ぶらんこ
indexpastwill


2008年01月27日(日) こども

わたしはこどもが嫌いだ。   と、よく言う。
でも厳密には、「嫌い」よりも「苦手」。まぁおんなじようなモンだけど。

こどもたちは嫌いじゃない。
どちらかというと、好きなのだと思う。
こどもは希望の光。

たぶん、わたしが「嫌い」だと感じるのは、自分がこどもに振り回される状況に陥る事態なのだと思う。
無駄なことだけど、「嫌い」と宣言することでそれを避けようとしているだけなのだろう。


「わたし、こどもに好かれるのよ」と、こころが言う。
わたしもそうだよ。でもね〜ちょっとね〜。


こどもと一緒に遊ぶ⇒こどもの人気者になる⇒こどもはもっと楽しくなる⇒わたしもなぜか楽しくなる⇒収拾がつかなくなる⇒非常に困る

思うにわたしは、「収拾がつかなくなる」の手前にあるべき段階の技術(心?)が欠けているのではないか。



彼らはそういうわたしの性質をいともたやすく見抜く。たぶん本能で。
そして、「あ、このオバチャンちょっと違う・・・」と、さらに近寄ってくる。
困る。非常に困る。慕われても困るのだ。

「わかるようなわからないような・・・」と、こころが笑う。


それは、ライン取りが「曖昧」ということ。つまり気持ちのゆるさ=ちゃらんぽらんさ。
そういう匂いをこどもは感じ取る。わらわらと寄ってくる。
こちらとしてはもうお手上げだ。


でも、ある意味こどもはしっかりとした線引きを望んでいるとも言える。
そうしてくれたほうが楽。と、どこかでわかっているのかもしれない。
「ここで言ってくれたら止めるのに」
「あそこで叱ってくれたら止められたのに」
無意識にそういうのがあるんじゃないかな。。。

で、「収拾がつかなくなる」というのは、その辺りが関係しているのだ。たぶん。
わたしは、「まぁ良いんじゃないの」という感じで見ている。
自分たちでなんとか出来るでしょ。と見ている。
出来なければ出来ないでも、なんとかなるでしょ。と思う。
こどもにはこどものルールというか、あるのだな何かが。だから下手に口出ししても。。。

と書くと、随分とこどものことをわかっているような言い方だが、そうでもなく・・・。
つまりは無責任なのだろうな、と思う。
まぁ「こども」といっても、一括りには出来ないけど。
個の性質もあるし、3歳児と4歳児といった、成長段階の違いもあるし。



教会で、2歳くらいの女の子がやんやんとぐずっていた。
お母さんやお姉ちゃんが、なだめながら「しぃ〜っしぃ〜っ」と教えている。
自分がちっちゃい時もああだったか?とこころが訊く。
「うん。あんなだったよ」
「わたしが大きな声出したら外に連れてったの?」
「まぁね酷いときはね。でもなるべくは連れ出さないようにしてたけど」
「なんで?」
「大声出せば外へ行ける、ってわかるから。こどもはそういうのわかるのの天才だから」
「マミィっておもしろ〜〜〜い!」
冗談じゃない。真剣だ。



こどもは嫌い。こどもは苦手。
どんなに声高に宣言しても、彼らはわたしのことをじーっと見つめ、にこにこっと屈託なく笑う。
ハート大全開だ。

いやはやそんなことをされると・・・ホントのほんとに困るから。





marcellino |mail