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〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2006年07月29日(土) 資料) (靖国に合祀されている)戦没者

「戦没軍人事蹟」(『菟田野町史』より)

『菟田野町史』(菟田野町史編集委員会編,菟田野町役場,1968)


資料)
(靖国神社に合祀されている)戦没者年令別

才17181920212223242526272829303132
人7(2)2(1)2(1)2(3)12(1)22(2)25(5)32(6)21(6)34(3)11(4)19(3)16(3)7(1)10(0)10(3)

才333435363738394041424344464751計
人9(6)6(0)13(2)8(0)5(0)6(3)11(0)8(1)2131211309(うち□□村、55)



※合祀について

都道府県の担当者は戦没者の氏名や階級、本籍、生年月日、死亡時の所属部隊や死亡年月日などを「祭神名票」というカードに記入。それを厚生省経由で靖国神社に送り、その戦没者を例大祭の時期に「祭神」として合祀する――。
こうした「合祀事務」が、一九八七年三月まで続いていました。



同じく、『菟田野町史』「戦没軍人事蹟」より

(氏名・生年月日・住所・事蹟順)

■■豊治朗(義理の曽祖父の長兄)

・大正一一年(一九二二)三月一一日、□□二六〇、昭和一八年二月一〇日大阪第二七部隊に入隊、満州吉林省安山大隊本部付に所属、昭和二〇年(一九四五)八月一六日朝鮮清津北方輪城橋に於て戦死。(陸軍伍長)



※殉職について

旧日本軍において功績顕著な戦死者については二階級特進させるという例によっており、旧陸軍に於いては上から、大将-中将-少将-大佐-中佐-少佐-大尉-中尉-少尉-准尉-曹長-軍曹-伍長-兵長-上等兵-一等兵-二等兵でした。





資料)平成10年12月高知県議会議事録 森田益子さんの答弁から
私たちの朝倉には、御存じの方も多くおられると思いますが、昭和二十年の敗戦まで四四連隊という軍隊がありました。
朝は、私たち朝倉の者は「とっとと起きよ」という起床ラッパで起こされました。
そして、昼間は「出てくる敵は皆々殺せ」という進軍ラッパを聞かされ、夜は「兵隊さんはむごいわね、また寝て泣くのかよ」と哀愁を帯びた消灯ラッパで床についたものです。
その中で周辺に居住していた私たち三カ所の被差別部落の者は、赤貧洗うがごとき差別と貧困の中でも、兵士の苦労をさまざまの形で支え慰めてきたのです。
朝倉駅から戦地に行く兵士を幾たび涙で見送ったことか。
さらに、国立病院は旧陸軍病院だったので、傷ついた傷病兵の出迎え、戦死者の遺骨の出迎え。
 
朝倉の住民は他の地区と少し違う感情の中で、人権の守られない社会には平和は守られない、平和を守らない社会では人権は守られないと体をもって覚えました。


当時の軍隊での部落差別はひどいものでした。
だから、同和教育に対しては強い、強い願いを持っております。
 
一つの例ですが、私より三つ年上の者が、軍隊に行って文字を知らないために「入浴」という漢字が読めないし、「入浴」ということに理解ができなかったようです。

私のところはその当時理髪店をやっておりましたが、その青年は一週間目の外出に出てきて、「おんちゃん、入浴を知っちゅうか」、父はニューヨークを聞かれたと思うので、「そりゃあ知るかや、ニューヨークはだればれ知らぬぞ」と。

「そうじゃろう。軍隊へ行ったらのう、おんちゃん、風呂に入ることを入浴という。だからおんちゃんのところへ兵隊に行く前に散髪に来た人には、軍隊へ行ったら風呂に入ることを入浴ということを教えちょいちゃって。あしはそれを聞きただしたばっかしに、このとおり仕打ちを受けた」と言って、お腰をあけて見せられました。

「えたが何てことを言やあ、人を愚弄すな。入浴を知らぬか」と言って帯革でひどく仕打ちをされた、この光景が私はいまだに忘れられません。
高知県議会議事録における森田益子さんの答弁(ご体験)には、部落問題、同和教育、部落解放運動の原点・歴史が凝縮されていると感じられましたので、ここに貼りつけさせていただきました。ご紹介くださった友人に感謝。



とうとう、ダブルくんのひいおじいちゃんまで、登場させてしまいました(苦笑)。
部落と部落外をつなぐために少しでも貢献できましたら、幸いに存じます。


※軍隊の機構の補足として

岡本愛彦氏(主なテレビ作品『私は貝になりたい』など)のお話によると、旧満州と関東州の旧制中学の正課が中国語で、陸軍士官学校の正課が中国語と露語だったそうです。

陸軍士官学校出の中尉や少尉、将校になっていくコースと、満二〇歳のときに徴兵礼状がきて二等兵(一つ星)から一等兵(二つ星)へと上がっていくコースの二つがあったそうです。

下士官(伍長より上)以上になると月給が出るのですが、これは二等兵から上がっていった者にとっては大変な出世で、平時は曹長どまり、ごく稀に少尉になれても年齢は既に四〇歳位になっていました。一方、陸軍学校出の人たちが少尉になるのは二二、三歳くらいでした。 

実際の戦場で一番頼りになるのは下士官だったのでプライドは保たれたけれども、下士官(月給トリ)に上がれなかった古参兵の一等兵や上等兵は卑劣な隊内リンチを行い、軍隊も、統制上の理由でそれを許していました。




2006年07月24日(月) ホームドアと『交通バリアフリー法』(2000年施行)



ホームドアも『交通バリアフリー法』も正直、初耳でした。

asahi.comトップ > 関西 > ニュース   
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200607240049.html

駅で転落防止のホームドア、関西で整備進まず
2006年07月24日


転落防止のためホームにドアが設置されている京都市営地下鉄東西線=24日午前、京都市役所前駅で

 電車の到着に合わせて開閉し、転落事故防止の決め手といわれる駅の「ホームドア」や可動さくの設置がなかなか進まない。全国の駅のうち、整備済みはわずか3%。とくに関西の駅の整備率は関東の約4分の1と「東高西低」の傾向にある。経営環境や安全対策への認識の違いがあるようだが、転落の危険にさらされやすい視覚障害者は「ホームは欄干のない橋と同じ。人命を重視してほしい」と一層の整備を求めている。

 国土交通省によると、全国の駅ホームで04年度に起きた転落や列車との接触事故は118件で、死者は20人に達した(自殺は除く)。視覚障害者のほか、携帯電話の通話中に過って落ちたケースもあるという。

 00年に施行された「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)」に基づく国土交通省令は、鉄道事業者に新駅で「ホームドア、可動式ホームさく、点状ブロック」のいずれかの設置を義務づけている。だが、既存の駅については、努力規定にとどまっている。

 同省によると、全国でホームドアを整備しているのは10事業者の119駅、可動さくは16事業者の183駅(4月現在)で全国の9566駅の約3%に過ぎない。

 関西では、京都市交通局(東西線)▽神戸新交通(ポートアイランド、六甲アイランド両線)▽大阪市交通局(南港ポートタウン線)▽JR西日本(山陽新幹線新神戸駅)――の4事業者、計44駅にとどまる。大阪市交通局は12月開業予定の地下鉄8号線(今里筋線、井高野―今里)について、全11駅に1駅あたり約4300万円をかけて可動さくを設置するが、累積赤字が約1600億円に達し、既存路線の整備は困難という。

 97年に開業し、ワンマン運転の京都市営地下鉄東西線の15駅は、1駅あたり約3億円をかけて高さ約2メートルの強化ガラス製ホームドアが整備された。だが、地下鉄の累積赤字は約2400億円に達するため、81〜90年開業の烏丸線については「財政上の負担が大きい」として追加設置の予定はないという。

 これに対し、関東では12事業者、計154駅で設置され、既存路線にも整備が進む。

 すでに25駅でホームドアや可動さくを設置している東京メトロは6月から、来秋までに約100億円をかけて丸ノ内線の25駅すべてに可動さくを設置する工事を始めた。同線はラッシュ時の混雑率が最高155%。「乗り降りの時間が増えるが、安全対策を優先した」という。

 JR各社は列車の種類が多く扉の位置が異なっていることや、駅数が多く巨額の整備費用がかかることなどを理由に消極的で、新幹線の一部の駅に導入しているだけだ。

 公共交通機関などでのバリアフリーを考える市民団体「視覚障害者の歩行の自由と安全を考えるブルックの会」(大阪市)によると、大阪市営地下鉄で89〜99年に少なくとも38人の視覚障害者が転落し、3人が死亡したという。

 同会代表の加藤俊和さんは「視覚障害者がホーム上で人にぶつかると方向がわからなくなる。『欄干のない橋』と例えるほど極めて危険だ。関西の鉄道会社は人命にかかわるとの認識を持って、もっと整備を進めてほしい」という。


画像はコチラで見させていただきました。





バリアフリー化推進に関連する主な法令に、「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)」以外の法令も紹介されていました。いろいろあったのですね。

「交通バリアフリー法」関連 |「通信・放送身体障害者利用円滑化法」関連 |  「福祉用具法」関連 |  「身体障害者補助犬法」関連 |  「ハートビル法」関連   







三年ほど前、某掲示板で話題になったニュース:
神戸新聞より2003/01/23

 電車内の痴漢被害の防止を目的に、兵庫県内のJRや神戸市営地下鉄などで運用が始まった女性専用車で、視覚障害などがある男性が知らずに乗車し、トラブルになるケースが起きている。子どもを除けば男性は乗車できない専用車両。しかし、視覚障害者にとって、生活訓練で体得した乗降位置の変更は負担が大きく、鉄道各社は今後、改善が求められそうだ。(松本茂祥)

 男性のうち女性専用車に乗れるのは、女性同伴で、小学六年以下(JRは同伴なしでも可能)▽介護が必要な人か介護者が女性の場合に限られる。障害者男性の単独利用は認められていない。

 昨年十二月から女性専用車を導入した神戸市営地下鉄には、視覚障害や車いすに乗った男性から「従来通りの位置から乗せてほしい」「専用車両が分からない」といった意見が寄せられている。

 また、本紙イイミミにも障害がある男性が駅員から他車両への移動を求められて拒否し押し問答になっていたという目撃情報や視覚障害者のサポートをしている団体職員から白いつえの使用者の適用除外を求める声が寄せられた。乗車時だけでなく、降車する際にホームの位置も変わるため、歩くルートも変更されることになるという。

 視覚障害者が一人で電車が利用できるまでに一年近くを要することもあるといい、乗車位置の変更で再訓練を余儀なくされる。また、視覚障害者が女性専用車と認識できる誘導設備もない。

 市交通局運輸サービス課は「導入当初は想定していなかった問題」とし、「女性に安心して乗ってもらうという専用車の目的を守ったうえで、柔軟に対応したい」と具体的な検討に着手。障害がある男性が乗車できるよう利用客の要件を見直していくことにしている。

 JRと地下鉄の導入前に登下校の再訓練をしたという神戸市内の盲学校の教諭は「生徒が誤って乗車し痴漢のように見られてしまうこともある。弱視者にも分かるよう車両の色分けや駅員による誘導などの対応をとってほしい」と指摘している。

 関西では大阪市営地下鉄だけが、昨年十一月の導入当初から白いつえを持った視覚障害者の乗車を認めている。

関心をもたれること自体はいいことですよね。


リンク:
「視覚障害者とバリアフリー社会」へより 

当事者の方の心情を知り、“心のバリアフリー”(視覚「障害」者と健常者)のために何かさせていただきたいと思うのが、理想的な出発点ですよね。



2006年07月23日(日) 奈良県同和問題関係史料

『奈良県同和問題関係史料』(奈良県立同和問題関係史料センター編,奈良県教育委員会刊,2002.3)より抜粋


□□村は宇陀郡内にあった「穢多」村のうち唯一の独立村であった。
古市場(現菟田野町)からの独立時期については後に詳しく述べるが、十八世紀の後半までと考えられる。
また、近代には皮革産業に支えられた経済的発展をとげ、宇陀郡内のみならず、奈良県全体の部落改善運動、水平社運動の中心的役割を果たした。


史料1(宇陀郡上芳野村<現菟田野町>に鎮座する惣社水分神社の祭祀にかかる史料、一五九七)では、渡御祭に際して古市場水分社境内に設けられた桟敷席についての記述があるが、「穢多」が昔から「柴居」の「警固」の役を負っていたと記している。

「柴居」を「芝居」すなわち舞台と桟敷席の間に設けられた芝生の見物席のことと解すれば、芝居の警護が「穢多」の役目だということになろう。
また、「柴居」を柴木で作られた垣根と解すれば、祭礼の行われる神域の警護が「穢多」の役目だということになろう。


史料24(古市場村の水分神社と惣社水分社の間で争われた祭祀権争論、一八一八〜一八四四)では、□□村は神輿渡御の際に先頭を歩き、道筋の「不浄之品」を除去する役割の村であったと記されている。

□□村が惣社・古市場両水分社のキヨメの役割を負っていたことを明らかにするものであり、こうした神社祭礼への「穢多」村のかかわりは・・・などで確かめられ、多くの神社で明治初年の神仏分離期まで続いたものだが、□□村の近世以前の姿を確かめる上で貴重な「証言」である。






2006年07月19日(水) 『餌取り語源説』

『差別の執念』
 盛田 嘉徳 

 國學院大學教授の瀧川政太郎氏が、かつて昭和三十四年一月に、自由民主党同和問題議員懇談会の依頼で、「歴史上より見たる同和問題」という講演をした。・・・

 「鷹のねい猛性を保持していくために、絶えず鷹に生肉を食わさなければなりませんが、生肉は何がいいかというと、犬の肉が一番いいのであります。・・・ですから鷹飼即ち犬殺しは鷹の餌をとるというので、餌取と呼ばれました」と、従来、エトリの称が転訛してエタになったといわれてきた通説をふまえて、犬殺しが即ちエトリであるとこじつけるために、敢えてとりとめもない論証をこころみ、病気の鷹には犬の前足を食わせれば直るというデタラメなことまで述べてある。

 今日では、エタはエトリの転訛であるという説には、疑問が持たれていて、エタという語は、最初は清掃人夫に対する隠語として使われていたのが、次第に日雇的雑業者を呼ぶ名称に拡げられてゆき、やがて、その日雇人夫を中核とした社会的身分を意味するものに転用されたと、考えられている。
 
 しかし、瀧川氏が古い通説に従ったからといってそれを責めるわけにはいかぬが、ただ、餌取りということばから、犬殺しへと飛躍していく思考に、瀧川氏の差別的な偏見が認められるのである。

 当時、鷹の餌として普通には小鳥が用いられていて、それが不足した場合に、にわとり、犬などの肉も使われることがあった。しかしそれは、あくまで補助的な飼料にすぎなかったのである。
餌とする小鳥を捕らえるのが餌取りで、後にこれが餌刺しと呼ばれるように変わった。

 こうした点を瀧川氏はよく調べないで、犬殺しとエタを結びつけるためにのみ急いでいる。

 それは、以前には都市周辺における部落の貧困者の中に、生活のために犬取りを業とする者があり、その印象に基づく差別が根強く残っていて、瀧川氏の心にもそれがひそめられているからである。・・・ (『部落解放』七号、解放出版社、一九七0年四月 所載)



『賤称語源考』
 盛田 嘉徳  

 エトリ語源説は・・・音韻的にも無理が無く、一応安定した完璧な意見のようであるが、しかし細部にわたって検討を加えてみる時、重要な点について二、三の疑問が残るのである。

 その第一は、古くから河原に住んで、死牛馬の解体処理をし、皮革を製造していた人びとと、餌取りとが、同一の者として考えられているらしい点である。・・・

 養鷹の口電書類を調べてみると・・・鷹の餌について・・・と、やはり雀ばかりで養っている。これらによって考えうることは・・・小鳥や兎などを求めるために、餌採集者は河原よりもむしろ、野山に縁が深かったであろうこと、などである。念のために、大阪市立動物園を訪れて、飼養係で承ったところによれば、「・・・総体に、鷹は小食であって新鮮なものを好む。・・・昔は保存が悪いから、一頭の牛でも、どれほども飼料としては使えなかっただろうと思われる」ということであった。・・・

 まず、餌取りと屠者との関係に疑問が生じてくる。だいたい、牛馬の屠殺が禁じられていた当時において、わが国に屠児といえる職種があったとは考えられない。「倭名類聚鈔」の「屠児、和名恵止利」という記し方をみても、この屠児という語は、漢籍や仏典に出てくる言葉で、わが国のものではないことがうかがわれる。

 河原には古くから死牛馬を解体して皮革をとる皮はぎや革なめし、皮細工をする職人が住みついていた。この人々の仕事は一見、屠者に最も類似するもののようだが、しかし「生を殺して肉をとる」ものではなく、たとえ彼等が肉食をしていたとしてもそれはあくまで副次的なことにすぎず、職分はむしろ皮革加工に属するものであった。

 したがって、屠児の訳語に当てるには適切を欠くうらみがあり、当時生肉を提供する職業といえば、一般的に肉食の風のすたれた時代でもあって、特に都の近くではわずかに鷹のために生き餌を補給するエトリより他になかった。

 こうして、屠児の和訓がエトリと決められていったところから、屠児、皮はぎ、皮細工、河原に住む人々、餌取り等々について、観念的な混乱が生ずることにもなったのであろう。・・・ (『部落問題研究』十五、部落問題研究所、一九六三年十二月初出)


「所謂特殊部落ノ種類」柳田國男
「定本柳田國男集 第二十七巻」より(大正二年五月、国家学会雑誌)
 一

 穢多非人の問題は必ずしも単に歴史上の珍たるに止まらず、現在の社会生活に対しても大なる交渉あり。

例えば「エタ」と云う語は、塵添蓋嚢抄(じんてんあいのうしょう)以来の通説によれば、犬鷹の為に食料の肉
を供給する職業即ち餌取の転化なりと称す。

仏道の教義に照らせば罪深き行為なるべきも、未だ之に従事する階級を賤視するべき理由とはならず。

餌取と云う文字には別に賤しき者という内容を具えざるなり。

然るに久しき以前より之に宛つる穢(ケガレ)多しと云う漢字を以ってしたり。

明治の世となりて公に革太或は穢多なる文字の使用を廃せらるるや彼徒は歓呼せり。

而もしからずして其代用たる新平民と云う語は小児などが人を悪罵するときの用語となれり。

近頃内務省は又之を避けて特殊部落の文字を用い始めたるに、程無く此語も亦甚だしく彼等の忌嫌うものとなり、
終には細民部落と書き下に括弧して小さく特殊などと書くに至れり。

要するに彼等が部落を特殊なりとする一般の思想存ずる限りは、百の用語を代ふるも無益にして、事実に於いては
今日と雖彼等が部落は特殊なり。・・・

 二 

 雖見を以ってすれば現今等しく特殊部落と称せらるる階級の中にも、著しく其経済上の条件は社会上の地位を異にする色々の種類あり。

其中に於いて最多数且有力なるものは勿論当穢多なり。
其他の特殊部落は地方に由りて名称並びに生活状態甚だしく区々なり。
且之を細別すれば数十の種類あるかと思はる。
之を総称して簡単に何と呼ぶが可なるかは未だ考へ得ず。
非人と云ふ語は少なくとも近世の用法として単に其中の一小階級をのみ指せしものの如きも、穢多非人と云ふ熟語は通俗且便宜なれば、仮に穢多以外の特殊部落を概括して非人と名づけんとす。素より彼等には内々の使用なり。

 穢多と非人とは全然異なりたる種族なりとするは此迄の通説なりき。
而も余輩は未だ之を信ずべき十分なる根拠を見出す能はず。
二者の区別として仔細に比較すれば色々の点あれど、其最も見易きものは穢多は死畜を取扱ひ他は然らざること是れなり。
此故に前者を皮商売又は革太革坊革屋などと呼ぶ。
今日も大体に於いて革を製せざる者は皆穢多に非ず。
或は穢多は死獣を取扱ひ非人は死人を取扱ふと云ふ者あり。
此も大なる誤なし。
但し二者何れにも関係せざる特殊部落も少なからざることを忘るべからず。

穢多は何れの地方に於いても部落比較的に大きく、其生活の異風は顕著なるが故に人に注意せられ易し。
之に反して非人の事は誠に世人の観察を逸せり。
其結果として特殊部落と謂へば即ち穢多のことと考ふる者あり。

柳君の著「穢多非人」は二十余年前の研究としては奇特千萬の書なれども、此二者の区別を怠り混同多し。
而も実際問題としても学問上の調査としても右は左様にて軽視せらるべき事柄に非ざるなり。
徳川時代には江戸に弾左衛門ありて穢多を統べ、車善七及び品川の松右衛門ありて非人を統領せしことは人善く之を知る。

弾の部属は今日も存在し其首領は人之を弾さんと呼び昔ながらの浅草区の紳士なり。
然るに善七松右衛門が 類は全く分散し尽くしたるものの如く、彼等は其後如何に成行きしか此間の消息は之を解する人多からず。

抑も江戸時代の非人とは如何なる者か。
普通非人乞食(ヒニンコツジキ)と云ふ語あり、非人とは乞食のことと思ふ者あり、或は又常人が貧乏して乞食をする状態を意味する者と思ふ者あり。

江戸時代の武家の法制として情死を仕損じたる者其他の犯罪者等を非人の仲間に降ろし入るることありしが故に、之を以つて彼等の常態と為し、非人はもと此等の常人より構成する者なれば、外部の圧迫にして徹せらるれば 元の古巣に立戻ることあれども勘当を受けたる不良少年が親の家に帰るが如く解する人もあるべし。

成程芋を洗ふが如き大都の社会なれば、人間の屑の掃溜に集る者も少小には非ざりしならんも、斯る烏合の連中のみにては昔とても一箇の階級を作ること能はざりしは明なり。

殊に田舎の小団体の非人部落に在りては、右の如き時々の供給を予期すること難く、必ずや別に其団体を構成するだけの本来の中堅なかるべからず。

乞食も本物の乞食は世襲なり。
況や広義の非人の中には昔より も新分子を加へざりし明証ある者多し。

決して通俗の説の如く常人の零落したる者の世を忍ぶ仮の名なりと認むる能はず。

然らば彼等非人は如何にして此国に存在するに至りしか、此問に答え得れば江戸の非人の後日物語も自然に判明すべきかと考へらる。


 三 


 先づ順序として穢多の方面より説き出さん。
穢多と非人との異同優劣如何は、滑稽なる話なれど彼等が間にてはある重要なる問題なりき。

江戸にては弾左衛門は幕府の非常に厚き保護を受けて勢力あり。

車善七と訴訟して勝ちたるは有名なる話なり。
其寛文年中に差出したりと云ふ由緒書及証文に於いては鎌倉に於いて頼朝より免許状を得たりと主張す。
かの宛名を頼兼と認めたる源氏の下し文なるものは、形式より判断して疑も無き偽物なり。
但ししょうしょう古き時代の偽物なり。

此下し文には我々が仮に非人の総称の中に包含せしめたる釘打鉢叩蓑作渡守其他二十九種の職業はおそらく彼が支配の下に立たしむべしとありて、穢多総取締の非常なる大勢力を示せり。

然るに田舎に於いては之と正反対なる慣行少なからず。

例へば鉢叩と同種なる茶筅又は鉢屋の類は一般に穢多よりは一段上の者と認められ、通婚はせぬ迄も相火(あひび)を忌まず、彼等も亦農作を営み人別帳は分離しても百姓同志の交際は公認せらるるあり。

南都奈良阪の「シュク」の如きは、穢多に臨むこといえども平人が彼等に対すると同じ位に威張り、今日は外見殆ど普通の小農に同じく、只甚だしく筋悪しとして縁談など六つかしきも、金銭の都合にては必ずしも之を避けず。

伊勢にても之と同様にて、曾て竹葉寅一郎君より受けたる報告には、「シュク」は特殊部落にては無之候とありき。

備中の「サンカ」は穢多と同視せられて大に怒りたり。
備後も福山領までは茶筅は一級上流と認められたれど、廣島領に入れば習藩の公募にては穢多と茶筅鉢屋とを区別することなく、芸藩通志には悉く之を屠者と記し、近頃内務省が受取たる調査書には某村革屋一名茶筅などとも見えたり。

斯の如く習慣は地方的に区々なれども、一般の感じより言へば先づ穢多を以つて最も低きものとするが如く、而も彼等の根源元は一つなりと言はば、双方ともに驚きて之に抗議を為すべきは今猶昨の如きなり。

 賤者考の著者其他此迄の学者にも稀には此区別に留意したる者あれど、其人々は必ず一々の部落が其名称を異にする毎に各別箇の由来あるが如く解するを常とす。

名称に基く推測には従ひ難きもの多し。

蓋し特殊部落の名称は未だ彼等の自称に出づと信じ得べきものあらず。
若し近郷百姓の付与したる名なりとせば、其他の方言と同様に地方的に区々なるは当然の事にして、之を以って一々の来由を推論するははなはだ困難なりと云ふべし。

「エタ」は「エトリ」の転訛とする通説の如きも疑を容るべき余地なきに非ず。

殊に某博士等の如く「エタ」は餌取なるが故に古の犬養部鷹飼部などの雑戸の末なりと云ふは速断なるべし。

倭名抄には「エトリ」は漢語の屠児に当り牛馬の肉を販ぐ者とあり。

是は寧ろ唐土の屠児の註脚なるべく、之に由って犬養鷹飼を想像するは恐らくは餌取の文字に拘泥したる説たり。

尤も今昔物語の「エトリ」と称する食肉法師の生活と後世の「エタ」の生活とは似たる点あるも、此とても外部よりの称呼なれば甲は乙の先祖とは言ひ難し。

始めて穢多の文字を用いたる師守記に依れば彼等が職業は井戸掘りなり。

語の上より見るも「エトリ」の「エタ」と移るは甚だしく不自然なり。

仮に説を立れば「エタ」は下級の巫祝の名たる「イタカ」又は「ユタ」或は薩州などにて婢女の通称とする「エダ」などと関係なきを保せず。

要するに彼等が生活上の他の諸種の特色をも併せて照するに非ざれば容易に基本源を定むること能はざるべきなり。



四

・・・東北などの人口の稀少なりし地方は別として、其他の場合には既に普通民の居住せる土地に後より来たり、其明示又は黙示の許容の下に土着せしものなるべく、若し公然荒野の開拓に従事せりとすれば、到底斯かる不利益の条件に甘んずべしとは考へられざるなり。




 更に他の点より観察するも、多くの穢多の土着は足利時代の末頃ならんかと思ふ由あり。

地方々々の小領主が武具兵器の製作原料として皮革角爪の類を其領内に供給せしむる必要を生ずるや、所謂皮作業の招致は始めて断行せられしなり。

軍備が統一するか又は平和なる交易の行はるる時代ならば郷毎に皮太を住ましむるの要なければ也。

而して此事実を証する文書は武蔵相模等に住々存在す。

思ふに兵例の結果として居民離散し荒蕪多く、天然の威力盛にして島又は川原は年々新生したれば、此等の地に皮作を土着せしめ皮革の課役を徴せしなり。

其後世の中太平と為り畜類繁殖するに及び、彼等の生計は又別様の便宜を得たり。

革類の需要減ずる頃には取棄料を添へて死獣を引取る慣行を生じたり。

死したる獣類の肉を食ふことは亦彼等が生活上の一便宜なりき。

他の特殊部落と比べて現在人口の多きは一には食料問題の解決が簡易なりし為ならん。

維新以降牛鍋盛に用いられ靴流行し、更に日清日露の戦役を経て大金持になりし穢多多く、従て其政治上の力も著しく加はりたれば、強ひて旧来の職業を廃せしむることは困難にして且不必要の観あり。



2006年07月17日(月) ○○水平社創立宣言 大正十三年(一九二四)四月拾日(奈良)


『水平社宣言』は複数あり、しかもそれぞれ、さまざまな人々の手により修正が加えられています。原文のビラは、黒地に白抜きでも、総ルビでもなく、また明らかに誤植と見られるものもあります。
子どもたちが社会科教材として目にする『水平社宣言』を仮に「全国水平社創立宣言」とするならば、以下は『○○(奈良)水平社創立宣言』の関係史料としてご紹介できるかと思います。



『奈良県同和問題関係史料』(奈良県立同和問題関係史料センター編,奈良県教育委員会刊,2002.3)より
大正十二年(一九二三)○○水平社の発会式の状況に関する松山警察署長報告
(大正十一年「水平社一件記録」県立奈良図書館所蔵奈良県行政文書)

機第八号
    水平社発会式状況報告

部内宇太村○○水平社発会式本月十日開会到候に付、郡書記をして実地視察せしめ候概況別記の通に有之、此段及御報告候也

    大正十二年四月十三日
                 宇陀郡長 新堂幸治郎 ㊞
奈良県知事 成毛基雄殿

    記

本月五日学第四二号の三取敢ず報告致置候宇太村○○水平社は、本月十日発会式を大字古市場旭座に於て挙行せり、来聴者約参百五十名にして劇場満員の盛会を極めたり、講演弁士は全国水平社総合本部執行委員長南梅吉外六名にして何れも部落民の解放、差別的階級打破、水平運動の意義精神並に方法等に関し、各々最も熱烈に最も深刻に最も徹底的に説きたり、午後十二時○○水平社万歳を三唱して解散せり
要は部落民の一致団結以って参百万民衆は健全なる水平運動を敢行し、大に解放の天地を開拓せんとするの外無之、口演の要点は別紙の通りに有之候

   演題

 題目       氏名       備考

 開会の辞       藤岡治一郎       ○○青年
 改善か団結か       広岡豊一郎
 同       丹波増次郎       京都水平社
 水平運動の一考察       米田 富       総盟本部
 水平運動の所感       南 梅吉       中央委員
 我等の歴史       阪本清一郎       総盟本部
 偶像本願寺を倒せ       福本義乗       □□水平社
 無題       山本平吉       △△水平社

   口演要領

一、開会の辞       藤岡治一郎
 水平社創立の主義を述べ、別紙綱領並に宣言を朗読せり(別紙添付)
 而して明治大帝は明治四年に四民平等の布告せられたるに不抱、未だ一般社会は我等同族を穢多、特種部落、新平民と侮辱しつつあるを遺憾とし、水平社なる団体の結合に依り解決し、御詔勅の御主旨を貫徹するの運動である旨を述べたり

一、改善か団結か       広岡豊一郎
 歴史を顧ふに昔の穢多は新平民となり、新平民は特種部落となり、特種部落は後進部落となり変遷し、昔日に変りなく虐げられつつあり、而して虐げられる理由はトラホーム患者の多いこと、不潔であること、職業が悪いこと、貧乏人の多いこと等に依り圧迫せられつつあり、我等が小学校入学中より一般生徒より新平として侮辱せられ、常に之れが為め勉強を妨げられ、終に身を立てることも出来ない惨な境遇に在るのである、当局者は施設改善を絶叫するも未だ其効果の認むべきものなし、故に我等同人は之を自覚し、昨年三月三日京都市に於て全国水平社なるものを組織し、之れが水平運動を起こしたのであつて、我等同人の当然なる要求にして決して不穏とか、過激とか言ふものでない事を痛論せり

一、改善か団結か       丹波増次郎
 水平運動は之を物に例へて説かんに、此の国家を一大工場として大小二個の機械に依り運転するものと仮定せば、大なる機械は一般民にして小なる機械は我等同族なり、然るに大なる機械には油を注ぐも小なる機械には油を注がず、只塵芥を刷毛にて掃ふのみ、然らば必ずや其機械は破壊するより外なし、而して小なる機械破壊し独り大なる機械完全なるを得ん、為政者は我等六千の同族部落に対し改善費として四十九万円投したるは甚だ多額なるが如きも、之を調査せば一人平均僅に弐拾五銭に不遇、斯の如き少額を以て何をか為し得ん等、徳川五代の大保護の政事に対比し痛論せり

一、偶像本願寺を倒せ       福本義乗
 欧州戦乱終局を告げ、巴里に於ける平和会議に我国より人種差別撤廃問題を提出したるに、我国内に於て今に人種の差別あるに此の会議に提出するは先以て国内より改むべしとて容れられさりしは我等の頭脳に深染して不滅、而るに今尚有識者に於て部落民の解放を叫ぶも一片の温情なく、水平線以下に為し居るに非すや、誠に痛ましき事なり、甚も生を此世に受けたるもの何の差別かある、然るに数千年来の伝統的観念に外ならず、故に此誤れる因襲を打破し、四民平等の権利を獲得せんとするに外ならず、我々同族は殆ど真宗にして其開祖親鸞は此の真理を提けて布教したるに不抱、金銭の多寡に依り僧位を定むる如きは絶対に信頼する不能を絶叫せり

一、吾等の歴史と題し       阪本清一郎
 私達の歴史を按ずるに、我等同人は社会一般より何等侮辱を受くべき理由は一も発見する事は出来ない、只伝統的慣習に外ならず、而して一般民と我々とは血族上何等の差異あることなし、然るに我々を侮辱する口実として

 第一我々同族は朝鮮人の帰化なりと
 第二言葉が野卑なりと
 第三教育の程度が低きこと
 第四衛生思想が乏しきこと
 第五貧乏人が多いこと
 第六職業が悪いこと

 右各項に対し一々詳細なる反駁を加へ吾々は一致団結して之れが解決に突進し、其貫徹を期せんことを論じたり

一、水平運動の所感       南 梅吉
 十二年間部落改善に努力したるも何等其効を奏せず、現時は改善に非ず解放にあり、三月水平運動の為各大臣並に当局者を歴訪したる経過を報告し、併せて各大臣並に当局は水平運動に共鳴せる等を述べ、極力徹底的に之れか運動を為すべきを述べたり

一、無題       山本平吉
 全国小学校に於ける児童及び職員中、我が同族児童に差別的言動を為したるものは最近数十件あり、其過半は水平社に依りて解決せり、先年目下初瀬町附近に居る巡査杉山某妻が香具山小学校在職中、補習科生徒に割烹の教材として各自より鮨の中に入る煮物を携帯すべきを命じたり、各生徒の母姉は相当苦心して持参せしめたるに、其先生は一般民の子女の提出せる煮付を試食したるに、我等同族の携帯せる煮付物は一片たも試食せず、翌日に至り同族の子女は何れも登校を肯せざるに依り其事情を糺したる所、鮨云々の件発見せるにより直ちに学校に行き其不心得を詰りたるに校長は耳を貸さず退席したり、時惟も大正村の事件勃発するや校長は蒼蒼事実の調査を為し、手続の結果僅々三ケ月にして恩給年限に達する身にありしを懲免せられたる当然と言ふべし、而して警察官の妻にして猶且然り、他は推して知るべきのみ、故に我々は一致団結して差別の撤廃を絶叫せざるを得ざることを論ぜり

                             
一、水平運動の一考察       米田 富
 皮相の見解は危険なり、故に水平運動なるものの理解を得んが為め、其徹底を加ふべく滑稽的演説を為せり、其要点差別撤廃にして前同様なり

「翌朝、登校を集団ボイコットした△△ムラの女の子らはたくましいな。その中に、ダブルくんのひいおばあちゃんもいたかもしれないんだね」と、後日、パパにもたずねてみましたよ。


難しい漢字、言葉の羅列のイメージでとらえられやすい「水平社宣言」ですが、学校での児童の差別的待遇等が具体的に表現されているこの身内の地域の史料が補完されることによって、ひとりでも多くの人に人間的理解を深める上でも影響をお与えすることができたら幸いです。






※関連詩

 ほんまに本気で
  やっているのけ

 奈良・○○支部 山の子子ども会


 先生、おいらは今の同和教育きらいやぜ。
 先生はほんまに本気でやっているのけ。
 学校でせんなあかんさかいやっているのとちがうけ。
 おいらの兄ちゃんや姉ちゃんを教えていた時分の先生は、
 ○○をきろうとったやないけ。
 その同じ人間が急に今になって同和教育、部落解放っておかしないけ。
 先生どうしてかわったんぜ。
 それわかるまで、おいらは同和教育きらいやぜ。

部落解放詩集『太陽もおれたちのものではないのか』(部落解放詩集編集委員会 編 解放出版社 1980.8)

奈良・○○支部では、そこの青年たちが中心となり、集団主義思想(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)に基づく楽しい子ども会活動の指導にあたりました。そこから育った中学生たちの中に、この詩にあるような、「同和」教育を長欠・不就学対策などで地域へ出かけることと解していた一部の教師集団に対する叫びが生まれてきたのでした。



2006年07月16日(日) 奈良県の毛皮革業 


*『大和百年の歩み』商工編 編集;大和タイムス 昭和46年11月10日 株式会社 大和タイムス社 より *


 奈良県の革製品加工業は、グローブ・靴・鼻緒等全国的にも大きな地位を占める。しかし、製革業は明治維新後もあまりふるわず、近代的工場としては、明治二十九年、陸軍命令で設立された高田市市場の守道皮革製造所がほとんど唯一のものであったが、これも昭和十七年の企業整備で姿を消していった。
 
 こういった状況の中で、宇陀郡菟田野町□□における毛皮・鹿皮製革だけが、その命略を保って発展してきた。現在、毛皮業者八、下請け業者二十、鹿皮業者十、計三十八を数え、毛皮製作に従事する者五十人、毛皮製革後クビマキ・チョッキ等の縫製に従事する農家主婦の内職者六十人、鹿皮なめしに従事する者百五十人、計三百六十人。出荷額にして乙年産五億円と聞く。

 岩崎における毛皮生産の起源は明らかでないが、江戸期に小作農の副業として始まり、本業としてこれを営む者が現れるのは、明治も十年代のことであったという。
 発展のようすはわからないが、生産される毛皮のほとんどは兎の皮であり、一部狐もあつかっている。
 年産数量百万枚、原皮 兎はフランス・ドイツ産、狐はソ連・中国・アメリカ・カナダ産のアカ・ベニ・アオ・ギン狐を使用する。・・・

 目下原皮は、□□だけで年間三十万頭購入しているといわれる。ブラジル・タイ・西ドイツ・アメリカ・カナダ・インド・中国産のものを、商社を通して、あるいは現地との直接取り引きによって購入する。ブラジル産は袋物、タイ産は武道具、中国産小鹿はセーム皮に適している。製品比率ではセーム皮七割、武道具用白張二割、手袋・ピアノ用に染色されたもの一割である。ピアノ用は浜松へ、手袋用は香川県白鳥、三本松へ「売りの買い」という方法で、あるいは賃請けさせるという方法で送り、製品となった手袋を返送させ、問屋に売るという方法をとる。

 副産物としての鹿皮は、これを専門に刈り取る職人がおり、友禅染刷毛用として京都へ、毛筆用としては特産地は広島県熊野町、近くは奈良市にも送られる。屑皮は膠の原料として御所市へ送る。膠原料以外の屑皮は従来窒素肥料として売れたが、化学肥料の進出で需要が減った上、売り値が下がって屑皮乾燥に要する人件費を考えると採算がとれなくなり、その処理に困っているのが現状である。




『菟田野町史』(菟田野町史編集委員会編,菟田野町役場,1968)より

*藤岡勇吉*

父治右衛門の長男、安政元年(一八五四)三月二十一日生れる。
質性剛健、村人の信望篤く、明治三年一六才にして父を亡くし家業の筏藤(吉野川の筏に使用する藤)問屋を継ぐと共に、取引先の吉野地方の狩猟家より、狐、狸、イタチ、テン、鹿等の原皮を買い集め、大阪の商人と取引を始めた。
商機をみるに敏捷な性格は、この地においてこれら毛皮、皮革のなめし製造を思い立ち、明治二十三年(一八九〇)三十六才にして、伊賀、伊勢、京都方面から毛皮なめし職人数人を集め、初めて小工場を営んだ。
当時製品は「たつっけ」(伊賀袴)として白皮状で京都大阪三重方面に出荷され、大正期に入って原皮は主として大阪の堀江川口や神戸の南京町等より朝鮮、中国、タイ産のものを仕入れ、和弓の武具用として全国の武具店に、甲州印伝袋物用として甲府、東京等に出荷された。
明治四十四年剣道が中等学校正課に、大正元年日本剣道型制定等剣道ブームにのって、事業は順調に伸展した。
現在、町内五十余の毛皮及び皮革の製造加工業者あり、年産約五億円とする大きな産業に発展したその基盤を築いた。
大正六年(一九一七)十月七日六十四才で没した。

生前建立の成功碑(藤岡義男氏邸にあり)に左の銘を刻む

 勇吉姓藤岡家、安政元年甲寅参月弐拾壱日生 明治参年七月父治右衛門ニ別ル其後 々乎再興家政而於是祝還暦譲代男作太郎

 大正弐 癸丑 歳拾月自建之


二代目勇吉(本名作太郎・勇吉襲名)は大正弐年家業を継ぎ、益々事業を進展せしめると共に、昭和十七年五月旧宇太町役場(現西部公民館)を建設(木造瓦葺二階建・延九十八坪)し、之を宇太町に寄贈するなど公共に尽くした。昭和二十七年(一九五二)六月十四日六十一才で没した。







*『江戸期における部落への史的関心』盛田 嘉徳 (モリタ ヨシノリ) *
『近世部落の史的研究(上巻)』解放出版社、一九七九年六月 所載)

 一九世紀に入ってからも、餌取り説がもっとも有力で・・・みな同じように「倭名類聚鈔」を引用して述べ・・・餌取り説は、要するに職業起源説であり、また触穢説でもあって、屠食、皮革加工などと結びついて理解されていたので、それらの諸点からの考証的な研究が、一九世紀になってようやく始められることになる。・・・

 滝沢馬琴(『燕石雑志』、一八一〇)は、餌取り説を踏襲しながらも、白話小説の広い知識から、中国では屠児は単なる職業名にすぎないのに対して、エタは身分を意味する点に疑問を残している。・・・

 国学者石原正明(『年々随筆』、一八〇一)は、・・・触穢について考証を試み、その中で肉食の穢を検討した結果、「肉をほふるも、皮をはぐも」肉を食うのも、嫌悪にはならぬのではないかと考えるに至り、部落の触穢起源説を疑っている。






 明治・大正期に論ぜられた起源説のほとんどの原形が、幕末までに出つくしている観がある。・・・江戸時代における部落の史的解明は、着眼の違いはあっても、目標とするところは、つねに、差別の理由づけと支持に置かれていた点では一致していた。







*『菟田野町史』(菟田野町史編集委員会編,菟田野町役場,1968)「民俗」より抜粋*

人の一生
 
 妊娠から出産へ

 妊婦の食物と禁忌
妊娠中には妊婦のしてはならぬこと、食べてはならぬものが多かった。食物では、四ツ足のウサギを食べると三ツ口やス口の子ができる

(姫だるま注:ともに、古めかしい侮蔑的な言葉で、口唇口蓋裂〜こうしんこうがいれつ〜が適切な名称。また、口唇口蓋裂は先天性の障害であり、ただ単に、口輪筋および口蓋の組織が合わさらなかった、もしくは妊娠中にある組織が融合しなかっただけ。口唇口蓋裂についての正確な情報はコチラのサイトでhttp://www.widesmiles.org/)。

牛の道具(クラ)をまたぐと、頭の毛がギリギリの子ができる。火事を見ると胎児の顔に赤アザ、大水を見ると白アザが出る。また出産まで立腹したらいかぬとか、高いところへ手を伸ばすと、腹の胎児が手を放すといって恐れる。

 ヨナとアトザン
アトザンはサンバさんがきちんと包み、ヨナバカに埋める。ヨナは日の当らぬ、人に踏んでもらえる所へ埋める。またラントウ場へ埋め、親がまたいでおく。ほかにヨナステバというのがところどころにある。踏んでおかぬと、どういうことになるかといったことは聞けなかった。


 予兆と臨終

 死の禁忌
人間は本能的に死ぬことを避けたがる。そのため日常生活から死を遠ざけなければならない。故に次のような禁忌をわきまえ、心がけ、かりそめにもおかさないように努めねばならぬ。
植物=屋敷内へイチジク・シュウロ竹を植えるといかぬ。これはシュロは人間の血を吸うためという。椿も悪く、首から上がモゲル(椿の花の落ちる状態をさしている)。
方位=家の鬼門に穴を掘ったり、クイを打ったり、増築したらいかぬ。

 出棺の準備
 人形ダカセ
出棺が友引の日に当ると、シブトに人形を抱かせて二人のテイになぞらえる。そのほか友引には出棺を夕方にのばすのが多い。


ワイドスマイル(口唇口蓋裂)

ワイドスマイル日本語版より



第3回沖縄平和賞 ラオス口蓋裂センターに

 アジア太平洋地域の平和・非暴力活動に貢献した個人・団体を表彰する沖縄平和賞の第3回受賞者として、県は1日、沖縄・ラオス国口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)患者支援センター(西原町、仲真良性(りょうせい)会長、会員203人)を選定した。同日午後、稲嶺恵一知事が発表した。同センターは県内の歯科医師を中心に1995年に設立、琉球大医学部歯科口腔(こうくう)外科教室と連携して東南アジア諸国で多くの事業を展開、中でもラオスの口唇口蓋裂患者に多数の無料手術を行い、社会参加を促している。稲嶺知事は「沖縄の相互扶助精神を表すもので、人間の安全保障促進に貢献している」と評価した。授賞式は10月13日、名護市の万国津梁(しんりょう)館で行われる。
 沖縄・ラオス国口唇口蓋裂患者支援センターは当初は沖縄歯科口腔外科学研究振興会として発足。2000年から中国やベトナムで医療援助を開始し、01年からラオスで口唇口蓋裂患者に無料手術を行う一方、ラオスに治療器具などを贈呈している。
 ラオスは内戦の痛手から復興しておらず、多数の患者が十分な治療を受けていない事情がある。県は、沖縄と同様の戦争被害のある国での支援を高く評価。社会的に差別を受けている人々への支援が希望を与えると評価した。琉球王朝時代の1689年に高嶺徳明が国王の口唇裂を治癒させた歴史も念頭にあった。
 沖縄平和賞は2年に一度、アジア太平洋地域の平和実現に寄与した国内外の個人・団体を顕彰するもので、賞金1千万円。02年の第1回受賞者はアフガニスタンで医療活動に取り組む中村哲医師を支えるペシャワール会。04年の2回目は日本初の国連医療NGOであるアムダが受賞した。
 今回は59候補が挙げられ、2回の選考委員会(委員長・有馬朗人日本科学技術振興財団会長)を経て7月24日、同委員会が全会一致でラオス口蓋裂患者支援センターを選定、28日に稲嶺知事に報告していた。
(琉球新報) - 8月1日16時31分更新


掲示板より★ 2004/03/29(Mon) 22:26




ワタシは「アザ」
いまでは「シミ」に。

化粧
皮膚移植
・・・
当時から いろんな選択肢が あるものではあった

母と一緒に
専門家の方々の話を 伺って回るうち

最終的にどうでもよくなった

以来、言いたい人には言わしておけと


みんなそうなれるとは限らないが


ただ
ワタシが「強く」なったわけは
気の済むまで 母と さまよったからだったなと


こうしんこうがいれつの母子も
くじけるな


by 姫だるま








 ほんまに本気で
  やっているのけ

 奈良・□□支部 山の子子ども会


 先生、おいらは今の同和教育きらいやぜ。
 先生はほんまに本気でやっているのけ。
 学校でせんなあかんさかいやっているのとちがうけ。
 おいらの兄ちゃんや姉ちゃんを教えていた時分の先生は、
 □□をきろうとったやないけ。
 その同じ人間が急に今になって同和教育、部落解放っておかしないけ。
 先生どうしてかわったんぜ。
 それわかるまで、おいらは同和教育きらいやぜ。

部落解放詩集『太陽もおれたちのものではないのか』(部落解放詩集編集委員会 編 解放出版社 1980.8)

奈良・□□支部では、そこの青年たちが中心となり、集団主義思想(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)に基づく楽しい子ども会活動の指導にあたりました。そこから育った中学生たちの中に、この詩にあるような、「同和」教育を長欠・不就学対策などで地域へ出かけることと解していた一部の教師集団に対する叫びが生まれてきたのでした。





あ○るさんご紹介ありがと

HP『人権ステーション』
bbs“百家争鳴”
(渕本稔氏)

(また茶しばきにいこーねっ)



2006年07月10日(月) 部落出身者中心



 ワタシには、「部落問題は部落出身者が中心」だと、部落研という組織で頭にたたきこまれた歴史があります。

 それで、部落出身者中心主義を見直そうという意見を耳にすると、警戒心を抱かずにはおれません。

 しかし、ワタシに歴史があるように、そう意見を述べる人にも歴史があるのですね。



 「部落出身者中心」は、具体的行動を、常に問題にしてきました。

「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」とも言えない人、またはその裏返しである「どうせやっても無駄(部落差別はなくならない)」と考えている人を中心にします。そういう人の立場に立ちきります(見捨てないのです)。

 しかし現在は、「部落出身者中心」は、「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」(「部落排外主義」といいます)と言う人を中心にすることだという批判が出ています。
 
 部落出身者(被差別マイノリティ)に対する不信がそれだけ強まっているのでしょう。


 「かけがえのない生命(いのち)を大切に」という魅惑的な言葉があります。「部落出身者中心」は、「部落解放運動の原点」とも言われてきました。ワタシにとっての「部落出身者中心」は、「解放運動の生命(いのち)」と言い換えた方が通じやすいかもしれません。




 さて、部落出身者にとっては、「部落出身者中心」は、「自分たちのことは、自分たちで語りたい」(これを難しい言葉で「融和からの脱却、自立」といいます)という根源的要求に当ると思います。

 これは部落問題に限らず、昨今の状況を見るに、セクシュアル・マイノリティ問題や「障害」者問題、他の人権問題でも、譲歩することのできない「生命」に当たっているのではないでしょうか?

 そういう視野でもって、「部落出身者中心」を再評価してみることを、まだやり残しているようにも感じます。
 
 それから、「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」という意見に対し、部落研の友人たちは、「あとから生まれてきたということは、それを乗り越えるということや」と言っていました。「部落出身者は近道にいるだけ。部落問題はみんなの問題」、「自分は部落差別を肌で感じているから、他の差別もしない」と部落外の人間に対して言っていました。「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」という言葉には、彼ら(部落出身者)も傷つく、ということを了解いただきたいと思います。


 被差別マイノリティに対する不信が強まった原因は何でしょうか(何があったのでしょうか)?

 人それぞれだと思います(言えない場合もあると思います)。

 ワタシには、それをお認めする勇気と懐の深さがまだまだ必要なのです。
 





ご参考までに♪



2002/11/24 (日) 『最後のひとりの立場に』

 あのぅ、ボクんち 部落問題関連の本 全然ないんですけど。
 実はこちらへ引越してくる際全部 行方不明になってしまって(ボショボショ)
 図書館行っても 偏ってますねぃ。棚の2/3が ある政党のもの(みなさんとこは どない??)
 この先 興味を持っても、買うか児童館や解放会館で立ち読みするしかないんかぃ。

 こちらでは、かつての支部長さんの刊行物『最後のひとりの立場に』が ハハの超お勧め本ですわ、てか。ボクは それを読んだら 思うんかな。
 
 部落解放運動のめざすものは あらゆる差別の「減った」世の中だと言う人は、差別にあった人が あと何人になったら「減った」というのだろうと。
 
 部落解放運動のめざすものは あらゆる差別の「無い」世の中だと掲げ続ける意味は 別の次元にあって 差別にあった人を 最後の一人まで切らない(見捨てない)という意味なんだって。人を切るか 切らないかの次元で 話している。差別はなくなるか なくならないかの次元で 話しているわけではなく。

(社会学的には、人は 他者を排除することによってアイデンティティーを保つというね)そこさえきちんと押さえていれば「めざすものは 差別の減った世の中にしておきなさい」と、他人が口をそろえて言っても ボクは 惑わされないのかもねぃ。
 ったく、どうしてこの本、図書館に置かないんだ。(ハイ、注文してみまふ)
 
 差別にあって助けが必要な人は 最後の一人まで切らないという意味なので、ここの支部の活動も 見ている範囲では 昔も今も 子どもを守る仕事が ちゃんと中心に据えられていると思う。
 差別にあって助けが必要でない大人はいるかもしれないが 子どもは いないから〜。
 
 親がしょっちゅう 蒸発するある兄弟は 朝 寝過ごすので、学校を欠席しがち。身寄りは オジイチャンがいるにはいるのだけれど。
 早速、支部の大人や大学生 出動して、起こしに行き始めた。子どもは、何とか 一人で起きられるようになったと 思ったら またしばらくして 学校を休みだして の繰り返し。

 しかも、もし、学校から家に連絡が入り、オジイチャンにこのことが知れたら、兄弟はどんな目にあうか(オジイチャンは厳しい人だということだった)。学校との連携も必要不可欠だった。

 はたで見ていても 兄弟がちゃんと登校するか角で 支部の人と学生が 車の中から見張っているというなかなか 大変な業務。
 
 ハハも その子のピアノの先生をどうよとみんなに持ち上げられ しばらく 児童館のピアノ開けて 兄弟と 交流持てたんだよ〜
(ハハはいいとこ取りでした)。

2002/11/24の日記より


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