ふつうのおんな

2006年06月03日(土) 午前4時3分

午前4時から携帯の液晶に照らし出された時計の表示を見ていた。

ああ、このころ病室に看護婦さんたちが飛び込んできて母にマッサージをしていたんだっけ。

1年が経つ。
1年が経つんだ と泣きそうになっていたら突然夫の携帯が鳴った。

驚いていたら夫が「タイマーかけてたんだ」と言った。

明日の一周忌に夫は行かない。
行かないけれど夫は夫なりに母を愛し夫なりのやり方で母をしのんでいる。
それで十分じゃないんだろうか。

先週の28日母の59歳の誕生日、お墓参りに行った。夫と。
5本のピンクのバラと4本の白いバラと1本の赤いバラ。

母の入院中、何度か一本600円するバラを買った。
一本だけ買って病室に飾ると母はすごく喜んでいた。
本当は去年のお誕生日には抱えきれないくらいのバラをあげたかったが、あのころはもうコミュニケーションをまともに取れない状態だったし、花の香りで気持ち悪くなってしまうかも知れず 少ししかあげられなかった。
ただ、もう寝てるんだか起きてるんだかわからない状態の母を囲んで父と妹とハッピーバースデーを歌った。
父が、泣きながら歌った。

私は母の一部で 母は私一部だった。
子は、自分の子を持たない限り自分の親と繋がっているんだろう。
自分の子を持ってはじめて自分の親との繋がっているものを自分の子供に繋ぎかえるのではないだろうか?
だから母が逝ったとき 私の一部も確実に持っていかれている。
妹も同じように母の死を悲しんでいるが、妹には二人の子供があり 妹はその子達のために自分の命を投げ出すことに躊躇しなくても 母のために自分の命すべてを捧げることはできない。
妹がすでに親だから。子への責任があるから。

なにを馬鹿げたと思われるだろうが、私は母が「一緒に逝って」といってくれたら一緒に死んでもよいと本気で思っていた。
母が苦しむ姿を見ながら 私の命をいくら持っていってもいいから この苦しみからだけでも救ってくれないものかと毎日毎日願っていた。
人は一人で産まれてきて一人で死んでいくものだけれど、母を一人で逝かせる事が申し訳なくて 母が哀れで たまらなかった。

母は死に怯えていた。
怯えを見せないように耐えている姿に ありありと怯えが浮かんでいた。

私は母にずっと囚われている。


母は結婚してから母が受けてきた苦しみ、悲しみのすべてを染み込ませるように私に残していった。
喜びももちろんくれたけれど 人は負の感情のほうが鮮明に覚えているものだ。

いつか書いたかもしれないが、私の母は商売人の長女で父は医者一家の長男だ。
ふたりの結婚への反対はすさまじく、結婚を決めていた父と母は私をつくり それから籍を入れたのだが父の姉夫婦は 生まれて数日の私を抱きお乳をやる母の枕元で それはそれは 残酷な言葉を投げつけたそうだ。
「私」という自分が腕に抱いている命を否定された母はショックで母乳が止まった。

それでも母が父の親戚との付き合いを続けたのは、母自身が認められたくて懸命だったからだ。
父が病気になったときも いろいろ仕出かしたときも母は耐え支え 私が生まれて10年ちょっと経ったときようやく「あなたが息子を支えてくれている」と認めてくれるようになったそうだ。
といっても、そのさらに後 亡くなる1年前の田舎での法事で胃がんの母への配慮は薄く 母は体調を崩して帰ってきた。

そしてそこでまた拒絶の気持ちが強くなった。

父は自分の姉妹たちに母の病状を連絡し、見舞いを受け入れた。
伯母たちの見舞いの数日前まで母はまだシッカリしていたので、それとなく「伯母ちゃんたちくるかも」と告げたとき「こんでよか(=来なくていい)」と母はハッキリ拒否した。
しかしそれを父に言ったところで この状態で父と母がひと悶着あることはさけたかったので 私はそっと父に「あんまり今の自分を見せたくないみたいよ」とだけ言った。

父は伯母たちの見舞いたい気持ちを優先した。
というか、母がそこまで嫌がっているとは思っていなかったのだろう。

だから葬儀の際に父の姉の夫、つまり伯父が、伯母と一緒になって母にひどいことをいってしまったと泣いて詫びたとき「死んでから私に言ったって遅いんだよ」と私はさめた気持ちになった。

それでも私はたとえば何かの用事で田舎に行ったとしたら、彼らと付き合うことはできる。
心を開いた付き合いではないが。
母の残した気持ちは 強い。

私は父とよく似ている。
父が嫌がること 好きなことが手に取るように分かる。
父が自分の兄弟を尊重する面が私にもあり、父が母に暗黙のうちにしてきたように 自分の夫に自分の側のやり方に従ってくれるよう押し付けてきた。

伯母と母との間ほど陰惨ではないが、夫と私の妹との間にも苦いものがある。
夫は妹とのいさかいの後のこれまで3年間 ずっと我慢してきてくれてた。
私はそれに甘え いつか薄れてくれるんじゃないかと勝手な希望でここまできた。

5月半ば、母の弟が夫に仕事に関することで迷惑をかけた。
その日まで夫は明日の一周忌には参列してくれるつもりでいたのに すべて壊れた。

夫に もうお前にまつわるすべてと関わりたくない と言われた。離婚だ。

私自身にも至らないところはあるが それ以上に私にまつわる私側のすべてが嫌になったというその気持ちは今の状態を続ける以上変わることもなあなあになることもない 濃い決別の意思だった。

私は 考えに考えた。

自分の母が父の姉妹に気を遣って生きてきた30年間を考えると 夫に同じ種類のものを強いるのって間違いなんじゃないだろうか?
私は嫁いでいるはずなのに、自分の家の側にどう思われるかに囚われすぎていたんじゃないか。
親の思惑からなるべく外れたくないとそればかり気にするただのガキなんじゃないか?

私の父は夫に対して普通の娘婿に接する以上に気遣いをくれる。
そんな父を夫も好ましく思っている。一緒に旅行ができるほどに。
だからこそ夫は感謝と窮屈さとで 苦しかったと思う。

私は 妻である以上に 父と母の娘である部分が強すぎて ちっとも夫の側に立てていなかった自分を恥じた。

父や妹たちと交流を断っても 血のつながりは消えない。
が、夫とははんこをついてしまえば赤の他人だ。
子供もいないのでしがらみもない。
書類一枚で他人になってしまう夫に対して 私は誠意を尽くしてきただろうか?

いや できてきてない

結婚して丸五年経つが 少なくともそれと同じだけの時間 夫とだけ向き合って生きていこうと思う。

明日、父と妹たちにこの話しをするつもりだ。

chick me
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