6日 6時ごろ冷たいお茶を飲んだらおなかが痛くなってきた。 トイレにいきながら「こういう時でもでるもんはでるんだなあ」なんて思ってた。
妹が買ってきた朝ごはんを食べて身支度をしてまた母の前に座る。 今日で最後か 今日で母の肉体と別れるんだ そう思いながら
告別式にはまた会社の人が来てくれていたが「今日月曜日なのにチームミーティングはどうしたんだろう」などと課長の顔を見ながら考えたりもした 結局事業部としてではなくチーム全員が来てくれた ありがたいと思った
それとぎりぎりにお知らせしたにもかかわらず飛んできてくれた方もいた 暑い中汗をかきながら 母は晴れ女だったから昨日も今日もかんかんに晴れちゃってすいません
母が火葬場にいく車に乗せられたとき「まだ間に合うんじゃないか」とふと思ったとたん涙が止まらなかった。やっぱりダメなのか もうダメなのかとおかしな焦燥感に駆られていた。 炉に入れるとき妹がきっとこの先こんなふうにはもう泣かないだろうという子供のような大泣きをした。私と妹はずっとずっと扉の閉まった炉を見つめていた。
火葬を待っているときオットと建物の外に出てた。 青い空に白い雲 暑い夏の空気 「この空の青さは忘れずにいなくちゃだね」 とオットが言った。 天に昇る というけれど 煙は確かに空に昇る いま変換して気がついたが私の母は「昇子(のりこ)」という。 その名のとおり昇ったのだな といまそう思った。
母の骨はかなりしっかり残っていた。 祖母や祖父とはくらべものにならないほど原形をとどめていた。 最初に私と父が入れた。 二人一緒に入れるのだが奇数だったためオットが最後に残った。 結局最初と最後を私たち夫婦で納めたことになる。
父は弔辞の中で「華のような人生」と母を語った。まさに色んなことが絶え間なく押し寄せ安らかだったのは孫が生まれたときから病気が悪化するまでの2年。つまり病気になった期間と同じだけ母は幸せだったという、ちょっと皮肉な最後だった。
入院中母が「これまでの2年間が人生で一番楽しかった。一番うれしかったのは(悦子が)一緒に死んでもいいよ と言ってくれたこと。」と言ったことがある。 ふつうの状態の母なら「一緒に死ぬなんて」と怒るところだが 母は「悦子が一緒なら」ともしかしたら何度か思ったのかもしれない。 妹のことは素直に愛し案じ 私のことは案じるのと同じくらい頼っている人だったから。
経和院綸美光華大姉(けいわいんりんびこうかだいし)
母の美しい響きの戒名は寺ではなく父が尊敬する人からつけていただいた。 母にふさわしいと思う。
精進お年やほかの雑務を済ませた後自宅に戻った。 喪服や衣類の整理をしていると友人から電話があった。
そのとき彼女は「ホームページの様子と普段のメールや会ったときの態度とのギャップがありすぎて心配だ」といった。 この日記は父にも妹にも会社でもオットの前でも出せない出さないようにしている鬱々とした暗い気持ちをぶちまけていたので いざ対面したときはそういうものを少し置いてきているから 普通に見えるのだろう。 それが空元気だったらどうしよう と心配させたようだ。
目を閉じるとたくさんの母の顔が浮かぶがどれも病院でのことだ
病院食が食べられなくて だけどおなかがすいてすいて困り果てていたときに私がひょっこり顔を出したら「えっちゃあぁん」と泣きそうな笑顔で空腹を訴えてきたこと 御衣黄(みどりのさくら)を見たい見たいというので手に入れたら喜んでくれたこと 旅行の思い出をうれしそうに話してくれたこと 苦しくて苦しくて吐いてしまったときに「あんたのいるときでよかった」となみだ目で言ったこと お誕生日の朝「おかあさんいきてるよぉ いきてるよねぇ」と両手で私にしがみついてきたこと 血圧を測るために母の腕を押さえつけたとき「死にたいのよ」と絶叫したこと 焦点の合わない目でにらまれたこと
どれを思い出しても「ほんの少し前のことなのに」と悲しくて悲しくて もう母のためにしてあげられることが何一つないんだ 病院に行かなくてよくなってしまったんだ 携帯の圏外を気にしたり 妹や父からの着信におびえたり そういうことは全部なくなってしまったんだと 自分をもてあましている
携帯といえば母の携帯はもう2週間も充電していないのだが少なくとも昨日見た時点まではまったく電池が減っていないのだ ずっと電源が入りっぱなしだというのに 父が「自然に切れるまでこのままにしておこう」と言った。 そのうち解約するが着信と発信履歴は家族のものばかりで5月からこっちは一度も発信していない。 病室に電話があったこともあるが母が自分で電話をする力がなくなっていたことを物語る。
電池が切れるときが 母のこの世へのかかわりが切れるとき そう思っている。
私を支えてくれたたくさんの皆さんに 心から御礼申し上げます。
chick me
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