ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年06月11日(水) 栗花落

霧のような雨が降ったりやんだり。

気温は25℃程であったが不快な程の蒸し暑さであった。

雑節では「入梅」栗の花が落ちる頃とされ「栗花落」(つゆり)ともう云う。

栗の花を多く見かけるが落ちるのではなく散るのだと思っていた。

毎朝の山道でも落ちている栗の花をかつて見たことがなかった。

それにしても日本語の奥ゆかしいこと。

私のように学のない者にはとても新鮮に心に響く。



仕事は予想通りの忙しさで車検が2台入庫する。

一台は建設会社のダンプカーで予約なしの飛び込みであった。

既に車検が切れており大至急仕上げて欲しいとのこと。

上得意の建設会社なので優先するべきだが

予約のお客さんを後回しにすることは出来なかった。

「何とかならないか」と義父の機嫌が悪くなる。

同僚一人ではとても手に負えない有様であった。


義父の小言は続き挙句には同僚を蔑むような言動をする。

私が庇えば増々機嫌が悪くなるので絶対に反論してはならない。

義父が手伝いさえすれば済むことだが口が裂けても云えなかった。

一生懸命に精を出してくれている同僚が憐れでならない。

私のストレスなど些細なこと。同僚のストレスはもっと大きい。


義父がハウスに出掛けたのでその隙に逃げるように帰路に就いた。

明日を思い煩うことなかれである。きっと何とかなるだろう。

帰宅すればめいちゃんが発熱で学校を休んでいたらしい。

昨夜から熱があったらしいが娘は何も云ってくれなかった。

コロナの心配もあったが病院には連れて行かなかったそうだ。

「ただの風邪やと思うよ」とケロッとしている母親である。

あまり心配し過ぎてもいかず明日まで様子見であった。

幸い熱は下がっているようで今夜熱が出なければもう大丈夫だろう。


孫達が幼い頃には発熱はしょっちゅうのことで

仕事を休めない娘の代わりに私と夫が小児科へよく連れて行った。

それが当たり前の頃があったのだ。随分と遠い日のことのように思う。

今では熱があっても知らせてもくれなくなり寂しいことである。


いつものように夫と先に夕食を済ませた。

私はもう6人分の食器を洗うこともなくなり楽になったが

ひとつ屋根の下に暮らす別々の家族のようである。

それはこの先も続くだろうしやがては別居も在り得るだろう。

その覚悟はもう出来ておりもういつでも構わないと思っている。


同居を始めてもう直ぐ11年になろうとしている。

いつまでも昔のままではいられないのだ。


※以下今朝の詩

  
         試練

     もう幾日目の雨だろう
     止まない雨は在りもせず
     終らない梅雨も在りはしない

     紫陽花は艶々と輝いているが
     梔子は錆びたように枯れる

     雨の季節を生きることは
     試練でもあるのだろう

     空の顔色を窺いながら
     負け惜しみのように呟く
     いくらでも試しなさいと

     項垂れた野花であろうか
     泥濘の地に埋もれながら
     食いしばっている命であった

     雨だからこそとおもう
     雨だからこそ生きている





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