二十四節気の「立夏」暦の上では夏の始まりとされ
緑がいっそう濃くなり陽射しが眩しくなる頃である。
川向かいのパン屋さんの庭にそれは見事な藤棚があったのだが
今日前を通るともう藤の面影さえ見えなかった。
立夏を知っているかのように儚く散ってしまったのだろう。
何だか目の前に「現実」を突き付けられたような衝撃を感じる。
散ってこその夏である。夏の花は何処で息をしているのだろう。
入院中の義父からは連絡がなかったが落ち着いているのだろうと
敢えてこちらから電話もせずに一日が暮れてしまった。
もう少しの辛抱である。順調に快復することをひたすら願うばかりであった。

連休も3日目となれば苦痛としか云いようがない。
一日の何と長いことだろう。
今日は気分転換を兼ねて夫の夏物のズボンを買いに行く。
余程思いがけなかったのか夫は子供のように喜んでいた。
定員さんにウエストを測って貰ったら何と100センチもある。
大きいサイズの専門店ではないので探すのに一苦労であった。
若い男性の定員さんが二人係で探してくれてやっと見つかる。
裾上げは無料で助かり20分程で仕上がった。
夏用の帽子も買う。我が夫ながらよく似合っていて惚れ惚れとする。
ズボン二枚とベルト、帽子で5200円の安さであった。
私の衣服と比べると何と安上がりなことだろう。
その上に夫が上機嫌となれば大きな得をしたように思う。
その上機嫌を良いことに昼食を誘ったら直ぐに了解してくれる。
西へと車を走らせ「一風」でいつものラーメンセットを食べた。
最近食が細くなった夫はやっとの思いで食べたようだ。
大食いの私には丁度良い量で何とも幸せな気分である。
「これで連休はおしまい」と思わず呟いていた。
欲を云えばきりがないのだ。これ以上望むことなど何もない。
帰宅後はひたすら眠る。久しぶりに母の夢を見た。
一緒に仕事をしている夢だったが言い争うことはなかった。
ほのぼのと穏やかな夢で母が懐かしくてならない。
「こどもの日」でもあり娘達はかつての海苔の作業場でBBQとのこと。
作業場は娘達がすっかり手を施しもはや別荘のようになっている。
生け簀もあり伊勢海老やアワビも育てているのだった。
あやちゃんは例の如くでお留守番であったが
部屋の灯りも点けず毛布にすっぽりと包まっていた。
その姿があまりにも憐れに思い声を掛けたが
「行きたくないけん行かなかっただけじゃん」と荒い声が返って来る。
娘達も最初から諦めており誘うこともしなかったのだ。
けれども誘ってやって欲しかった。それが老婆心である。
あやちゃんは寂しいとは一言も云わないが本心は誰も知らない。
背中を押してはならないが背中にそっと手を載せてやりたいものだ。
※以下今朝の詩(息子が初めて歩いた日のこと)
こどもの日
はじめて歩いた日は 土手の緑が萌える頃 そよ吹く風に支えられ ひよこのように歩いた
きみの夢は何だろう おおきくなったらね 未来は空のように広く 果てしなく続いている
苦労などさせたくはない 涙を流す日がないように 母は祈り続けてきたのだ
よちよちと歩くその一歩が 希望でなくてなんだろう
きみは空を仰いでいた きらきらと輝く瞳には 初夏の風が見えるようだ
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