島尾敏雄の「死の棘」を初めて読んだのは高校生のときだった。
売れない物書き トシオ 妻 ミホ
子を二人設けるもののトシオはとっかえひっかえ愛人を作り、10年もの間ミホをだましていた。 ある日唐突に秘密が露見する。 トシオの日記だ。 微にいり細にいり、女たちとの情事の様子やミホへの不満がつづられた、誰にも見せる予定のなかった日記。
物書きのサガかもしれないが、そんな自分の感情の吐露つきの暴露を残しておくなんて浅はかという以外ない。
隠し通さなくてはならない秘密というのは 隠したい対象の生活する場に持ち込んではいけないのだ 絶対に
トシオのような人間というのは 浮気が露見したときに自分は 家族は 相手の女はどうなるか というイメージが貧困なのだ
男は妻が自分以外の男と性行為をもつことそのものに一番嫌悪を抱くが 女は「どういう関係」であったか という事に重きを置く。
つまり プロフェッショナルな女性にお金を払って受けてくること と テレクラや出会い系サイトで一晩限りの相手とセックスすること と セックスフレンドを持つこと と 愛人を作ること は 全部違うのだ。
最初の金銭が介在しているケースがもっとも軽い。 最悪が愛人だ。
更に言えば、その愛人が既婚者である または 男が既婚者であることを知っているケースだ。 その場合は肉欲過剰な恋愛関係というだけでなく、共犯者だからだ。 本来家庭でくりひろげるはずの幸せの時間を横取りしているのだから、優越感は満たされる。
トシオは、しおらしい顔をしつつも自分を貪欲に求める愛人をいとしく思い、なにもしらずに暢気にしている妻が愚鈍に感じられていく。 家庭では妻に心からの思いやりや愛情を注ぐことはない。 なぜなら愛人のほうでやさしさを浪費してきているので、愛情が枯渇しているからだ。
だからミホを「不具(差別用語:体に障害のある人)」と表現して日記につづったりもする。 (この場合の「不具」は「不感症」「性の嗜好の不一致」などの性的な意味で使われているようだ。)
愛欲を外で満たす以上、トシオはミホにはキスひとつしなくなっていく。 ミホは夫が不在の夜はだまって台所にたたずみ帰りを待つしかなかった。 そして女の家に足しげく通うトシオの姿を、職を求めてのことだと思い、健康に気を遣った食事をつくったり育児を一手に引き受けてきた。
よぶんな家計費はださなくとも、女には土産を買っていったり旅行に連れていってついぞ見せたことのないやさしい表情で写真に納まったりする。 日記だけでなく写真が何枚も見つかる。
耐えに耐え、愛しつくしてきたミホの心は壊れた。
トシオがいくら悔い改めると言ったところで長い年月欺かれてきたことへの不信感が爆発し 「これだけずっと騙してきた人のいう事をどうやれば信じることが出来るか。今言っていること(金輪際裏切らない など)もきっと嘘になる。」 という猜疑心が心の中をどす黒く占める。 それでもトシオを愛してきた自分もいて、トシオの言葉をもう一度信じようともする。
一方的にトシオに関係を切られた愛人は逆上してヤクザを引き連れて脅してくる。 (トシオは別れる際に「妻に知られた もう会えない」といいつつも「好きだ」と愛人に告げている。 それもミホはあとをつけていたので知っているのだが、別れ際に愛人に会えなくなっても好きだとつげる夫の姿は ミホにどれほどの屈辱を与えただろう。 愛人に「心は君のものだ」と言っているのと同じ事なのだ。 トシオって 男って・・・)
ミホは「正妻なんだからこちらにやましいことなどない」と言いながらも、自分の受けなかった愛を一身に受けた愛人に、同じ女としてどんな蔑みを受けるかがおそろしくて逃げ回る。
ミホが逃げたのはヤクザが一緒だからではなく、愛人からの侮蔑を受けるそのシチュエーションだ。 自分が妻として受けることのなかった愛をうけてきた愛人とどう対峙していいのかわからない。 正妻であるという主張こそが、愛されなかった女の最後の砦のようだ。 ただでさえボロボロなところにその類の「愛された側の自信」を見せつけられることへの嫌悪と恐怖がトシオには理解できていない。
愛人とトシオとミホ 間違いなく一番心を痛めたのはミホだ。 だからトシオはひたすらになだめ頭を下げ続けるのだが、ミホが同じことを繰り返し追求してくることをたまらなくうっとおしく思う。 うっとおしく思う時点で 一体どうしたらミホが癒されるのかを、ミホがなにで一番苦しんでいるのかをトシオはやはり分かっていないのだ。
戦後の話なので自営業以外は女はほぼ皆専業主婦だ。 夫と別れたら経済的にも自立は難しく、「裏切られたから別れる」と簡単にはいかない時代だからこそこの話は成り立っている面もあるだろう。 今の時代であれば「別れる」という選択が一番平和で安易だ。
ミホのようにはなりたくない と全ての女が思っているはずだ。
それでもミホはそこかしこに、いる。
chick me
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