ぶらんこ
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2006年09月17日(日) 三角ブロック

   

   
                   






中学の頃、新聞配達をしていた。
なんでそんなことを始めたのかすっかり忘れていたのだけれど、この前ふと思い出した。
あのとき、島を離れるひとつ上の従兄弟から譲られたのだった。
「新聞配達やる?」と聞かれて、「うん!やるやる!」と答えた。なんも考えず、いとも簡単に引き受けた。
もちろん、お小遣い稼ぎになると思ってのことだった。
なのに、当時いくら貰ったのか、まるでちっともでんでんまったく、覚えていない。
綺麗さっぱり、忘れてしまっている。


大丈夫、すぐに覚えられる。と、クン(従兄弟のことをそう呼んでいた)は言った。
クンとは2回くらい一緒に行って、配達の方法やルートを教わった。
まず村の入り口あたりにある家へ行って、そこのおばちゃんに挨拶をする。
おばちゃんは既に起きていて、何人かの人と一緒に、配る新聞をまとめてくれている。
そして、「はい、これね。」と渡される。
わたしの分は、大体50件分くらいだったように記憶している。
配り先は、鳩浜(はとばま)という新しい埋立地の集落だった。

自転車で順番に配っていくと、約1時間くらいで終了した。
一軒家が殆どだったが、何件かはアパートやマンションだった。
1階部分にポストのあるところは良いが、階段を昇ってって、それぞれのドアに差し込まなければならないところもあって、ちょっとキツかった。


新聞はいつも幾つか余分に入っていた。
その分は、「家に持って帰っていいよ。」とおばちゃんから言われていた。
なのに、まったく余らなかったり、逆に余り過ぎたりした。
つまり・・・・実を言うとわたしは配達先をきちんと把握していなかった。
この家、そうだったかなぁ。。。。。そんな風に感じながら配っていた。
だから、余っているとどうも不安になって、最初の方へと戻って反芻しながら、余らぬよう適当に配っておいた。


翌日になって何度か、「新聞が配達されなかった」という苦情をおばちゃんから言われたことがあった。・・・ように思う。
あまり覚えていないけれど、確か、怒られた記憶がある。
苦情がないワケがない。毎朝、ギャンブルをしているような気持ちで配っていたのだから。


寝坊して、おばちゃんから電話が入り、母に叩き起こされたことも何度かあった。
そんなときは、学校には遅刻しても、新聞配達を休むわけにはいかなかった。
なんで起きれなかったんだろう、、、と悔やみながら、これまた適当に配った。

なんて「てげぇー」なバイトだろう。
これでよくお金をいただけたモンだ。(たぶん、貰えていたと思う。)



わたしが新聞配達をしていた埋立地は、当時は新興住宅地だったのに、今ではかなり古びた集落になってしまった。
堤防近くにあるアダンは自生なのか植えられたものなのか、もう区別が付かないくらいに大きく育っている。
埋め立てられてから・・・ざっと計算しても35年くらいになるのかな。
人が移り住むようになって30年くらい。。。。
あの頃とおんなじ風景は、堤防から見る水平線くらいだ。


新聞配達を終えて、太鼓橋を渡って家に帰る頃、ときどき会う少年がいた。
彼も新聞配達少年だった。
そう言えば、当時新聞配達をしていたのは、陸上部の連中が多かった。
考えてみたらクンも陸上部だった。
みんな、体力づくり・トレーニングとして、配達していたらしい。
わたしは・・というと、帰宅部だった。
ときどき会う少年はテニス部だったが、退部して帰宅部になった。
アウト・サイダーという点で、妙な親近感を持っていたんだった。。。。


なーんてことまで思い出した、三角ブロックの上。



   


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