ぶらんこ
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わたしはこどもが嫌いだ。 と、よく言う。 でも厳密には、「嫌い」よりも「苦手」。まぁおんなじようなモンだけど。
こどもたちは嫌いじゃない。 どちらかというと、好きなのだと思う。 こどもは希望の光。
たぶん、わたしが「嫌い」だと感じるのは、自分がこどもに振り回される状況に陥る事態なのだと思う。 無駄なことだけど、「嫌い」と宣言することでそれを避けようとしているだけなのだろう。
「わたし、こどもに好かれるのよ」と、こころが言う。 わたしもそうだよ。でもね〜ちょっとね〜。
こどもと一緒に遊ぶ⇒こどもの人気者になる⇒こどもはもっと楽しくなる⇒わたしもなぜか楽しくなる⇒収拾がつかなくなる⇒非常に困る
思うにわたしは、「収拾がつかなくなる」の手前にあるべき段階の技術(心?)が欠けているのではないか。
彼らはそういうわたしの性質をいともたやすく見抜く。たぶん本能で。 そして、「あ、このオバチャンちょっと違う・・・」と、さらに近寄ってくる。 困る。非常に困る。慕われても困るのだ。
「わかるようなわからないような・・・」と、こころが笑う。
それは、ライン取りが「曖昧」ということ。つまり気持ちのゆるさ=ちゃらんぽらんさ。 そういう匂いをこどもは感じ取る。わらわらと寄ってくる。 こちらとしてはもうお手上げだ。
でも、ある意味こどもはしっかりとした線引きを望んでいるとも言える。 そうしてくれたほうが楽。と、どこかでわかっているのかもしれない。 「ここで言ってくれたら止めるのに」 「あそこで叱ってくれたら止められたのに」 無意識にそういうのがあるんじゃないかな。。。
で、「収拾がつかなくなる」というのは、その辺りが関係しているのだ。たぶん。 わたしは、「まぁ良いんじゃないの」という感じで見ている。 自分たちでなんとか出来るでしょ。と見ている。 出来なければ出来ないでも、なんとかなるでしょ。と思う。 こどもにはこどものルールというか、あるのだな何かが。だから下手に口出ししても。。。
と書くと、随分とこどものことをわかっているような言い方だが、そうでもなく・・・。 つまりは無責任なのだろうな、と思う。 まぁ「こども」といっても、一括りには出来ないけど。 個の性質もあるし、3歳児と4歳児といった、成長段階の違いもあるし。
教会で、2歳くらいの女の子がやんやんとぐずっていた。 お母さんやお姉ちゃんが、なだめながら「しぃ〜っしぃ〜っ」と教えている。 自分がちっちゃい時もああだったか?とこころが訊く。 「うん。あんなだったよ」 「わたしが大きな声出したら外に連れてったの?」 「まぁね酷いときはね。でもなるべくは連れ出さないようにしてたけど」 「なんで?」 「大声出せば外へ行ける、ってわかるから。こどもはそういうのわかるのの天才だから」 「マミィっておもしろ〜〜〜い!」 冗談じゃない。真剣だ。
こどもは嫌い。こどもは苦手。 どんなに声高に宣言しても、彼らはわたしのことをじーっと見つめ、にこにこっと屈託なく笑う。 ハート大全開だ。
いやはやそんなことをされると・・・ホントのほんとに困るから。
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