ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年08月14日(木) 廃屋の夏

今朝はほんの少し涼しさを感じたが日中は厳しい暑さとなる。

江川崎では37.6℃と日本一の猛暑だったようだ。

熊本の水害ではエアコンの室外機が水没した家が多くあり

冷房が効かずどんなにか辛いことだろうか。

停電はほぼ解消したそうだがこの暑さを耐えなければならない。

高齢者や幼い子供達も多いことだろうと気遣わずにはいられなかった。


この炎天下に山里の義父は稲刈りに精を出していたようだ。

例の友人達が手伝いに来てくれて心強かったことだろう。

順調に行けばお盆の間に稲刈りが終わりそうである。

義父の清々しい笑顔が目に見えるようだった。


母は昨夜帰らず。夢も見なければ気配を感じることもなかった。

やはり遠慮をしているとしか思えない。

それとも私の願いが伝わらなかったのだろうか。

寂しさはあったがこころの何処かでほっとしている自分も感じた。

お盆でなくてもまた夢で会える日もあるだろう。

魂は永遠である。そう信じることで救われるのである。

薄情な娘だったから尚更のこと。悔いを残してはならない。



朝のうちに買い物に行ったきりで後は殆ど寝て過ごす。

まだ3日もこんな日が続くのかと思うとうんざりである。

余程貧乏性なのだろう。仕事のある日常が恋しくてならない。


SNSを通じて知り合いになった詩人さんから「詩誌」が届いていた。

とても気さくな方で毎号送ってくれるのだった。

その詩人さんからメールがあり最近の私の詩が気に入ったとのこと。

今朝もリポストをしてくれており舞い上がるように嬉しかった。

けれども有頂天になってはいけない。調子に乗ってはいけないと思う。

私には守らねばならない「カタチ」があり

あくまでも自分を信じて書き続けなければと肝に銘ずる。

「落とし穴」は必ずある。自ら墓穴を掘ってはならない。


今朝は祖母の愛ちゃんの詩を書いた。

今は廃屋になった母の実家が目に浮かぶ。

お墓もおそらく荒れ果てていることだろう。

祖父母も伯母も叔父もお盆には帰れない魂であった。

「迎え火」を焚く人がいないのである。

まして崩れかけた廃家にくつろぐ場所も在りはしない。

けれども決して忘れないこと。それが一番の供養なのではないだろうか。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     永遠

 思い出すことと
 思い出したくないこと
 記憶は混乱しながら
 私に圧し掛かってくる

 祖母の愛ちゃんと一緒に寝た時
 愛ちゃんの入れ歯が外れて
 私の手をがっつりと噛んだ
 それはとても愉快な記憶で
 笑い転げた朝のことである

 みんなみんな生きていた
 失うことなど知らなかった頃
 全てのことが永遠だったのだ

 愛ちゃんが危篤になったとき
 手を握ると握り返してくれて
 歌をうたってくれたのだった
 「お手々つないで野道を行けば」
 最後まで歌い終わると大きく息をし
 愛ちゃんはすうっと何処かに行った

 失うことなど知りたくはなかった
 この世に永遠など在りはしないのだ

 お骨を拾う時に入れ歯が転がっていた
 愛ちゃんが遺してくれた思い出である

 「みんなかわいい小鳥になって」

 愛ちゃんは今も空を飛び続けている


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