ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年08月15日(金) 母の終戦

猛暑日にこそならなかったが厳しい残暑であった。

けれども空を見上げればもう夏の空ではない。

ゆっくりではあるが確実に秋が近づいているのだろう。


今夜は義妹宅でお盆の宴会があり先ほど帰宅したところである。

本来なら長男である我が家でするべきところだが

仏壇は義妹宅にあり日々の供養も任せっ切りである。

独り暮らしの義妹にはそれも張り合いになっていることだろう。


ビールは我が家で準備したがお寿司やオードブル等は

義妹が準備してくれて美味しくご馳走になった。

賑やかな夜となり故人もどんなにか喜んだことだろう。


姑さんは生前から私の般若心経を聞きたがる人だったので

遺影に手を合わせながら拙くも唱えることが出来た。

ささやかなお盆の供養となれば幸いである。


母は昨夜も帰らず。今年はもう会えないのかもしれない。

黄泉の国にもお盆のしきたりのようなものがあり

初盆の時には特別な計らいがあるのかもしれない。

そんなことを考えていると母も自由にとはいかないのだろう。

祖父母や伯母たちのように帰れない魂があれば尚更のことに思う。

自分一人がとはいかない。それも母らしいことであった。

明日はもう送り火を焚かねばならない。何とあっけないことか。


終戦記念日でもあり今朝は祖父と母の詩を書いた。

7歳の母にとって「終戦」をどんな風に受け取ったのか定かではない。

「お父ちゃんが帰って来る」ただその一心だったのではないだろうか。


自分では満足のいく詩であったが結果は不評であった。

やはり「落とし穴」はあるのだなと受け止めずにはいられない。

おそらくあまりにも自己満足な詩だったのだろう。

そんな私のせいで祖父と母に寂しい思いをさせてしまったようだ。


ここに記すのも憚られるがお目汚しをお許し願いたい。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     しなちゃん

 欠片のように落ちて来る
 手のひらをそっと添えれば
 それは光り始めるのだった

 祖父は二度戦争に行った
 中国大陸だったようだ

 昭和13年母が生まれた時
 父である祖父は戦地に居て
 留守を守る家族が名前を付けた

 志那に居る父親の無事を祈り
 母は「しな子」と名付けられた
 その名を背負い母はすくすくと育った

 父親の顔も知らない
 抱かれることもなかった

 その名の願いが叶い
 祖父は無事に帰還したが
 また直ぐに招集令状が届いたと云う

 幼い母のあどけない姿が目に浮かぶ
 「せんそう」とは遠い旅だったのだ

 「おとうちゃん早く帰ってきてね」

 しなちゃんは手を振り続けていた
 真っ青な空はどこまでも続いている



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