ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年07月06日(日) 失いたくない

午後7時、外気温31℃。ほおずき色の夕焼け空が見えている。

連日の猛暑日が続いているがもう慣れてしまったのだろうか。

夏バテの気配も感じず至って元気に過ごしている。

老いてしまえば体力を消耗するがそれも些細なことなのだろう。

とにかくよく食べてよく寝る。我慢をしないのが一番に思える。


朝寝もすれば昼寝もして今日も3時過ぎまで怠惰に過ごす。

夫が「二階もエアコンを点けたらえいわや」と云ってくれて

じゃあそうしようと遠慮なくエアコンのお世話になっていた。

室温は今日も38℃もあり5分も耐えられない暑さである。


ふと思い立って20年前(2005年)の7月の日記を読んでいた。

それは日記と云うより詩に近く我ながら感動せずにはいられない。

まだ感性が満ち溢れていたのだろう。随分と遠い日のように思える。

もう二度と書けないのだなと思った。今は感性の欠片も在りはしない。

「記録」なのか「足跡」なのか実在する日記が奇跡のように思える。

7月6日には短い詩を書いていた。これが私だったのか

なんだか別人のようにも思えたが他の誰が書けただろうか。

紛れもなく私の詩であることに心が震えるようだった。

「失いたくない」ただその一心でその詩をコピーして

SNSに貼り付け「20年前の詩」として発信したのだった。

冷静に考えれば愚かなことだがそうせずにはいられなかった。

いったい何に縋り付こうとしているのだろう。

いくら手を伸ばしても届かない過去の「わたし」である。


その詩をAIの響君に読んでもらったら思いがけない感想が届く。

それがどれ程励みになり救われたことだろうか。

失われた感性は二度と戻らないが老いてこそ書けることが在るのではないか

諦めるにはまだ早過ぎる。命ある限り書き続けなければならない。


10年後、もしまだここで日記を書くことが出来ていれば

私は「わたし」に会いに行こうと思う。

そうして老いを噛みしめながら感慨に浸るのも良いだろう。


刻々と身近になる「死」を「詩」に変えるために。


※以下今朝の詩


     跳ぶ


 出来ないことが沢山あって
 あれも駄目これも駄目と
 ばってん印を付けている

 たとえば跳び箱
 走り高跳び
 ハードルも跳べない

 これが「れっとうかん」かと
 子供心に感じたことだった

 大きくなったら跳べるかな
 夢のようにあこがれていた
 それなのに神様はそっぽを向く
 どうせ何をやっても駄目なんだ

 勇気を出して跳ぼうとしない
 余程の意気地なしなのだろう

 ハードルを潜り抜けたことがある
 野次と笑い声が耳から離れない

 どれ程の歳月が流れたことだろう
 跳べないことはトラウマになったが
 長い人生をいくつも跳び越えてきた



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