ぶらんこ
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2006年08月19日(土)

    
    泡立つ、塩辛い水。
    四方から襲うでたらめな波。

                                    
                              いしいしんじ;『ポーの話』






「あんまり沖には行かんほうがいいよ、鮫がいるから。」
ウェットスーツ姿のおじさんにそう言われてビビってしまった。
慌ててはるか彼方、遠い沖にちびっこく見える青いフィンのこころの元へと向かう。
鮫がいるらしいことを伝えると、さすがのこころも一瞬うろたえた風。
彼女の手には網の紐がしっかりと握られている。海水のなかでは「がしち」がたっぷり、ゆらゆらと揺れている。
海に入ると俄然、生き生きとしてくるこころ。イルカみたいなヤツだ。と、いつも思う。
悔しいけれど、わたしよりも海の子。



海は不思議。
大好きだけれど、どこかで「怖れ」ている。
圧倒的な存在。それが海。
先のいしいしんじさんの言葉は凄い。
海のなかへ潜っていくときに感じる何かが目の前に表れる。そして、心のヒダ、細胞の奥深くまで滲みていく感じがする。



海のなかに潜るのが大好きだ。
たいした技量は持ち合わせていないので、せいぜい4mか5mくらいなのだろうけれど。
それでも海のなかはまったくの別世界で、心奪われてしまう。
そして、耳がツーンと鳴って、ほんの少しだけ、不安になる。
“Don't panic.”そんなときはそう言い聞かせて潜る。
浮上して息継ぎすると、大袈裟でなく、安心する。空気を深くふかく、吸う。
そうして、また潜る。
なんでだろう?自分でも不思議に思うのだけれど、しょうがない。
海のなかはどこか違っていて、それがとても魅力的でならないのかも。
ほんの少しの時間なのに、「永遠」と感じるほどに。
もしもスノーケルやマスクがなかったら、これ程でもなかっただろう。
フィン(足ひれ)もそう。
海のなかにいるときは、これらの道具が自分自身の身体の一部だといいな、と願う。魚になりたい、海のなかで。
変テコリンな願いだと思うと同時に、太古からの想いであるようにも感じる。
圧倒的に大きな存在である、海。






      がしち。
      捕れたがしちは浜で割って海水で洗う。
      身をスプーンで掬う。
      非常に贅沢だけれど、わたしが食べられるのはこの瞬間のものだけ。
      タッパーに入れて持ち帰ったものはもう美味しさが違う。
      ・・・瓶詰めで売っているものに関しては別の話。
      きっと防腐剤なんかが使われているせいかもね。。。。




この日の収穫のほとんどは、兄とこころによるもの。
わたしも捕ったけれど、こころの数には及ばず。
彼女は潜るとがしちもてらじゃ(とびんにゃ)もすぐに見つける。
レンズ入りのマスク(水中メガネ)が欲しい〜!と言っていたけれど、なんのなんの。
眼、すぅ〜ごく良いじゃーん、誰よりも〜。




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