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バラが咲いたぁ バラが咲いたぁ 真っ赤なバラがぁ
さみしかった 僕の庭にバラが咲いたぁ
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誕生日にもらった真っ赤じゃなくて オレンジ色のかわいいバラが咲きました。 西陽に当たって眩しそうに けれど元気に咲いています。
せつない気持ちが胸いっぱい広がって さみしい思いがぽろぽろこぼれて でも元気でいたいと思うのです。 笑顔を絶やしたくないと思うのです。
どうかどうか 不器用なこの私を あなたのそばに置いてあげてください。
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バラが咲いたぁ バラが咲いたぁ 僕の心に
いつまでも散らない 真っ赤なバラが
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2005年04月27日(水) |
悦びの花 哀しみの夢 |
私が生まれてきたこと。 それを喜んでくれた両親。 出会ってから誕生日を祝ってくれる友。 かけがえのない無二の存在。 あなたたちが私の生きる意味。
なにがしたい?
どこへいきたい?
なにがほしい?
どうしたい?
自分にぶつける疑問たちに答えられない。
ひとつ言えるのはただ抱きしめてほしい。
私の存在が潰れてしまうくらい。
あの時の記憶が蘇る。
脳を掠める音と光と匂い。
悦びの花に包まれて哀しい夢に酔う。
なんて美しい矛盾。
散った花はもう咲かない。
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2005年04月26日(火) |
happy birthday to me |
はっぴばぁすでぇ。あたし。
今日から22歳。
なにも変わらない。
ただ一個年を取っただけ。
今日、久しぶりに霧を見た。
肌に触れる空気も湿り気を帯びて
目の前に溢れるガラスたちは全て白く曇る。
今夜の月はまんまるくて素敵な琥珀色。
明るい月明かりの中、夜道を歩く。
日々は自然に流れ、節目を迎える。
ゆっくりゆっくり、たまに急ぎ足で歩いてきた。
これからも歩かなきゃ。深呼吸しながら。
こんな静かな夜に22になりました。
今後もよろしくね。あたし。
がんばって23歳には素敵な女性になっていようね。
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会って話したい人がいる
そばにいるのだけれどとても遠い
会って笑いあいたい仲間がいる
あと少しの間しか味わえない幸せ
どこにもどこでもいつでもなんでも
あたしのワガママばっかりが通る世界があったら
きっとハチャメチャだろーけど
ラブ&ピースで平和な世界になると思う
ラブはあなたへ
ピースは心に
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じぶんには心がない
じぶんには思いがない
じぶんには素敵がない
じぶんには愛がない
そんなことをおもう今日このごろ
冷たいにんげんだなぁとおもう
みんなが私をどうおもっているのかはわからないけれど
わたしが皆をどうおもっているのかもしらないだろうけど
そんなでもよのなかは周っているのだよ
ちゃいなやこりあに嫌われても
せかいは動いているのだよ
じぶんには何がないとかいってるあほのそばでも
とりが囀ったり
はなが咲いたり
そらが雨をふらせたりする
これはなんなのか
わたしはいったい何なのか
なにぬねのの何はなにぬねの
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昔は何でもできる気がしてた。どこへでも飛んでいけると思っていた。それは夢だった。自分がこんなにも小さい人間だということに大人になっていくにつれてしらしめられる。学ぶことで自分の能力を上げるけれど、逆に諦めの仕方を覚えることもできる。こんなに切ない気持ちになる春は初めて。
春風に揺れている洗濯物たちの向こう側に青い空がある。ここは自由だ。怖いものはたくさんあるけれど、嬉しいこともたくさんある。自由の中で生きるということは難しいけれど、「なにもない」こともたまには必要。
髪の毛を洗って、くるくるになった髪の毛をなでながら、世の中で起きた悲しい事件に耳を傾けて、時間を気にしながら学校に向かうことを考える。くるくる。みんな驚くけれど、あたしはお母さんゆずりの天然パーマ。
眠気に襲われて、まぶたに降り注ぐ太陽の光を子守唄にうとうとする。どこかに隠された秘密なんて気にすることもなく、妄想の世界でお姫様になろうか。音楽は耳に、空は目に、風が手のひらに。ひとつひとつの仕草に血を巡らせたらそこに生活が生まれる。そこにあたしはひっそりと生きる。
今日もたくさん笑って、ぐっすり眠ろう。明日のために。
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2005年04月02日(土) |
そこには愛があるのかい? |
あんちゃん。それはまだ私にはわからないよ。
すごく自分はつまらない人間だと思う。でもそれはそれで自分らしく、たとえどんなに批判されても、このスタンスは変わらないこともわかっている。そんな風に考えること事態がつまらなくて、順応性のない人間っぽのかも。
情緒不安定までいかないけれど、やっぱりどこか足りない部品とかあって、うまく作動しない私の頭は、いつでも堂々巡りをして落ち込ませる。落ち込むくらいなら放棄したいくらいなのに、バカなのかえらく真面目なのか、落ち込むときもとことん正しく落ち込む。けれど、その瞬間に考えていることは全くもってどうでもいいことだったり、悩み以外のことだったりする。それはきっと逃避の始まりでもあり、自分勝手の真髄なのかもしれない。自分が悩んでるくせに自分が真剣に悩んであげないで、誰が悩むんだっつーの!
そこには愛がまだ足りない。自分への愛。
私の頭の中に住んで離れない「キレイな思い出」という名の微生物。気を抜いた瞬間、脳みそに穴をほじくって「思い出」の汚い部分とか事実を食べてしまう。そうすることでより一層美しい思い出へと化していく。そんな微生物と暮らし始めてもう長い。99ある負の部分を1の正のせいで容認してしまう自分の性格に嫌気がさすときもある。けれどそれも愛なんじゃないかと最近思うようになった。けれど、どうしても自分だけは愛してあげられない。99の負にも勝る1の正が私にはないからだ。けれど、1の正があることだけで私は救われる。でなければ死んでやる。なんて簡単に言ってみるものの、今はそんなにし「死」に対して興味はない。昔は「死」を恐れて、眠れない夜を過ごした時もあった。今の私が恐れているものは「死」ではなく「愛」だ。不確かで、抽象的で、見えなくて、計り知れない。愛。重かったり、軽かったり、人を狂わせることを容易くさせる「愛」。
そこには愛があるのかもしれない。けれど見ないフリを続けている。
音楽になってみんなの耳に入って鼓膜を揺すぶり、脳への刺激となってドーパミンを分泌させるくらいの存在でありたい。そして口ずさまれて、あなたの記憶の一部へと。
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生きてるってなに?生きるってどういうこと?息をして、目を開けて、手足を動かしていれば生きているってこと?でもそこに魂がなかったら生きていると同じことではないんじゃないか?四ッ谷駅の乗換えのときにエスカレーターで反対側から来る人々の顔がベルトコンベアーにのっかって流れてくるみたいなのを見ていると、ふとそんなことを考えてしまう。無表情な彼らを見下ろす私もきっと死んだ魚のような目をして、「あ、コイツ疲れてんだな〜」とか、思われてるんだろうな、なんて考えてみたりもする。自分には全く関係のない人間がこの世界に五万と存在して、その中で自分にとって大切な人をみつけること、もしくは出会えた人々はきっと何か私にとって大きな意味を持っているはずんなんだろうな、なんてふと東京の片隅で思ったりする。そんな毎日。
どうしようもなく無気力になってしまう瞬間がある。そんな時は何にも逆らわず、自己正当化に必死になる。自分に言い訳なんかして何になるって思うけれど、そうじゃないと私は自分を保っていられないのだ。みんなの脳みその中を覗けたら、なんて思うど、あの子に「うわ、こいつ苦手なんだよね・・・」とか思ってるところに遭遇したりするのが怖いから嫌だから構わないんだけど、でもみんな他人が自分のことどう思っているかを気にしながら生きているわけで。そうでしょ?そうだよね?私だけ?
私の頭の中は変なのか?嫌、普通なんだよ。みんな変なんだよ。だって自分じゃない人の頭だもん。自分から見れば「自分」ではないのだから変なんだよ。相手のこと理解したいなんて思わない。理解して欲しいとも思わない。そういうのって努力して理解するものではなくフィーリングで通じるものだと思うから。私に近寄ってくる人なんてめったにいないけど、私のことをちゃんと愛してくれる人もいるってことで、「自分、捨てたもんじゃないね。」なんて、ちょっと安心してみたり。でも人の気持ちなんていつ変わるかわからないものだから日々、疑うことを忘れたことはないわけで。でも信じることばかりかな。だって疑ってると始まらない気がするから。
とにかく、今思うことは、疲れてて、お風呂に入りたくて、眠くて、足がむくみすぎで痛くて、うちの家族はいつも騒々しくて、春なのに夜は寒くて、とにかくとにかく、どうしようもない気持ちに襲われてる今日この頃。
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