ぶらんこ
index|past|will
中学の頃、新聞配達をしていた。 なんでそんなことを始めたのかすっかり忘れていたのだけれど、この前ふと思い出した。 あのとき、島を離れるひとつ上の従兄弟から譲られたのだった。 「新聞配達やる?」と聞かれて、「うん!やるやる!」と答えた。なんも考えず、いとも簡単に引き受けた。 もちろん、お小遣い稼ぎになると思ってのことだった。 なのに、当時いくら貰ったのか、まるでちっともでんでんまったく、覚えていない。 綺麗さっぱり、忘れてしまっている。
大丈夫、すぐに覚えられる。と、クン(従兄弟のことをそう呼んでいた)は言った。 クンとは2回くらい一緒に行って、配達の方法やルートを教わった。 まず村の入り口あたりにある家へ行って、そこのおばちゃんに挨拶をする。 おばちゃんは既に起きていて、何人かの人と一緒に、配る新聞をまとめてくれている。 そして、「はい、これね。」と渡される。 わたしの分は、大体50件分くらいだったように記憶している。 配り先は、鳩浜(はとばま)という新しい埋立地の集落だった。
自転車で順番に配っていくと、約1時間くらいで終了した。 一軒家が殆どだったが、何件かはアパートやマンションだった。 1階部分にポストのあるところは良いが、階段を昇ってって、それぞれのドアに差し込まなければならないところもあって、ちょっとキツかった。
新聞はいつも幾つか余分に入っていた。 その分は、「家に持って帰っていいよ。」とおばちゃんから言われていた。 なのに、まったく余らなかったり、逆に余り過ぎたりした。 つまり・・・・実を言うとわたしは配達先をきちんと把握していなかった。 この家、そうだったかなぁ。。。。。そんな風に感じながら配っていた。 だから、余っているとどうも不安になって、最初の方へと戻って反芻しながら、余らぬよう適当に配っておいた。
翌日になって何度か、「新聞が配達されなかった」という苦情をおばちゃんから言われたことがあった。・・・ように思う。 あまり覚えていないけれど、確か、怒られた記憶がある。 苦情がないワケがない。毎朝、ギャンブルをしているような気持ちで配っていたのだから。
寝坊して、おばちゃんから電話が入り、母に叩き起こされたことも何度かあった。 そんなときは、学校には遅刻しても、新聞配達を休むわけにはいかなかった。 なんで起きれなかったんだろう、、、と悔やみながら、これまた適当に配った。
なんて「てげぇー」なバイトだろう。 これでよくお金をいただけたモンだ。(たぶん、貰えていたと思う。)
わたしが新聞配達をしていた埋立地は、当時は新興住宅地だったのに、今ではかなり古びた集落になってしまった。 堤防近くにあるアダンは自生なのか植えられたものなのか、もう区別が付かないくらいに大きく育っている。 埋め立てられてから・・・ざっと計算しても35年くらいになるのかな。 人が移り住むようになって30年くらい。。。。 あの頃とおんなじ風景は、堤防から見る水平線くらいだ。
新聞配達を終えて、太鼓橋を渡って家に帰る頃、ときどき会う少年がいた。 彼も新聞配達少年だった。 そう言えば、当時新聞配達をしていたのは、陸上部の連中が多かった。 考えてみたらクンも陸上部だった。 みんな、体力づくり・トレーニングとして、配達していたらしい。 わたしは・・というと、帰宅部だった。 ときどき会う少年はテニス部だったが、退部して帰宅部になった。 アウト・サイダーという点で、妙な親近感を持っていたんだった。。。。
なーんてことまで思い出した、三角ブロックの上。
|