お盆の切なさも何処へ。ただただ燃えるような陽射しであった。
早朝に同僚から電話があり昨夜お母様が亡くなった報せ。
施設に入居していたが持病の悪化が原因らしかった。
90歳の高齢でありもう仕方ないことだと同僚は云う。
いつも明るくて話し好きの朗らかな人であった。
「やはり人は死ぬのだな」と漠然と思う。
お盆の送り火と共に逝った魂の行方に心が痛んだ。
その数分後のことである。地震があり一瞬身構える。
日向灘を震源とする地震で宮崎では震度4だったそうだ。
高知県西部は幸い震度2と弱い揺れであったが
南海トラフが頭を過り不安にならざるを得なかった。
茶の間に居た夫はまったく気づかなかったそうで
呑気な人だなあと思う。夫にとっては平和な朝で何よりである。

朝食時に私の生まれ故郷である「江川崎」に行く話が持ち上がっていた。
久しぶりのことで嬉しくてならなかったのだが
朝から訃報や地震があり気分がざわざわと落ち着かない。
夫に中止を申し出たら「気分転換をせんといかん」と云ってくれて
予定通りに出掛けることになった。
「江川崎」は四万十市内であるが道路の整備が遅れており悪路が続く。
それでも国道添いの百日紅の花が見事に咲いており心が躍った。
眼下の四万十川ではカヌー遊びをする人も多く楽しそうである。
「道の駅よって四万十」の直ぐ隣は幼馴染の哲郎君の家であったが
姿は見えず洗濯物が干してあるだけでほっとするのだった。
もう60年近く会っていない。彼は元気にしているだろうか。
生家があった駅の近くにも行きたかったが夫に却下される。
「何度も行っただろうが」と何と意地悪なことだろう。
車は四万十川沿いに東へ向かう。大正、昭和と小さな町がある。
昔は村であったが今は「四万十町」の一部となっていた。
お昼も近くなり七子峠のラーメン屋さんを目指していたのだが
夫が近道を選んだのが最悪の結果となってしまう。
国道439号線に入り有名な「酷道」であった。
道幅は狭くくねくねとした山道ばかりであった。
対向車が来てもすれ違うことも不可能に思われる。
どうやら道を間違えたらしい。ナビを頼るととんでもない道であった。
「下津井」と云う集落を抜けひたすら前進していたのだが
何と目の前の道が崖崩れで大きな石が道を塞いでいるのである。
流石に夫も諦めたらしくやっとの思いでUターンをし引き返した。
お昼時はとっくに過ぎており私は空腹で気が狂いそうである。
「道の駅大正」まで戻りやっと昼食にありつけたのだった。
奮発して「鰻の混ぜご飯定食」を食べる。
鰻は少ししか入っていなかったがとても美味しかった。
ミニうどんもあり出汁が効いており大満足である。
散々な目にあったが夫は「面白かったな」とご満悦であった。
私の生まれ故郷はつかの間で酷道がメインのドライブとなる。
子供達がまだ幼かった頃のことである。
初めて夫が「江川崎」に連れて行ってくれた時のことを思い出していた。
その頃にはまだ私の生家もあり何と懐かしかったことだろう。
「また来ような」とその約束通りに夫は何度も連れて来てくれたが
ある日には生家は取り壊され更地になっていたのだった。
生まれ故郷でありながら何と寂しかったことだろう。
もちろん父の姿も母の姿も弟の姿も何処にもなかったのだ。
遠いようで近いその場所は私にとっては永遠に「ふるさと」である。
※以下今朝の詩(感傷的な詩で申し訳ないです)
断片
つつつつつと落ちていく 若き日の記憶はせつない あふれてしまえば零れる 添える手のひらがあつい
もう「きみ」とは呼べず 歳月の重みに耐えられない いっそ潰れてしまえと思う
あれは罪だったのだろう どれほどの傷だったのか 困惑でしかなかったのだ
圧し掛かる記憶をまるで 糧のように食してきた わたしは私でなければならず きみは君以外の何者でもない
真っ青な海である 私は胸元まで海になっていた
孤独ではなかったのだ 大声で私の名を呼ぶきみが 海になる瞬間を見た
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