ぶらんこ
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2006年08月09日(水) まっすぐ


    稲たち

    すくすくと育ってくれてる

    不思議
   
                            7月29日撮影



「結構、好き嫌いが激しいんだ」と言われた。
『だ』で終わっているのが『断定』なのか『問いかけ』なのかは不明。たぶん、どっちでもないのだろう。



何かをするとき、決めるとき、人は何を基準に行動を起こすのか。
わたしの場合は、「好きか嫌いか」なのだと思う。
こんなことを言うと、「こどもじゃないんだから、」と、(こころあたりから)言われそうだ。

好きか、嫌いか。
欲するか、欲しないか。
気持ちが満たされるのか、そうでないのか。
自分の気持ちだからね。自分にしかわからんだろう。

たとえ話をする(愚痴じゃないよ)。

毎朝、誰よりも早く職場へ到着し、掃除をする。
床を掃き、ゴミを集め、タオルを新しいのに替える。花や緑に水をやる。それから、仕事前に必要だと思われる準備をする。
ある朝、その人は言った。
「わたしがやらないと誰もやらないから。」

んんん?そうか???
それなら「しなければいい」のだよ。
あなたが「しない」ことで、誰かが「する」かもしれない。
少なくとも、誰かがそれを行う「機会」にはなる。

違うのだ。
その人が行っていることは、その人が「欲してる」からなのだろう。
それは「綺麗にすることが好き」なのかもしれない。
「綺麗にしてしまわないと気が済まない」或いは「人がするのを待つよりも先にやってしまいたい」性質なのかもしれない。
要は、「あなたが何をどうしたいのか」なのだ。

掃除しないことは「苦痛」だ。
誰も掃除しないことは、もっと「苦痛」だ。
誰も掃除しないでいるのを見過ごして我慢することは? たぶんもっともっと!「苦痛」なのだろう。
では、「綺麗にしたい」と想う気持ちの度合いは?
それらの苦痛よりも、もっと大きいだろうか、そうでもないだろうか。
どちらがあなたにとって大切?

うーーーかなり、くどい。。。。つまり。

自分が「欲している」ことを心から認識すれば、もっと気持ちが満たされるのじゃないかな、と思うのだ。
そうしたらば、「誰かが」などという言葉はなくなるだろうし、心がもっと豊かになるんじゃないかなぁ、と思う。
「わたしが好きでそうしたくてやっているのだ」ということ。


もちろん、「好き」という気持ちは不思議なもので、「苦痛」をも受け入れてしまうところがある。
こんな辛いのならやめてしまいたい。
なんだってこんなキツイことを選んでまでしてるんだろう・・・。
あーーー人を好きになんかならなきゃ良かった! などなど? 笑
人は苦痛の向こうに何を見ているのだろう?
そもそも「苦痛」とはなんぞや?


きっと、そういうことを味わうことで「しあわせ」を紡いでいくのじゃないかなぁ・・・と思う。
ただ純粋に「好きだ」という想いで、曲がったりなんだりしながらね。



marcellino |mail