午前四時。目覚めたばかりの時間に
脳もしくは心はどのようなカタチをしているのだろう。
明るく朗らかな笑顔を見せているのだろうか。
夜が明けるのを待ちわびてわくわくしているのだろうか。
そんなことはあり得ないのではと私は思う。
今朝もいつものように詩のようなものを発信したが
例のK子さんから「前向きで好きです」とコメントがあった。
つい先日、私に発信を止めるようにと言ったあのK子さんがである。
正直言って嬉しさよりも戸惑う気持ちの方が大きかった。
確かに今朝の詩はいつもより明るい詩だったのかもしれないが
特に意識して書いたつもりはなかった。
私は背伸びもしないし無理もしない。もちろん格好もつけない。
その日によって気分の浮き沈みはあるけれど
いつだってありのままの自分と向き合って来たつもりである。
それが不快だと言ったK子さんのことを憎むつもりはないが
ずっと尊敬していただけに少なからず不信感が沸き起こって来ていた。
もしかしたらこれがSNSの落とし穴なのかもしれない。

今日は二週間ほど前に亡くなったお客さんのお宅を訪ねた。
いつも私のことを「姫」と呼んでくれ可愛がってくたのだった。
抗がん剤の治療中にコロナに感染し後遺症に苦しんでいたらしい。
明るくて朗らかな人だっただけに亡くなるとなんとも寂しいものだ。
けれども笑顔の遺影と向き合っていると泣いてはいけないと思う。
奥様と思い出話をいっぱいして手を握り合って帰って来た。
「遅かれ早かれ」といつも思う。死はとても身近なことになった。
カトリックでは永遠の命を信仰しているらしいが在り得ないと思う。
信じているから死を怖れないのだろう。常人には考えられないことだが
信仰は自由であり誰にもそれを否定することは出来ない。
仏教では「定命」と言って生まれた時からもう死は定められている。
しかし誰も自分の定命を知らない。だからこそ「いま」を生きる。
私は40代の頃からずっと死を怖れて来た。
明日死ぬかもしれないとどれほど思ったことだろう。
でも死ななかった。そうして今もかろうじて生きている。
生きているうちにと焦ることもある。
こうして書くこともそのひとつなのであろう。
最後の最期まで書かせて欲しいなどと言えば滑稽なことだろうか。
それでもそう言わずにはいられなかった。
「また明日」それはいつも奇跡のような言葉である。
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