色々ちぐはぐなシーンが多々あります。まず悦子が住んでいた団地。1952年=昭和27年に、長崎に団地なんかあったっけ?と思い、調べてみました。そしたら、やっぱり第一号の団地は大阪の堺市で、昭和31年です。長崎はもっと後だと思います。ただ住まいの間取りは、暮らしやすそうだし、風情のある旅館のようで、中々素敵です。
舅(三浦友和)は元校長で、どうやら悦子はその学校で音楽教師をしていたらしい。そして悦子は被爆しているのを夫(松下洸平)に隠しているのに、舅は知っている。そして「お義父さん」とは呼ばずに「緒方さん」と舅を呼ぶ悦子。あの時代、いくら舅が気楽にと言っても、はいそうします、とはならないでしょう。
バラックの掘っ立て小屋に住んでいるのに、いつもいつも艶やかな佐知子の装いに対して、娘の万里子は髪はざんばら、服装も小汚い。恋人はアメリカ人なのに、イギリス式のティーセットがいつも用意されている。
その他わんさか、辻褄が合わない、時代にそぐわない描写がいっぱいで、そこに引っ掛かるともう興が削がれ、先に進めないと思います。しかし、ミステリアスな悦子のお話の秘密が、ニキの手によって明かされると、あぁそういう事だったんだと、合点が行きました。
以下ネタバレ。私の考察です。
景子は万里子、佐知子は存在せず、それは悦子自身であった事。劇中悦子は身籠っていますが、それがニキだったんじゃないかな?だから渡英の年月も違うのかも。戦後の混乱で未亡人となった悦子は、当初は通訳として仕事を得ていたでしょうが、それでは生活出来ず、うどん屋で働くも、長崎で被爆した事を侮辱され、それも辞めてしまう。行きつく先は、外人相手の娼婦だったのじゃないかな?それがあの、派手な艶やかさだと思う。
劇中の夫は傷痍軍人として描いていますが、今でいうモラハラ亭主だったようです。でもあの時代、モラハラ以外の夫はいなかったと思う。劇中の夫は、悦子の戦死した夫への慕情が感じられます。舅は戦前の思考の象徴でしょう。あれは義父ではなく、悦子の実父が投影されていたのかもしれません。
それなりの教養のある家庭で育ったであろう、悦子。子供を抱えての当時のシングルマザーは、今以上の苦しさがあったでしょう。私はそのストレスから、景子を虐待していたと思います。学校にも行かせていないし、佐知子は常に娘にはそっけない様子でした。
あの猫殺しは、本当の事でしょう。それを観ていた景子は、ロープを持った母に殺されると、思ったのかも知れません。それが折檻に繋がり、行方不明の万里子を探しあてるシーンの、ロープの傷痕に繋がっているのだと思う。
今の母子の状態を、一番危険だと思っていたのが、悦子本人だと思う。だから海外へ移住すれば、夫がいて経済的に安定すれば、景子も上手に養育出来て、全てが救われると夢想したのでしょう。
彼女が実際に相手していたのは、アメリカ人が圧倒的だったと思う。だけど、原爆を落として、彼女の人生を狂わせたアメリカは嫌だ。だから、千載一遇の相手、ニキの父親に縋りついたんじゃないのかなぁ。
だけど、渡英しても母子の溝は埋まらない。人種の違う義父との関係、言葉の壁、義父と血の繋がったニキの存在。何より悦子が自分の居場所作りに必死で、景子の事は後回しだったと思います。そしてまた虐待が始まったのかも知れません。それで景子は、「ピアノが上手で、何でも出来るお姉ちゃん」を演じ続けて、彼女もまた、自分なりに居場所を作ったんでしょう。そしてその事に疲弊してしまい、心身のバランスを崩した。「ママはお姉ちゃんと私を遠ざけた」と語るニキの台詞は、虐待を知られたくない悦子の気持ちが、そうさせたのでしょう。
存在しない万里子に優しい悦子の姿は、景子を虐待した自分への理想と後悔だったと思います。娘を自殺に追い込んだのは、自分。存在が無くなってホッとしたはずが、今の悦子の心を占めているのは、亡くなった景子の事でしょう。ニキは敏感にその事を嗅ぎ取っています。
全てが明るみに出て、「お姉ちゃんの死は、ママのせいじゃないわ」と慰めるニキ。戦争のせいと、作り手は言いたいのだと思います。でもそうだったとして、私は賛同出来ないな。私の考察が当たっているなら、同情も理解も出来ても、悦子は毒です。母親は子供、特に娘には、毒にも滋養にもなるんだよ。
以上私の考察ですが、他にも様々に考察して下さいと、色々ぼかして描いているんでしょう。その水彩画のような描き方が、原色の悦子の苦しみを、柔らかに受け止めているような気がします。

この映画に絡む「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、確かレンタルビデオで観ました。30代だったかなぁ。公開当時は確か小学生で、でもその時分から映画雑誌は愛読していて、この作品が一大センセーションを巻き起こした事は記憶にあります。名作と誉れ高い作品の暗黒を映画化出来るなんて、「me too」運動は、本当に意義のある活動なんだなと痛感します。監督はジェシカ・バレー。
19歳の新人女優マリア・シュナイダー(アナマリア・ヴァルトロメ)は、新進気鋭の映画監督として頭角を現しているベルナルド・ベルトルッチ(ジュゼッペ・マッチョ)から、新作の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のオファーを受けます。マーロン・ブランド(マット・ディロン)の相手役と聞き、飛びつくマリア。しかし、この作品の出演が、後年彼女の人生を狂わせていきます。
「ラスト〜」は、大まかな筋だけは覚えていますが、細部は全く記憶にないです。この作品でも物議を醸すバターのシーンも、映画を観て思い出したくらい、正直内容は、私には退屈な作品でした。そんな私でも、マリアの顔と大きなバストは覚えています。正にマリアの苦しみは、そこから来ている。
マリアの母(マリー・ジラン)は愛人で、今はマリアの父親の俳優ダニエル・ジェラン(イヴァン・アタル)とは、別離。マリアは父との久々の再会で、映画の世界に興味を持ち始めます。興味本位と華やかな世界に憧れを持っていただけで、野心は多分持ち合わせていない。ブランドとの演技談義も、ほぼ心酔して聞いているだけ。そんな彼女は監督から、抜き打ちでまるで性加害そのもののようなシーンを強要されます。
スタッフは皆知っていて、彼女だけが知らされていない。衆人の前でレイプされているかのようです。その中に女性もいるのに、いたたまれない様子もなく、表情一つ変えません。それが本当に怖い。当時は映画の為なら、俳優は人権はなく、何をされても良いと、スタッフ皆が本気で思っていたんでしょう。
ショックで打ちひしがれるマリア。以降トラウマを抱えて生きる事に。この作品はセンセーションを呼び、上映禁止の国も出てきます。イタリアでは何とベルトルッチ、ブランド、マリアの三人が告発され、執行猶予付きの有罪判決が出ます。その事にも大変ショックを受けるマリア。「名前が売れて良いじゃないか」と言う父。悪名は無名に勝るという事か。まだ成人したばかりの娘には、何の慰めにもならない。
私が激怒したのは、この若い娘を一人フランスに置き去りに、著名で権力もあろう男二人が、それぞれ国に帰ってしまった事です。一人フランスで、マスコミや世間からバッシングを受け続けるマリア。心身が疲弊する彼女は、一気に心のバランスを失います。この辺は、今のSNSでの過剰なバッシングを想起させます。
徐々に人格崩壊していくマリアは、仕事にも支障をきたし、薬物にも手を染めます。この辺は、とても説得力がある演出で、誰もが彼女に同情すると思います。 マリアが薬物で逮捕された事を知っていましたが、こんな事情が隠されていたなんて。
シャロン・ストーンが「氷の微笑」での例のシーンは、ライトが当たるとハレーションを起こすから、下着は履かないで欲しいと撮影から言われた、と最近になって語っています。騙し討ちです。シャロンは「氷の微笑」以降、似たような悪女役をたくさんあてがわれ、盛大にヌードも見せています。彼女はIQ150代の高頭脳の持ち主です。大昔読んだインタビューで、IQの話を振られた時「でも世間では、歩き方も知らないと思われているわ」と、皮肉で返していました。自分の役柄を揶揄しているのです。シャロン程の美貌と頭脳を持ち合わせていても、映画業界に置ける権力の前では、歯が立たないのでしょう。抗う事をしなかったシャロンは、スターダムに乗ります。でもそれは、彼女の本意だったのかしら?
一方、シャロンより前の時代に、無駄なヌードシーンを拒否して抗ったマリアの仕事は、先細りでした。あの時代、大御所でもない、たかが一人の女優の言葉に、耳を傾けてくれる人は、少なかったはず。これ程勇気のある人だとも、全く知りませんでした。どの媒体も取り上げなかったのでしょう。
シャロンの他にも、亡くなったオリヴィア・ハッセーとレナード・ホワイティングは、「ロミオとジュリエット」では、ヌードシーンは使わないと言われていたのに、ゼフィレッリに騙されて使用されたと、訴え出ました。これもつい最近です。自分たちの尊厳を取り戻す決意をするのに、実に50年以上の年月を要したわけです。
精神病院に入院したマリアは、母を恋しがるのですが、母は面会にも来ない。父親の元に通う娘を許さない。娘を恫喝して抑え込むこむ様子が描かれます。シングルマザーで辛酸は舐めたでしょうが、これは無いよななぁ。原作はマリアの従兄妹であるヴァネッサ・シュナイダー。劇中でも、従兄妹を可愛がるマリアの様子が描かれます。マリアの人格の崩壊の一端は、伯母にもあると、ヴァネッサは言いたいのでしょう。
アナマリアはとても可憐で美しく、マリア以上の美人です。アナマリアは好演でしたが、ここは正直、もう少し似せた人でも良かったかとは思います。その方が、作品により感情移入出来た気がするなぁ。苛烈な役柄が多いアナマリアですが、ハリウッド進出の「ミッキー17」では、容姿と落差のない役柄でした。今後も活躍を期待したいです。マット・ディロンのブランドは、これは荷が重かった模様。終始ブランドには思えませんでした。マットより格上だけど(多分。私の想い込みか?)、エドワード・ノートンなら、全く自分とは違うブランドにも、寄せてきたのではと思います。でもブランド役は今の情勢なら、ベルトルッチ役以上に、やりたくない役だと思います。
劇中の後半、マリアに寄り添い、甲斐甲斐しく世話をする女子大生のヌール(セレスト・ブリュンケル)。劇中唯一、心からマリアを受け入れ愛した人でした。彼女とのその後がどうなったのか、気になりました。映画を観る限り、マリアが自殺でせず生涯を終えたのは、私はヌールの献身であったと思います。真摯に描かれた、力作です。

大層評判が良いので観てきました。面白い、めっちゃ面白い!女性二人が主役ですが、美しさや可憐なビジュアルなんか微塵もない。汗臭くて油臭くて血まみれで。だけど愛なんですよ、愛(見れば解る)。過激でシュールな場面の連続ですが、彼女たちといっしょに、二時間の馳走を、たっぷり堪能しました。監督はローズ・グラス。
1980年代のアメリカ。しがないジムの支配人をしているルー(クリステン・スチュワート)は、ある日ジムを訪れた流れ者風のジャッキー(ケイティ・オブライエン)に一目惚れ。ジャッキーはボディビルの大会で、優勝する夢を抱いています。あっと言う間に同性を開始する二人。ルーには姉(ジェナ・マローン)がおり、DVする夫(デイブ・フランコ)に逆らえない姉を、常に案じています。一方姉妹の疎遠な父(エド・ハリス)は、表向きは射撃場の経営者ですが、実は裏社会の大物。義兄が姉を瀕死の目に遭わせた事から、その事がルーとジャッキーの人生に、大きな影響を与えます。
冒頭からやさぐれ感たっぷりのクリステンが、超素敵。売れっ子の彼女の作品は、あれこれ観ていますが、私はジョーン・ジェットを演じた「ランナウェイズ」の彼女が一番好きです。あの時はジョーンそっくりで、そりゃ感激したもんです。お姫様的な役柄より、私はこんな彼女が観たかったんです。
ジャッキー役のケイティ・オブライエンも、ボディビルダー役なので、身体は作ってきたんでしょうね。そりゃもう、見事な肉体美でね、ちょっとトレーニングする姿だけで、特大の存在感を発揮。その存在感はラストまで駆け抜けます。
ジャッキーと初めて身体を重ねる時、「ノンケの想いで作りじゃないよね?」と尋ねるルー。切ないなぁ。男女だってなかなか難しい一目惚れの相手とのセックス。同性愛なら千載一遇だよね。小汚い風景の中、トレーニングの様子やじゃれ合う二人の情熱は、小汚さも吹っ飛ばす。そんな二人を暗闇に引き込むのが、姉と義兄の関係です。
ルーは父親とは疎遠。刑事のさりげない尋問で、父親の裏家業が原因と匂わせます。私が溜息ついたのは、父は姉が夫のDVに合っていたのは知っていたはず。なのに、義兄は平然と舅の元で働いている。このホモソーシャルの世界では、夫が気に入らないと、例え理不尽な理由であっても、妻は殴られて当然なんでしょう。肝心の姉だって、そう思っている。ルーはそれは大間違いだと、「ある事」で気づいたんだと思う。それでもこの街から出られないルー。それは姉の心配だけではなく、大嫌いの父親の庇護の元から、抜け出すのが怖いのです。
この辺りから、題名のステロイドが生きてくる。ルーに勧められてから、筋肉増強のため、ステロイドを常用し始めているジャッキー。自分の感情の歯止めが利かなくなり、超人ハルクみたいになってしまう。この辺はヒーロー物へのおちょくりかな?オマージュではないと思う。
ここからが二転三転、何がどうだか、混とんとしてきます。この展開が、スピード感たっぷり、全く先が読めなくて、とっても楽しめる。そんなカオスの中、ルーは必死にジャッキーを守り、ジャッキーは幻影の中、ルーの姿を追い求めます。彼女たちは、「運命の二人」なのでしょうね。
小見出しに出てくるジャッキーの生い立ちは、養子である事が最初に話されます。ジャッキーは人恋しさに、途中で家出した実家に電話して、血の繋がらない兄弟に「恋なんてするもんじゃない」と吐露すると、母親に電話を切られてしまう。どこに行くのもヒッチハイクで、職を得るのも、全て体を提供しながらのジャッキー。私は養子先で性的虐待に遭ったのかと想像しました。自尊心の低さが下半身の緩さに繋がり、唯一の取り柄であるボディビルにで優勝し、この浮き草状態から脱出したいんだなと想像したら、とても心が痛い。自分に心底尽くしてくれるルーに、初めて恋も愛も感じたんでしょう。「男女とも両方好き」なジャッキーは、ルーと言う人を愛したんだと思います。
こんなに苛烈な演出を見せら続けて、ラストは思いがけず、ファンタジックやブラックユーモアでまとめて、笑ってしいました。「テルマ&ルイーズ」を想起する人が多いラストですが、死へダイブしたテルマとルイーズですが、ルーとジャッキーも、死が二人を分かつまで、添い遂げて欲しいと思います。子供を地獄へ道連れするのは、親の愛じゃない。だからルーの父親は、娘を愛していないんだよ。対してパートナーは、この人と一緒なら、地獄も怖くないと思うのが愛なんだと、可愛そうなデイジー(アンナ・バリシニコフ)を観ながら、深ーく感じ入りました。
最近忙しいせいか、たくさん映画観過ぎたせいか、寄る年波なのか。小難しいのとか、味わい深い感動とか、あんまり要らないんだよ。とにかく面白いのがいい!の、同好の士に超お勧めします。

ゲームが原作だとは、全く知りませんでした。観たい作品がどんどん少なくなっていく中、これは絶対観ようと思った作品。うん、「世にも奇妙な物語」でした。でも95分の映画なので、ドラマより内容が濃い。自分で如何様にも思考が広がって、私は好きな作品です。監督は川村元気。
派遣先への出勤途中、元カノ(小松菜奈)からの電話に出た男(二宮和也)。電話をしながら地下鉄の構内で出口を探すも、迷ってしまいます。どんなに探しても、出口が見つからない。やがて彼は、8番出口から外に出よ、という看板を見つけます。
元カノは、別れた後に妊娠が解った事を男に告げます。「あなたが決めて」と言う元カノに、「決められない」と答える男。そこからループの如く、同じ構内を彷徨い歩きます。
男は自信無げで、線が細い。喘息の薬も持ち歩いています。そして仕事は派遣。思い出の元カノは、真っ白のワンピースが似合う、清楚な美しい人です。釣り合わない元カノに対して、常に控えめだったんでしょう。それが優柔不断に繋がって、女性の方から別れを告げられた、と想像しました。しかし、「地下鉄で迷った」と言う男に、「方向音痴なんだから」と、微笑んでいるような声の元カノは、決して男が嫌になって別れたのでは、ないのでしょう。
異物を発見すると、ポイント1で、出口が0から一つずつ増えます。間違い探しの世界観です。例え5になっても、次に間違えると0に。正しくゲームの世界だな。積み重ねた物が、一瞬で無くなり、自棄なったり絶望するのは、現実でもある話です。その後、男はどうするか?諦めが悪いのは、いけない事ではないんだと、感じます。
ループする度、出会う不気味な歩く男(河内大地)。「あれはもう、人間じゃない」と男が言う通り、めちゃんこ気色悪い。しかし、歩く男が「人間」であった様子も描かれます。キーパーソンは、途中で出てくる男の子(浅沼成)。迷う男も、歩く男も、似たような経験があるのでしょう。二人の運命を分かつのは、その経験をどう生かすのか、では?。また利己的になるのか、それとも共生する事を渇望するのか?神様は別々の形で試したのかも?
そう思うと、やはり途中で出てくる女子高生(花瀬琴音)は、援交していた事を、反省しなかったんだな。だから人間ならざる存在となる。誰だって間違いはあるんだよ。でもまた同じ事が起ったら?その経験を無駄にせず、自分で自分を導くべきなんだと思います。
ラストに涙を浮かべ、決意したように、右の方向へ顔を向ける男。迷う前のひ弱さは、ありませんでした。ループは彼にとって、決して無駄ではなかったんです。
ニノはやっぱり、お芝居上手だな。途中までうだつが上がらない、冴えない男性だったのが、途中から腹を決めて、このループに立ち向かっていく過程で、段々と精悍になっていく。同じ衣装、狭い空間、短いスパンで、段々と変化していく様子を、自然体で演じていました。
私が観た回も超満員でしたが、大ヒットしているみたいです。自分なりに、色々読み解く楽しみのある内容なのが、ヒットの一因だと思いました。
|